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[2018.12]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界 第11回 ミロンガが泣く時

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

タンゴの歴史において、最初に登場した女流詩人は誰か? この問いに答えるのは難しいが、一定のヒット曲を書いた人物ということであれば、マリア・ルイサ・カルネリ María Luisa Carnelli(1898-1987)を先駆者として挙げることが出来る。

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 マリア・ルイサ・カルネリの名を知るタンゴ・ファンはほとんどいないだろう。それもそのはず、彼女の代表作であるこのタンゴの作詞者はルイス・マリオである…おわかりだろうか?マリア・ルイサ・カルネリはルイス・マリオ(もしくはマリオ・カストロ)という男性名で作品を発表していたのである。

晩年のマリア・ルイサ・カルネリ

晩年のマリア・ルイサ・カルネリ

 マリア・ルイサ・カルネリは1898年ラ・プラタに生まれた。兄弟が9人もいた裕福な家庭に育ったそうで、子供たちはみんなタンゴ好きだったが、両親はかたくななまでにタンゴを拒絶し、子供たちは蓄音機のラッパを外して両親にわからないよう小さな音でタンゴを聞いたという。マリア・ルイサは小さい頃から詩を書くのが好きだったが、おそらくは両親の勧めだったのだろう、高校卒業後すぐに結婚している。しかし書くことへの情熱は抑えきれず、やがて新聞や雑誌に記事を書くジャーナリストになった。

 タンゴとつながりを持ったのは1927年、フリオ・デ・カロが自分の作品「エル・マレーボ」の歌詞を詩人カルロス・デ・ラ・プアに依頼したところから始まる。タンゴの歌詞を書いたことがないデ・ラ・プアは断り、詩人仲間のエンリケ・ゴンサレス・トゥニョンへこの話を回した。しかし彼も書いたことがないので、友人のマリア・ルイサに振った。歌詞はめでたく完成したが、厳しい両親の手前、作詞者の名前は「マリオ・カストロ」として発表された。(ちなみにマリア・ルイサはその後長くエンリケ・ゴンサレス・トゥニョンの私生活でのパートナーとなった。)

ロベルト・フィルポ楽団「ミロンガが泣く時」

ロベルト・フィルポ楽団「ミロンガが泣く時」

 その縁で、マリア・ルイサは引き続きフリオ・デ・カロ作曲の「ムーラン・ルージュ」、フランシスコ・デ・カロ作曲の「プリメル・アグア」「ドス・ルナーレス」にも作詞をしている。前2曲はルイス・カストロ、最後の作品はルイス・マリオ名義で登録された。

アスセナ・マイサニ歌「命短し」

アスセナ・マイサニ歌「命短し」

 同じく1927年、フアン・デ・ディオス・フィリベルトの作ったメロディに作詞する機会を得る。前記の「ミロンガが泣く時」である。マリア・ルイサ自身はこの歌詞はあまり好みではない、むしろフアン・デ・ディオス・フィリベルトの意図に寄せて書いたものだったと後年語っている。この曲を最初に録音したのはこの曲を献呈されたフランシスコ・カナロ。1927年9月にアグスティン・イルスタの歌を加えて録音している。さらにフアン・マグリオ・パチョ(27年10月)、オスバルド・フレセド(27年11月)、ロベルト・フィルポ(28年1月)、カナロ2回目(1930年7月、チャルロ歌)、フランシスコ・ロムート(1930年10月)と一流楽団のほとんどが取りあげるヒット曲となるが、カナロ以外はすべて歌なし。歌を入れた最初のレコードはイグナシオ・コルシーニの1927年11月録音、カルロス・ガルデルは少し遅れて1928年8月にブエノスアイレスで、同年10月にはパリでも録音した。女性歌手で最初に取りあげたのはアスセナ・マイサニ(1927年12月)だが、自身も女流作詞家の先駆であるマイサニはこの曲の作詞者が女性と知っていただろうか…

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