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[2020.02]バネッサ・キロス 14年の時を経て才媛がキンテート・ グランデとともに再来日

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

 これまでカルロス・ラサリ指揮フアン・ダリエンソ楽団、フアンホ・ドミンゲス、ファビオ・ハーゲル&タンゴ・デル・スールらと共に5回の来日を重ね、今回何と14年ぶり6回目の来日を果たす女性歌手バネッサ・キロス。約30年の芸歴を持ちながら、ソロ・アルバムは2007年の1枚のみ。黄金時代を知る偉大な歌手たちに学ぶことの出来た最後の世代ともいえる彼女のタンゴ哲学と、今回の日本公演に向けた抱負を訊いてみた。

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── 子供の頃はどんな環境でしたか?

バネッサ・キロス 両親、姉妹3人、おばあちゃんと暮らしていたわ。母とおばあちゃんは家事をするときにいつもラジオをつけていてタンゴが流れていたの。私が聞いた曲を口ずさんだら、母がその曲を練習用にカセットに録音してくれて、最後には家族みんなでその曲を歌っていたわ。だんだんそのカセットの数は増えていって、そうやってホルヘ・バルデス、ロベルト・ルフィーノ、ラウル・ベロン、アルベルト・モラン、アルベルト・ポデスタといった人たちの歌で私はタンゴの古典をやまほど覚えたの。

 父はフォルクローレが好きで、家でロス・キジャ・ウアシ、ロス・ビスコンティ、オラシオ・グアラニー、ホセ・ララルデなんかをよく聞いていたわ。

 子供の頃から歌は好きだったけど、最初はバレエに夢中だったからプロになろうとは思ってなかった。でもちょっとした事故があって踊れなくなってから、歌手になることを決めたの。1990年に父の勧めでアルゼンチン歌手協会のコンクールに出場して、優勝は出来なかったけど、そこで今までラジオで聞いていたいろんな歌手とつながりが出来て、彼らの出演場所に出させてもらえるようになったの。ホルヘ・カサル、ロベルト・フローリオ、オスバルド・リボー、オスカル・フェラーリ、ロベルト・ゴジェネチェ、ホルヘ・ビダルらとステージを共に出来たし、アルベルト・モランは最終的に私のアーティストとしての名付け親になってくれたわ。

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