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世界の音楽情報誌「ラティーナ」

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#ファド

[2022.6]【連載シコ・ブアルキの作品との出会い㉘】ポルトガルのファドの熱帯版とは、これいかに - 《Fado tropcal》

文と訳詞●中村 安志 texto e tradução por Yasushi Nakamura

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【松田美緒の航海記 ⎯ 1枚のアルバムができるまで①】 『Atlântica』 ⎯ 大西洋は深かった ⎯

▼ 【松田美緒の航海誌 ⎯ 1枚のアルバムができるまで①】 『Atlântica』 ⎯ 大西洋は深かった ⎯ 文●松田美緒  2004年夜な夜なファドを歌い歩いたリスボンの留学が終わる頃、7月にブラジルのミナスジェライス州の冬の音楽祭出演の仕事と、8月にはカーボヴェルデのホテルに歌いに行く仕事をもらった。  ブラジルはポルトガル語圏の国々のミュージシャンが一堂に会するイベントで、カーボヴェルデ、サントメのミュージシャンと赤土の大地300キロを旅した。リオ発着だったため

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[2021.02]【島々百景 第57回】リスボン|ポルトガル

文と写真:宮沢和史  旅についてのインタビューを受ける時、「海外で暮らすとしたらどこがいいですか?」と聞かれることがある。一応今までに旅をしてきた街を思い浮かべてはみるものの意外と思い浮かばない。頭の中で地球儀が一回転回ってやはり日本がいい、という結論になる。当たり前のことだけれど、それぞれいいところもあれば悪いところもある。理想的な国なんていうものは存在しないのだろう。我が国に対し言いたいことは日々増すばかりだが、他と比べて秀でている部分が多いのも確か。海外に出るとつくづ

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[2020.11]【TOKIKOの地球曼荼羅④】 ポルトガル、運命のファド 〜ファドを辿る旅〜

文●加藤登紀子 ① アマリア・ロドリゲスとの出会い 私とファドの出会い、と言えば、ごく当たり前。ファドを代表する歌手、アマリア・ロドリゲスだった。  レコードも発売され、来日公演も何度も見ることができたので、ごく自然に彼女の歌をカバーすることから始まった。  1972年に結婚した後の1974年、長谷川きよしさんと「灰色の瞳」をデュエットし、ワールドミュージックのジョイントコンサートを開いたことから、いい曲はどんどん日本語にして歌っていこう、という姿勢だったので。

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[1983.04]1983年“リスボンの春”

文●井上 憲一   《カーネーション革命》から9年、「犬もほえない」と陰口をたたかれていた ポルトガルも、政策の成功 失敗 で右へ左へ揺れ動くバイタルな国へと変化してきた。「西欧の片田舎」が長い眠りから覚め、動き出したのである。ところで、音楽はいつもそんな動きを反映するもの。ファドの国ポルトガルで はどうだろう。 革命からちょうど9年後の4月9日、総選挙の真只中 のリスボンに足を向けた。 やはり聴こえてきた、新しい歌が… 「ファドの国」へ  空港出発ロビーのテレビが、フ

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[1987.06]ジョゼ・アフォンソの死に一本のカーネーションを…

文●井上憲一  グランドラ・ヴィラ・モレーナ   テーラ・ダ・フラテルニダーデ…  「グランドラ・ヴィラ・モレーナ」の歌とともに、彼の姿を最初に目にしたのは、1982年春、フランスの地方都市ブルジュの、有名なポピュラー音楽祭 ブルジュの春」でのことだ。そしてそれが、僕にとっては、彼との最後の出会いともなってしまった。  彼のファースト・ネームはジョゼ、ファミリー・ネームはアフォンソ、ともにポルトガルではありふれた、きわめてポピュラーな名である。ポルトガルの人々は、敬意と親

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[2017.10]アマリアに導かれるようにファド歌手になった女性歌手〜カルラ・ピレス来日

文●花田勝暁  再興するポルトガルの音楽「ファド」のシーンから、アマリア・ロドリゲスに導かれるようにファド歌手になり、最実力派の中の一人と注目されてきた女性歌手のカルラ・ピレスが来日し、10月末から約一ヶ月全国ツアーを行う。  カルラ・ピレスは、1993年にテレビ局の歌手オーディション番組に出演したことをきっかけに歌手デビューした。当時、女優と並行して行っていた歌手活動ではファドではなくポップスを中心に歌っていた。転機となったのは、アマリア・ロドリゲスの死から3年後の20