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[1987.06]ジョゼ・アフォンソの死に一本のカーネーションを…

文●井上憲一

 グランドラ・ヴィラ・モレーナ
  テーラ・ダ・フラテルニダーデ…

 「グランドラ・ヴィラ・モレーナ」の歌とともに、彼の姿を最初に目にしたのは、1982年春、フランスの地方都市ブルジュの、有名なポピュラー音楽祭 ブルジュの春」でのことだ。そしてそれが、僕にとっては、彼との最後の出会いともなってしまった。
 彼のファースト・ネームはジョゼ、ファミリー・ネームはアフォンソ、ともにポルトガルではありふれた、きわめてポピュラーな名である。ポルトガルの人々は、敬意と親しみをこめ、彼を「ゼカ」(ZECA)と呼んだ。
 ゼカ・アフォンソは、1929年8月2日、「ポルトガルのベニス」と称される大西洋岸の街アヴェイロに生まれた。
 大航海時代、大西洋に船出し、海洋帝国を築かせたポルトガルの歴史は、このアヴェイロ生まれの少年の歩みをも、とっくの昔から、自身のクロニクルに書き込んでいたように思われてならない。

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 ジョゼは、少年時代をポルトガルの植民地アンゴラ、そしてモサンビークで過ごした。アフリカ体験は、彼の音楽性に根元的な影響を与えた。アフリカのリズムが、ファドを含めたポルトガルの伝統音楽に融合し、新しいポルトガルの歌を創り出すいしずえとなった。ジョゼ・アフォンソ自ら、アフリカとの関わりをこう語っている。「私はアフリカの息子です」と。

 ジョゼの青年時代は、ヨーロッパ有数の歴史的大学都市コインブラが舞台だった。コインブラ大学は、ポルトガルの国民詩人ルイス・ド・カモンイスの他、数限りない詩人、作家を輩出してきた。その文学的伝統が、甘く切ないメロディと結びつき、コインブラのファドと呼ばれるロマンチックな歌が誕生する。

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 コインブラのファドの歌い手は、その大学の学生たちであった、「制服」である伝統の黒マントに身をつつみ、ギターやリュートを手にロマンスを歌いながら上の大学から路地を下り、下町へとくり出して行くものだった。
 コインブラで歴史、哲学を学ぶジョゼ・アフォンソが、その微細な美声で人々の注目を集め始めるのは、かの地の例にもれず、コインブラのファド歌いとしてだった。それは、今なお、ポルトガル最良のバラード歌手と称される彼の、輝かしいキャリアの始まりであった。サラザール独裁体制下、ジョゼが唯一テレビに出演するのも、若きファド・シンガーとしてであった。

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