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[1982.06]連載① アストル・ピアソラ物語〈青春時代〉

この記事は中南米音楽1982年6月号に掲載されたものです。
アストル・ピアソラは、1921年3月11日生まれ。ピアソラの生誕100年を記念し、当時の記事をそのまま掲載いたします。
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文●高場将美

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 今年1月、ついにアストル・ピアソラが日本にやってくる。ピアソラの音楽をより深いところまで味わうために、この連載をスタートする。
 あまりにも前衛的な作風のゆえに、アルゼンチン・タンゴ界で異端児と呼ばれ、時代が彼の音楽を容認し、積極的に求めるようになるまで、彼の人生は、まさに波乱万丈であった。天才ピアソラの足跡をたどることは、つまりタンゴ史が残してきた問題の跡をたどることと言っても過言ではないだろう。
 本誌では、ピアソラの来日を前に、いろいろな形で彼の音楽を研究して行くが、これはその第一弾である。〈編集部〉

1 ニューヨーク……ジャズの時代

 ニューヨーク/1924年。
 この年の2月12日、エオリアン・ホールで、ジャズとクラシックの融合をはかった、最初の成功したコンサートがあった。ジョージ・ガーシュイン作曲、グロフェ編曲、ポール・ホワイトマンのオーケストラによる『ラプソディ・イン・ブルー』。この時から、ジャズは知識人や芸術愛好家の好奇心もひくようになる。
 この同じ年、ジャズともドビュッシーとも、華やかなエリートの社交界とも関係がなく、ニューヨークにやってきた3人家族がいた。
 ピアッツォッラとイタリア系の苗字をもっていたが、イタリア移民ではなかった。イタリアの血を純粋にひいていたけれど、アルゼンチンを経由して来た、アメリカでお金をかせごうという一家だった。ニューヨークで、お金持ちのイタリア人はチャイナタウンのそばに住んでいたが、ピアッツォッラ一家は、貧しい南部イタリアの移民が南アメリカ人たちと雑居していたグリニッチ・ヴィレジ、セントマークス・プレース8番地に住みついた。
 ピアソラ(これからはスペイン語よみにしよう)一家は、アルゼンチンの大西洋岸の町マルデルプラタから来た。1890年代から、この国最高のリゾート地として名高い、海水浴場とカジノのあるしゃれた土地である。夏には首都ブエノスアイレスからたくさんの人がやってきていた。

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父 ビセンテ・ピアソラ

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生後3ヶ月のピアソラと母アスンタ

 ビセンテ・ピアソラ。彼の父はイタリア南部からアルゼンチンに来た移民、漁師で船員、夏には海水浴場の監視人として、ご婦人たちの肉体を男どもの目から守る役目だった。ビセンテ自身はマルデルプラタでは主に自転車を売るのを商売にしていた。
 ビセンテの妻アスンタ。 その父は富裕な農園主で、トスカーナ地方からアルゼンチンに来たひと。同じイタリア二世でも、ビセンテとは身分がちがったはずだが、惚れこんで結婚してしまった。
 ビセンテとアスンタというイタリア二世のあいだに生まれた唯一の子供、アストル・ピアソラ。ニューヨークに来たころ、両親は二十代、アストルは3歳だった。
 アメリカ大陸の大西洋岸の町から町へ、ドルの力にひかれて、南から北へ地球を4分の1まわって渡ってきたピアソラ家は、必死に働いた。ビセンテは床屋につとめ、アスンタは布のコートに毛皮のえりを付ける工場に行き、のちには美容師の仕事を覚えた。
 アストルは学校へ行き、ポーランド人と仲良くなり、白系ロシア人の友達の家へ行って郷土料理をたべ、ロシア語の片言を教えてもらう。
 ビセンテの床屋のお得意さんは、アルゼンチン人は少ないから、どうしてもイタリア人だ。イタリアのニューヨーク人だ、すなわち《マフィア》。経営者はスカブッティエッロというシチリア人。
 禁酒法時代には、アスンタは、さる筋からまわしてもらったウィスキーとオレンジの皮を風呂の中でまぜてヴェルモットを製造した。親しいイタリア労働者一家に、ストライキ中の収入を都合してあげるために。
 ビセンテ・ピアソラは、ギターで歌の伴奏ができたし、いちばん単純なアコーディオン(8音ベース)をもっていた。アメリカに渡ってきたイタリア二世なのに、アルゼンチンを忘れることはできなかったのだろう、アストルの8歳の誕生日に、古道具屋でみつけたバンドネオンを贈った。
 アストルは、アルゼンチンのことなど覚えちゃいない。ボクシングの方が音楽よりおもしろかった。8歳のころには、ハーモニカで流行のジャズソングを吹いていた。バンドネオンなんか見たこともなかったし、やる気もなかった。
 両親はアストルを音楽の先生につかせた。この子は音楽のカンが良くて、バンドネオンもすぐ適当にメロディを弾けるようになったけれど、外で遊ぶ方が好きだったし、どこの先生にも嫌われた。11歳のころからバクチをはじめ(小遣いは親にもらうもので充分すぎるほどだったのに)、ニューヨークの街なかへ出ていって、やくざな映画スター、ジョージ・ラフトに金をもらって喜んでいた。ラフトは、不良少年に小銭をばらまく役を地でいって満足していたのである。
 それでも12歳の時には、アストルはニューヨークのラテン向けのラジオに出てモーツァルトやバッハをバンドネオンで弾いていた。学校の友達にはそんなことは知らせなかった。学校では、うっかりバンドネオンを見つけられたら、ムッソリーニのテーマ曲、「黒シャツ党員がどうのこうの…」というのを弾いて、教室を狂喜させた。
 ハンガリー人のピアニスト、ベラ・ウィルダ。彼の弾くバッハにアストルは感激した。ほとんど隣りに住んでいる人だった。この人に音楽を習いに行った。授業料は、アストルの母がつくる毎日の昼食。すなわちイタリアの、お腹がふくれる料理、ニョッキ、オッソブーキ・コル・リーゾ。 アストル13歳。
 そして。
 ハリウッドで映画をつくりにきた(パラマウント社)カルロス・ガルデルを、アストル・ピアソラはニューヨークじゅう案内し、通訳をし、ガルデル主演の映画、『想いのとどく日』に出してもらった。

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2 マルデルプラタ…… バルダロ

 アストルが10歳のころ、いちおう帰ってきたことはあるんだけれど、思うようにいかなかったピアソラ一家が、今度はしっかり資本をためてマルデルプラタにもどったのは37年。完全にイタリア二世にすぎないビセンテとアスンタの夫妻がこれほどまでに生地に執着した理由はわからない。ニューヨークにいても同じことじゃないか?!
 ビセンテは自転車屋をひらいた。ついでに、マルデルプラタ駅前にバーをつくり、その裏は田園的な酒亭にした。緑の中のテーブル、ちょっと高くなった舞台がある。ヴィーン郊外の飲み屋というスタイルかな?
 もちろん息子アストルは出演した。盲人のギタリストの伴奏でフォルクローレ(これはニューヨークでもやっていた)、それからニューヨーク仕込みのタップダンス。
 アストル・ピアソラの知っていたタンゴ —— ガルデルの歌のレパートリーの一部、6年前にアルゼンチンに一時帰国したとき覚えた流行曲。
 アストルが16歳のときに。ニューヨークで電気学校にいき、アルゼンチンで簿記を覚えさせられていたときに。音楽なんかばかにしていた時に。
 エルビーノ・バルダロ6重奏団。
 ピアソラ一家がニューヨークへ行った時、《バンドネオンの虎》アローラスはパリで病死した。そのアローラスの弟子であるフリオ・デカロ(バイオリン)は師の音楽をこえる楽団をつくろうとしていた。フリオは生意気にも「タンゴもまた音楽である」と旗印をかかげた。
 フリオ・デカロは一時代をつくった。その次の時代を芽ばえさせたのがエルビーノ・バルダロの楽団だった。
 第1バイオリン。エルビーノ・バルダロ。あらゆる人間を泣かせた、タンゴの至高のバイオリン。
 第2バイオリン。ウーゴ・バラリス。タンゴ史上空前絶後の「第2」
 ピアノ。 ホセ・パスクァル。伝説上の人物。
 ベース。ペドロ・カラシオーロ。 その後、いちおう前衛タンゴで認められた。
 第1バンドネオン。 アニバル・トロイロ。 その後、バルダロよりもピアソラよりも有名になる少年。
 第2バンドネオン。ホルヘ・フェルナンデス。その後、息子がスター歌手になる。本人は名手。
 このバルダロ6重奏団(売れっ子ではなかったので解散寸前)が出演するラジオ番組を聴き、アストル・ピアソラは、思いもよらず、自分の人生を決定する感動をおぼえた。
 アストルは、エルビーノにファンレターを書き、返事をもらった。
 ハーモニカもタップダンスも、ジャズも捨てて——ギターやアコーディオンはおやじのものだから遠くなり——、大西洋の南から北へ行って、また帰ってきたのもどうでもよく—— モーツァルトの快さもバッハの重さも関係なく——、アストル・ピアソラはバルダロ6重奏団に惚れこんだ。
 夏には首都より人口の多くなるマルデルプラタで、アルゼンチン人なんだけどイタリア三世で、アストル・パンタレオン・ピアソラは、タンゴに飛びこむ。
 ジャズなんかよりも、めちゃくちゃおもしろい、魔性をもった音楽だったから。

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3 ブエノスアイレス……タンゴの時代

 39年7月8日、18歳と4か月のアストル・ピアソラは、初めてブエノスアイレスへ上京した。
 タンゴの黄金時代が始まろうとしているときだった。新鮮で力強いリズムによってダンスを復活させ、タンゴの救世主となったフアン・ダリエンソ楽団につづき、ダゴスティーノやディサルリや、新しいミゲル・カローやトロイロ、プグリエーセの楽団が、豊富な仕事場にめぐまれて、安定した活動をはじめていた。
 おれは、マルデルプラタなんていう地方の出身だ、でも、ニューヨークというブエノスアイレス以上の都会を知っている。バッハでもジャズでも弾けるんだ。—— ピアソラにはたいへんな自信があった。
 ピアソラにとって、タンゴとはバルダロ楽団のことであり、その源泉となったデカロや、そのスタイルの流れをひく音楽家であった。ダリエンソ楽団を聴くとその非音楽性に寒気がした。そのころから、ピアソラの考えかたと、率直な意見は、タンゴ音楽家たちを驚かせ、時にはおそろしい疫病のビールスのように思われた。この変テコなバンドネオン奏者はいったいどこからわいてきたのか?!
 自信と意欲にあふれ、一般的なタンゴの伝統とほとんど無縁の異邦人ピアソラの、いちばんの友人は、バルダロの第2バイオリンだったウーゴ・バラリスであった。バラリスはそのころトロイロ楽団にいた。

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 このバラリスに口をきいてもらって、ピアソラはトロイロ楽団に無理やりに入りこんだ。若すぎる(19歳)と断られたが、ピアソラは幸運にも兵役に行かなくてもよくなったし、この楽団の編曲をぜんぶ暗記しているという熱意と実力を買ってもらったのだ。
 アストルの落着き先が決まると、父ビセンテはオートバイにのってマルデルプラタから400キロの道をやって来た。トロイロの家をたずねて、こう言った。
「あんたは私の息子より年上です(当時トロイロ25歳)。どうぞ、あの子が悪い道に入らないよう、私のために守ってやってください」
 その夜、父が帰ったあと、トロイロはアストル・ピアソラを連れて、川向こうの暗黒街へバクチをやりに行った。
 ピアソラがアニバル・トロイロ楽団でまなんだものは、タンゴの伝統だった。ダンサーやお客が何を求めているのか。ここから先はタンゴでなくなるという、あいまいではあるが、常識的に定められているタンゴの音楽的限界……。
 音楽を知っているということでは、ピアソラの方が上だった。なにしろ、のちに現代音楽の革命児のひとりとなって国際的に評価されるアルベルト・ヒナステーラのところで、毎週2回のレッスンをうけていたのだ。トロイロ楽団の仕事を終えてベッドに入るのが4時ごろ、7時にはもう起き出して、ヒナステーラの出した宿題をやっていた。
 ヒナステーラ、トロイロ、バラリス。こういう師であり、先輩で友人である音楽家たちは、みんな同年輩、ピアソラより5歳ほど上の世代だった。
 バラリスのおかげで、ピアソラには恋人ができた。バラリスのガールフレンドの妹デデ・ウォルフ。不動産屋の、厳格にしつけられた娘で、絵の勉強をしていた。またまたピアソラの父と、今度はおじさんまで、マルデルプラタからオートバイに乗ってアストルの婚約者を下見に来た。
 アストルとデデは42年10月31日に結婚する。翌年、娘ディアナが、その次の年に息子ダニエルが生まれた。
 たいへん安定した生活だったといえよう。これなら親孝行の優等生だ。音楽家としても、まずは順調だった。

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 トロイロ楽団の同僚たち、そしてピアソラと同じころタンゴに入ってきた若い音楽家たちから才能をみとめられ、これは大物になると保証されていた。
 どんな時代よりもたくさんの楽団が、みんな10人以上の大編成で、ラジオやダンスホールやカフェや野外パーティで、朝から夜中まで弾きつづけていた、タンゴの黄金時代。この時代の若い力を代表するスターであるトロイロ楽団にいた、タンゴ音楽家のエリート、ピアソラである。
 結婚した翌年には、編曲者としても活動をはじめた。編曲者はファンには関係ないが、音楽家仲間ではたいへん株が上がる。最初は、おもに歌手の伴奏譜をつくるのが、まず修行として課せられる仕事。そのうち『インスピラシオン』の和声的なアレンジが音楽家の話題をよび、それによるトロイロ楽団のすばらしい演奏がファンを魅了した。
 トロイロがいない時、楽団のメンバーは、自分たちの楽しみのために、デカロやバルダロのスタイルをそっくり真似して、ただただロマンチックな、室内楽みたいなタンゴをやっていた。ピアソラとバラリス、ゴニ(ピアノ)とキチョ・ディアス(ベース)。トロイロは少し文句を言った。
「きれいだな。だけど、あんまり溺れちゃだめだぞ。ダンスのセンスを失くしては困る」
 でも、と新しいタンゴ音楽家たちは反論する。ジャズバンドを聴いてごらんなさい。ベニー・グッドマンはどうです。アーティ・ショーは? 複雑な和音を使っても、ダンスのできる、コマーシャルな音楽が作れるんですよ。
 トロイロ楽団にだって、ビオラやチェロが入ってきていた。アルヘンティーノ・ガルバンやエクトル・マリア・アルトーラといった、クラシック志向の編曲者たちにスコアを書かせていた。
 だが、その編曲はトロイロの味を失わせていたのかもしれない、と後年のピアソラは考える。トロイロの味とは、リズムであり、力強さであり、やさしさであり、感情のふるえだった。それは10年代のタンゴの特徴でもあった。
 アストル・ピアソラは、いまだにイタズラっ子だった。時には罪のない、しかし度をすごしたからかいで、しばしば悪質な妨害行為で、トロイロを含めた楽団メンバーを困らせた。誰かのロッカーから蛙がとび出し、ピアノが火を吹き、演奏のはじまる直前にステージに出てきたピアソラはトロイロのシャツの中にトゲトゲのある玉を落としこんだ。
 ついにトロイロは、ピアソラと、親友のバラリスをクビにした。家具つきのアパートが千ペソで一室買えた時代に、月に300ペソの給料をもらっていたピアソラは、自由な音楽家稼業をやめて、自分で仕事をさがさねばならなくなった。
 でも、ぜんぜん人間は変わらなかったようである。

4 最初の成功と最初の幻滅

 44年の末に、フランシスコ・フィオレンティーノとアストル・ピアソラ楽団がスタートした。トロイロ楽団から独立した歌手フィオレンティーノがスターであり、ピアソラの名前は伴奏のリーダーというだけで出たのだが、とにかく独立した音楽家になったのだ。
 初めて自分の名前が表面に出たピアソラは、新しい手法を入れながらもフィオレンティーノを立てる良い編曲を作り、フィオレンティーノもピアソラを尊重した。2曲だけだが、フィオレンティーノのレコードにインストルメンタルだけの演奏を録音させているくらいだ。ピアソラ楽団の第1バイオリンはもちろんバラリス、ピアニストは、やはりトロイロ楽団から出てきたカルロス・フィガリだった。
 46年には、フィオレンティーノを離れて「アストル・ピアソラと彼のオルケスタ・ティピカ」が発足する。ちゃんと専属歌手を加えた、立派なフル編成の楽団だ。ピアソラは、タンゴ界でいちばん若い指揮者だった。
 スタイルは、はっきりとデカロ=バルダロの流れをひいていた。その上に、若さのみがもつ大胆さが加えられ、できる限り複雑な音を求めていた。タンゴの限界に挑戦する熱っぽさがあった。
 クラシックの音楽家たちとストラヴィンスキーを論じ、ジャズ・マニアたちとスタン・ケントンのレコードを交換しあっていたアストル・ピアソラが、黄金時代のタンゴの世界の中で、思いきり自由に音楽を展開させようとしたのが、そのオルケスタ・ティピカだった。ティピカ(典型的)のわくは超えていなかった。
 ピアソラ楽団を聴きに来たのは、ファンよりも音楽家だった。彼らは、ピアソラのタンゴの新鮮さをいちばん良く理解する人たちだった。ピアソラのような音楽家がいることは、タンゴ界に大きな刺激を与えた。
 ピアソラ自身はいう。
「あのころ、おれと同じように新しいことをやっている楽団は、サルガンとマデルナだけだった。サルガンのすごい演奏を聴いて、おれはいつも競争心をかきたてられた」
 そしてプグリエーセがいた。ピアソラ楽団はプグリエーセにならって、コペラティーバ (協同組合)制をとっていた。大ざっぱにいって、メンバーがみんな平等に給料をとる民主的方式である。

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 初めて個人的な成功を知り、音楽に酔って、燃えていたアストル・ピアソラはやがて、いつも同じ演奏をしていることに飽きてしまった。それと平行して、タンゴ黄金時代をささえていたアルゼンチン社会の繁栄に経済不安の影がさしてきた。ゆたかさを誇った「ペロンの新しいアルゼンチン」の矛盾が形をとりはじめたのである。仕事は少なくなった。 
 49年にはアストル・ピアソラは楽団を解散してしまった。約5年間というもの彼はほとんどバンドネオンに手をふれなくなる。
 ピアノの前にすわりこんで、ピアソラは作曲し、トロイロやフランチーニ=ポンティエル、バッソなどの楽団のために編曲を書いた。50年代から、ピアソラの作品『輝くばかり』『プレパーレンセ』などが、タンゴ・ファンにも大きな反響をよび、各種のレコードが出た。
 この時点のタンゴ作曲家の最高にして最先端の人として、若い音楽家やファンがピアソラに熱狂しはじめたのに、彼自身はもうタンゴに幻滅していた。
 映画音楽で生計をたて、クラシックの作曲家になろうとした。自分の音楽が何だかわからなくなっていたらしい。
 51年に、3つの交響的楽章『ブエノスアイレス』が、コロン劇場で、ファビアン・セヴィツキー客演指揮の国立放送管弦楽団で初演された。2台のバンドネオンが入っていたせいか、神聖なるクラシック・ファンの一部は怒り出し、激した聴衆の中ではなぐりあいのケンカがおきた。作曲家アストル・ピアソラの出発もなかなか問題が多かったようである。

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5 パリ……転機

 もうアストル・ピアソラは、タンゴにも、ブエノスアイレスにも嫌気がさしてしまった。
 好都合なことに、54年にフランス政府から往復旅費が出て、パリ音楽院で勉強するための奨学金をもらえることになった。妻デデも、アンドレ・ロトに絵を習う奨学金がもらえた。子供たちを親にあずけて、ピアソラ夫妻はパリに渡る。
 結局、パリ音楽院へは行かず、自費で月謝を出して(とても安くしてくれた)高名なナディア・ブランジェ女史のレッスンを受けることにした。
 ブランジェ先生の家へも、ロトのアトリエにも歩いていける近さの、モンマルトルのアパートに、ピアソラ夫妻は住むことにした。実は他人のアパート、かつてペドロ・ラウレンス楽団のピアニストで、パリで楽団をもって活動していたエクトル・グラネのアパートにころがりこんだのである。
 ピアソラは生活費ギリギリ程度のお金しかもっていなかったことが、意外なことに『プレパーレンセ』の印税がたくさん入ってきて、大いに助かった。この曲をパリのタンゴ楽団が必ず演奏し、レコードも出ていた。ちょっとしたヒットだったわけだ。パリのタンゴも、なかなか盛んだったらしい。
 1年間ブランジェ女史に音楽をまなんだことは、アストル・ピアソラに決定的な影響を与えた。彼女のすばらしい指導については、たくさんの音楽家(もちろんほとんどがクラシックの人たち)が口をきわめて称賛しているが、ピアソラにとっても、自分の音楽を発見させてくれた恩人となった。
 ピアソラが、課題の作曲を女史にみせると、彼女は言った。
「よく書けています。理論的にも、技術もとても確実です。まったく文句のつけようがありません。満点ですね。でも、中身はからっぽです。この音楽の中の、どこにあなたがいるんですか? アストル・ピアソラはどこなんです?」
 今までに作ったものはないかと聞かれて、もう駄目だとヤケになったピアソラは、ピアノで自作のタンゴを弾いた。おれは作曲家として立てないんだ!
 タンゴが終わると、ブランジェ女史は興奮してピアソラの手をにぎりしめた。
「これがあなたの音楽じゃありませんか!今まで何を悩んでいたの?あなた
の音楽はこれよ!」
 ピアソラは、呆然としていた。

(中南米音楽1982年6月号掲載)


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