[2021.07]連載 アントニオ・カルロス・ジョビンの作品との出会い④〜数学の授業
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[2021.07]連載 アントニオ・カルロス・ジョビンの作品との出会い④〜数学の授業

文と訳詞●中村 安志 texto e tradução por Yasushi Nakamura

お知らせ●中村安志氏の執筆による好評連載「シコ・ブアルキの作品と出会い」についても、今後素晴らしい記事が続きますが、今は一旦、この新連載の方を掲載しています。今後は、何回かずつ交互に掲載して行きます。両連載とも、まだまだ凄い話が続きます。乞うご期待!!!(編集部)
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 本日は最初、少々硬くて恐縮ですが、ポルトガル語の大事な話から申し上げます。Tom Jobimは日本ではトム・ジョビンと呼ばれていますが、彼の故郷ブラジルでは皆「トン」・ジョビンと呼んでいます。
 実はポルトガル語では、語末に鼻母音(ン)が来るときは、単数形である限りmで表記することになっていて、それ故、例えばボン・ジア(こんにちは)も、Bom diaと書きます。(ただし、面白いスペリング規則になっていて、複数形ですと例えばEstes são bons(彼らはいい人だ)というふうに、nで表記されます。この点はややこしいですね。)
 よく見ると、同じ人物の名前で、どちらもmで終わっているのに、Tomはトムと読み、Jobimはジョビ「ム」と言わず、ジョビ「ン」と読んでいること自体、矛盾する訳です。おそらくニックネームのTomほうだけ、文字に引きずられた言い方がそのまま広まったものと思われますが、いずれにしても正確には「トン・ジョビン」ですので、この機会に憶えていただけると有難く思います。
 なお、ボサノヴァの父ジョビンがアメリカでトムという愛称で呼ばれたからと想像する向きもいるかもしれませんが、幼少時に、4歳年少の妹エレーナ・ジョビンが兄のことをまだアントニオと呼べず、Tom Tom(トントン)と呼んでいたことが由来であると、本人も述べていますので、念のため。

 以上はさておき、本日は「数学の授業」という、少々変わった題名の曲をご紹介します。この歌の歌詞は、「マイナスとマイナスを掛ければ愛がもっと増える/平行線どうしでも、無限の地点では交わるのに/心と心が統合するのに、どうしてこんなに時間がかかるのか?」と、数学の言葉をうまく引き合いに出しながら、思うように進んでくれない恋心を打ち明ける内容になっています。意外にも、ボサノヴァの出発点とも位置付けられる名曲「Chega de saudade」と同じ1958年に、ジョビンが作曲した歌です。ボサノヴァ旋風を切り開くこととなった「Chega de saudade」があまりにも脚光を浴びてしまい、こうした同時代の他の作品が語られる機会が少ないようですが、これも実に小粋な歌。ミウーシャやシコ・ブアルキらと一緒に録音したアルバム『Echoes of Rio』(1977~79年)に入っているジョビンの独唱が、なかなかいい味を出しています。


数学の授業詩3


 無限小や積分といった高等数学の用語にも言及し、なかなか凝った内容ですが、ジョビンが数学の授業を受けた若き学生時代はどうだったのでしょうか? ジョビンの妹エレーナが著した伝記は、高校生になる頃までジョビン一家は転居と転校を繰り返しており、何番目かの学校となるジュルエーナという中学校で数学の先生だったジュリオ・セーザルという男性について、なかなかの物書きでもあったと伝えるにとどまっています。一方で、自宅の2階に住む叔母の夫ジョアン・リラが、政府機関である国家地理統計院(IBGE)人口調査センターの長を務めており、この人が日頃数字に強かったのは確かなようです。ギターも嗜んだというジョアン・リラは、早くからピアノに親しんできたジョビンと、少なからず接点を有していたと思われます。
 実はこの曲の歌詞は、古典的スタイルの歌を多く残した先輩作曲家のマリーノ・ピントが書いたもので、難しい数字の世界を教えてくれそうな叔父ジョアン・リラの知恵で生まれた訳ではありませんでした。このマリーノは、ボサノヴァの旗手の1人カルロス・リラとも一緒にいくつか曲を書いており、リラとのコンビで生まれた共作の1つに「Erros de gramatica」(文法の間違い)という曲も。どうも、お勉強話に絡めて粋なことをいくつか歌ったようですね。

 また、ジョビンの他界後に親族により設立された財団が維持している資料によれば、当初、この歌の題名は「数学の授業」ではなく、「愛の数学」(Matematica de amor)であった由です。恋の問題をどう解いていくかという歌詞全体からは、後者のほうがお似合いの感じもしますが、これをあえて「授業」としたことで、意中の女性が同じ教室に座っているような想像もかき立てられ、数学の悩みと恋の悩みの掛け合わせや臨場感がうまく成立したのかもしれません。なお、マリーノが残した手書きの原稿は3ページもあり、ジョビンも一部筆を入れているそうです。

ジョビン手書きメモ

↑歌詞を手書きしたメモ

  歌が少し進むと、主人公の台詞は更に、「無限小の分数1つで/君は積分の例題を作った/そして、この問題を解くのに/僕が持ち合わせているのは、ありふれた定理」と歌います。積分などは、私もすっかり忘れ、手に負えませんが、恋とは高等数学同様に難しいもの、ということなのでしょう。この歌の主人公は、意中の相手と仲良くなるには数々の難題があり、自分の手元にそれを解く有力な武器がないという、寂しげな様子を感じさせる一方で、この後「2つの平均値が出会うとき、分数は消え去る/統合を発見できれば/問題は解けている」……というふうに、解法は見つかるはずだと、意欲に燃えている様子も見せてくれます。

 1968年9月。20世紀ブラジル有数の女流作家として知られ、非常に率直かつ雄弁なクラリッセ・リスペキトールがジョビンに対し行ったインタビューが、大衆雑誌マンシェッチに掲載されました。

ジョビンと女流作家

↑クラリッセ・リスペキトールとジョビン

「どんな分野でも、創作活動においては、テーゼ、それに相対するアンチテーゼ、そしてこれらを超越する統合に行き着くことが多いですが、あなたは、自分が作る歌にそういうものを感じますか?」と問う難しい質問に対し、ジョビンは「もう、非常に強くそれを感じます。自分は、言ってみれば、愛情たっぷりの数学者でしょう。形がなければ何もないが、混沌とした中でも、形というものは存在します。……」と、自らを数学者に喩えながらの理知的な回答ぶり。こう答えているとき、ジョビンはもしかして、10年前に作った歌の内容を思い浮かべていたのでしょうか。更に、リスペキトールからの「私はほんの一冊書くたびに絶望的になり、もう書けないと強く感じるが」という質問に対し、ジョビンは「仰せのとおり。産みの痛みの後には、死んだような気分になります」と答えています。ジョビンほどの逸材でも、歌の創作は真剣勝負と、捉えているようですね。

(ラティーナ2021年7月)

著者プロフィール●音楽大好き。自らもスペインの名工ベルナベ作10弦ギターを奏でる外交官。通算7年半駐在したブラジルで1992年国連地球サミット、2016年リオ五輪などに従事。その他ベルギーに2年余、昨年まで米国ボストンに3年半駐在。Bで始まる場所ばかりなのは、ただの偶然とのこと。ちなみに、中村氏は、あのブラジル音楽、ジャズフルート奏者、城戸夕果さんの夫君でもありますよ。

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