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[2020.02]日本ツアーを終えたトン・ゼーへのインタビュー|Confundir Pra Explicar 〜説明するために混乱する ~


インタビュー・文●ロベルト・マクスウェル Roberto Maxwell

 2019年10月31日、御歳83歳のブラジルの奇才トン・ゼーが日本で初の公演を行った。現存するMPB界の巨匠の生演奏を一目見ようとオルタナティブ音楽ファンから長年ブラジル音楽を愛好するファンまで様々な音楽ファンが集った。
 待った甲斐があった。疲労した声ではあったが、素晴らしいミュージシャンたちにサポートされ、トン・ゼーはステージ上でひとときも動きを止めることがなかった。それは、精力的に活動を続けるブラジルに残る巨匠のひとりであることの証明でもあった。1時間と少しのライヴのなかで、様々な時代の有名曲を披露し、パンティなどの小道具、スクリーンに映し出された、日本語のような品行方正な言語に翻訳が難しい歌詞の訳、そして通訳をした友人の手を借りて観客との対話まで試みた。
 1936年10月11日、バイーアの田舎町で宝くじを当てて富を得た家族のもとにトン・ゼーは生まれた。幼少期から音楽に親しみ、青年期にはすでにギターを学ぶことを決意した。1960年代には、新人を対象としたテレビ番組に出演し、その後サルヴァドールのバイーア連邦大学に入学し音楽を専攻した。
 バイーアの州都サルヴァドールでカエターノ・ヴェローゾ、マリア・ベターニア、ガル・コスタ、ジルベルト・ジル、ジャルマ・コヘーアらと出会った。彼らとともに、伝説的なカストロ・アルヴェス劇場でカエターノ発案の合同コンサート「Nós, Por Exemplo No.2」に出演し、ディレクター、アウグスト・ボアルの目に留まり「Arena Canta Bahia」への出演オファーを受けてサンパウロに渡った。その後、ガル、ジル、カエターノ、ベターニア、ナラ・レオン、オス・ムタンチスらとともにその後のブラジル音楽において最も影響力のある『Tropicália ou Panis et Cincersis』をリリースした。1968年にはTV Record主催の第4回ブラジルポピュラー音楽祭において、愛情深く、ブラジル最大の都市サンパウロの矛盾を歌った「São São Paulo, Meu Amor」を発表し優勝した。
 当時、ムーヴメントとしてのトロピカリズムは定着していて、ブラジルの若者は、ブラジルの伝統を吸収しつつ、アメリカやヨーロッパ諸国のポップな文化に影響されながら、挑発的で独創的な作品を生み出す創造的ピークの時代を迎えていた。
 しかしながら、1968年に軍政令(AI 5) が発布され、芸術作品やメディアへの検閲を通して個人の自由が奪われることになった。多くのアーティストが国外へ逃れることを強いられ、芸術的なムーヴメントは分散してしまい、トン・ゼーもまた、その頃からトロピカリアの仲間たちと疎遠になってしまった。
 1970年代に入ると世情も影響し、その作品への反響が徐々に少なくなってしまうが、代表的な作品である2枚『Todos os Olhos』(1973年)、『Estudando o Samba』(1976年) はその当時の作品でもある。ラディカルな作品は当時あまり知られることがなかったが、21世紀に入って再度注目されるようになった。トン・ゼーは学生を対象として国内巡演を継続していたが、大きなメディアに登場することはあまりないまま、アルバムが売れ、希少になり始めていた。

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