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【追悼】[2019.11]ブラジルサンバ界の最長老 ネルソン・サルジェント 来日レポート

文・写真●渡部晋也 text & photo by SHINYA WATABE

 ネルソン・サルジェント(Nelson Sargento|1924年7月25日 - 2021年5月27日)が5月27日、亡くなりました。96才でした。新型コロナウィルス感染症のため、5月21日(金)より、入院していました。

 その夜、羽田空港国際線ターミナルに横浜を拠点とする日本のエスコーラ・ヂ・サンバ、サウーヂのメンバーが集まっていた。待ち受けていたのはブラジルサンバ界の最長老であり、数多くの名曲を世に送り出したネルソン・サルジェント。サウーヂは現在なんと95歳というネルソンを招へいし、8月31日の浅草サンバカーニバルでのパレードに参加してもらい、さらには横浜でコンサートを開催するというのだ。とはいえ長旅と慣れない日本滞在を強いるわけだから、集まったメンバーにも不安の色は隠せない。やがて空港職員が押す車椅子に乗ってネルソンが元気そうに現れると、不安な顔も少し和らいだようだ。こうしてネルソンの日本滞在が幕を開けた。

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 話は2年前に遡る。90年代に3回来日したネルソンはそれが想い出となっているらしく、是非もう一度日本を訪れたいとしばしば口にしていたという。そこで息子の嫁、リヴィアがインターネットで調べ、Facebookを通じて横浜のエスコーラ・ヂ・サンバ、サウーヂにたどり着き、前プレジデンチ(会長)である石山和男氏とコンタクトをとることに成功。このプロジェクトがスタートすることになった。

 話が持ち込まれたサウーヂでは協議の末にネルソン・サルジェントを浅草のパレードに招へいし、さらにコンサートをするという計画を立てるが、相手はサンバ界のVIPであり95歳という高齢だけに、万全の体制を整える必要がある。息子夫婦にも同行してもらい、フライトにはビジネスクラスを用意。滞在中も看護師資格を持つメンバーがケアするなどの体制を整えた。費用の算段もしなければならない。サウーヂはこの数年浅草にマンゲイラの関係者を招いたり、メンバーをマンゲイラに派遣するなどの大がかりで密接な交流を続けている。そういった資金をベースとして、さらにチケットの売り上げや有志による寄付金でまかなったという。ネルソンも主治医への相談に始まり日々の健康や食事の管理など、来日に実現に向けての準備を進めてきた。またコンサート制作にはJ-WAVE「サウーヂ・サウダーヂ」のプロデューサーでブラジル音楽を紹介し続けている中原仁氏。煩雑な招へい手続きには株式会社ラティーナ。コンサート会場である横浜・野毛の小ホール、のげシャーレの関係者など、多くの協力を得て実現したプロジェクトだった。

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 8月31日。いよいよ浅草サンバカーニバル当日だ。サウーヂが今年掲げたテーマは「ありがとう平成、ようこそ令和」。パレードの隊列後半にはネルソンが乗ってパレードする山車が用意され、そこに設えた王様が座るような椅子に座ってパレードに参加するのだ。スタートのおよそ1時間前。ネルソンは控え室でメンバーとの顔合わせを行いその後スタート地点に移動を開始。車椅子を押しているのはなんと中原氏だ。ウエイティングエリアに到着して車椅子から山車に乗り換えると椅子の前ですくっと立ち上がり、帽子を持った右手を高々と挙げ笑顔で周囲を見回した。そして腰を下ろすと目の前で手を合わせて数分間じっと動かない。祈りを捧げているようだ。30年振りの来日への感謝なのか、この浅草の〝アヴェニーダ(大通り)〟に立った事への感謝なのか。なんとも神々しいひとときだった。

 出走の時間だ。サウーヂのパレードはマンゲイラに倣いエンヘードの前に「Exaltação à Mangueira」を歌うのが恒例だが、今年はネルソンの代表作でもある「Primavera」も歌われた。マイクを渡されたネルソンは感慨深そうにこの名曲を歌っていた。「自分の曲を日本のパレードの冒頭に歌ってくれるなんてとても嬉しく凄いことさ。しかもあの曲は1955年のサンバ・エンヘードなのに、今日まで愛されて歌い継がれていることは作曲者として嬉しいことだよ」と後日ネルソンは話してくれた。歌は「Exaltação à Mangueira」になっている。ふと見るとネルソンの左手がふと目尻に伸びた。涙を拭っているようだ。「確かにあの時は泣いていたんだ(笑)なんだか胸の奥から感情が湧き上がって、涙がこみ上げてきたのさ」

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 サウーヂのパレードは50分弱。その間ネルソンは度々沿道の観客に向かって両手を挙げるだけでなく、椅子の前の棒を両手で握って立ち上がりそうな素振りも見せスタッフの肝を冷やした。沿道には小旗や横断幕を用意してきたファンが声援を送っていたが、ネルソンはその度にちょっと驚いた様子でファンに応えていた。「とてもセンセーショナルな出来事だった。浅草のカルナヴァルは以前来日したときに見物しただけでね。横浜にマンゲイラを慕うチームがあることは知っていたけど、まさかそのサウーヂのパレードに参加できるとは想わなかったね」。大きなトラブルもなくゴール地点へ到着。今回の来日における一つ目のミッションは終了となった。

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 その後、取材や翌週末のコンサートで共演するグルーポ・カデンシアとのリハーサルや観光を楽しんだネルソンは、いよいよ横浜でのコンサートに挑むこととなった。会場は野毛の演芸場、にぎわい座に併設されている小ホール、のげシャーレ。2日間のコンサートチケットは早々に完売。筆者は2日目の日曜日に伺ったのだが、土曜日も凄い盛り上がりを見せたという。

 まずはグルーポ・カデンシアがショーロを2曲。メリハリのある心地よい演奏を聴かせると〝東洋一のサンビスタ〟森本タケルが登場してお得意のカルトーラ・ナンバーを披露。そしてこの時期にツアーで帰国しているMakoが歌う中、下手からネルソンがステージに登場。車椅子から椅子に乗り換えるために立ち上がったネルソンは、自らの身体を抱きかかえるようにしてしばらく動かなかった。割れんばかりの大きな拍手の中で様々な想いを巡らしていたに違いない。

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 そこからおよそ15曲。「Prometo Ser Fiel」「Deixa」「Em Boteco em Boteco」といった曲の数々をドンドンと歌い継いでいくのだが、曲が進むにつれて顔が上がり、時には叫ぶように歌う一瞬も見せるのだった。それを一糸乱れず支えるグルーポ・カデンシアの演奏も素晴らしい。そして終盤。再び森本もステージに上がり「Cantico a Natureza」を歌い終わると、止まらない拍手の中で「Agoniza mas Não Morre」。そして「Primavera」へと歌い継ぐとき、目を見開き歌うネルソンの背景に一瞬アヴェニーダが見えたような気がした。95歳とは思えない、サンバと、サンビスタの生き様を見せつけられたかのような夜だった。

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 翌日の晩。台風が通り過ぎた羽田空港にサウーヂのメンバーが集まっていた。輪の中にはネルソンとホナルド、リヴィアがいる。「来年も来たいね」というネルソン。誰もが事情さえ許せばその実現を望んでいる。そして誰がきっかけだったのか「Primavera」の一節が歌われると、いつしか全員の合唱となった。もちろんネルソンも歌っている。(この画像はYouTubeで9万回近い再生回数を記録した)。

 サンバが生まれた国から遠く離れた極東の島国で、サンバを心から愛する人々の力でかけがえのない交流が実現した。国境も距離も人種も宗教も越える繋がりが生まれた理由をネルソンに尋ねたら、一言、こんな答えが返ってきた「そこにサンバがあるからさ」。純粋にサンバを、そして音楽を愛する人々の快挙はずっと語り継がれていくことだろう。

(月刊ラティーナ 2019年11月号掲載)

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