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[2018.07]連載 太平洋の向こう岸からの手紙 #13 『今ふたたび』

文●フアン・フェルミン・フェラリス

 私たちは第25教室のほとんど最後列に座っていました。彼は私にこう言いました「この曲はこう演奏できると思うんだ」そしてエグベルト・ジスモンチの「Choro」の最初のコードを弾いたのです。

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 先生が何かを説明している間だったのですが、注意散漫だったこともありクラスに出席する代わりに廊下の外で演奏することにしました。

 そのクラスは素晴らしいものだったので、また情熱を持って座りました。そしてまたフェデリコ・アレセイゴルに音楽言語を教わったのです。しかし私たちはすでにジスモンチのような曲を作りたくてたまらなくなっていました。これはアレセイゴルのせいではなく、ラ・プラタ国立大学のポピュラー音楽学科にいたことが原因でもありませんでした。運命だったのです。

 実際、知り合って以来、友人になって以来ずっと一緒に音楽をやっています。アサードの後を思い出します。私がピアノを演奏していると彼が現れ一緒に弾かなければならないと言ったのです。そこで知り合ったのがアレクシス・タベージャ。彼はいつも〝ネグロ〟や〝モノ〟と呼ばれています。

 父方の家族の影響で、アレクシスはエントレリオス州コンコルディアでとても音楽的な幼少期を過ごしたのでした。そこはカルロス・アギーレやセバスティアン・マッキのような偉大な参照先を輩出したパラナーからとても近い街です。とても小さい頃から、彼の父である〝モノ〟・タベージャのようにドラムを叩き、8歳の頃から彼の叔父のようにギターを弾いていました。それがアレクシスが〝ちびモノ〟と呼ばれていた所以で、彼は家族の演奏から音楽を学び、彼の祖父が演奏したようにタンゴを模倣していました。

 数年後我々はラ・プラタで出会うことになりました。いつも特別なコンサートを可能な限り見に行っています。例えばブラッド・メルドー・トリオ やマリオ・ラジーニャ・ノーヴォ・トリオを。そしてその数ヶ月間そのように聴こえると信じられなかろうが、それらをコピーしていました。同様のジャズトリオを結成したかったのです。その時点で、アレクシスはギターをやめてピアニストになりました。彼が私にピアノのレッスンを依頼したのを覚えています。そして結局は一緒に学ぶことになりました。アレクシスはすでに音楽的に非常に進歩していましたから。そしてたくさんの仕事の後、2016年末に彼の名前をもつトリオで録音することになりました。そのトリオはピアノにアレクシス・タベージャ、コントラバスにバレンティノ・サンパオリ、そしてドラムにフアン・ミゲル・カロテヌートです。

 誰に対してもまず「Otra vez será(今ふたたび)」を聴くことをお勧めします。それはオンラインで出会うことができる音楽で、まだフィジカル化できていない作品を紹介するための曲です。原因は多くあって、しかしとりわけ我々の国ではECMのようなレーベルがなく、インストゥルメンタル音楽のためのコンサートツアーもないことが理由です。アレクシス・タベージャとマリオ・ラジーニャの音楽、そしてそれほど遠くに行かなくてもエントレリオスのカルロス・アギーレとの間には多くの偶然の一致があります。しかし彼は羨まれてもいません。彼には市場的に作品がCD化する可能性がほとんどありませんし、それは私や他の音楽家についても同じです。

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