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[2019.10]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界 第21回 心ならずも~タルデ(遅かった)

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

古い世代のギタリストには名作曲家でもあった人が多い。ロベルト・グレラ(「ラス・クアレンタ」)、ホセ・マリア・アギラール(「世の中にはねじが1本抜けている」)、ギジェルモ・バルビエリ(「日曜日のために」)、オラシオ・ペトロッシ(「ガジェギータ」)、エンリケ・マシエル(「パリで死んだ女」)、アルベルト・マストラ(「ミリニャーケ」)、マルシリオ・ロブレス(「カルミン」)などだが、ギター伴奏がタンゴ歌手の定番だった時代、ギタリストが作曲をゆだねられる機会が多かったのだ。ほとんどの場合ギタリストは作曲担当、作詞は作詞家や歌手が行う。しかし中には例外もある。

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 この曲の作詞・作曲者はギタリストのホセ・カネー。1915年ブエノスアイレスのパテルナル地区の生まれで、12歳の時、イグナシオ・コルシーニの伴奏者を聞いて、ギタリストになることを決心した。当時近所の年上の友だちの伴奏をして遊んでいたが、その友人はピエロ・ウーゴ・ブルーノ・フォルトゥーナ、何と後の大歌手ウーゴ・デル・カリルだったという。

若い頃のホセ・カネー

若い頃のホセ・カネー

オスバルド・プグリエーセ楽団、ロベルト・チャネル歌 La abadone y no sabia

オスバルド・プグリエーセ楽団、ロベルト・チャネル歌 「La abadone y no sabia」

La abandone y no sabiaの初録音を収録したポルフィリオ・ディアス楽団のLP

La abandone y no sabiaの初録音を収録したポルフィリオ・ディアス楽団のLP

 1933年、18歳の時にサンティアゴ・デビンの伴奏者としてプロデビュー、さらにフェルナンド・ディアス、ドラ・ダビスの伴奏を担当していたが、やがてアルベルト・ゴメスと出会い、約30年間彼の専属伴奏者としてアルゼンチン全土はもとより、ウルグアイ、チリ、ブラジル、メキシコ、コロンビア、ベネズエラ、ヴァージン諸島、キューバなどの海外公演に同行した。

 作曲に関わるようになるのは1938年、エンリケ・アルバラードという詩人から「フリアン・パルダレス」という詞を託され、ミロンガの曲をつけてほしいと頼まれた。詞の内容を見てカネーは主人公の名前を「フリアン・センテージャ」に、場所を「コラレス」から「ポンページャ」に替えることを提案、こうしてミロンガ「フリアン・センテージャ」が誕生した。この曲を気に入った映画監督の勧めで、アルバラードは以後フリアン・センテージャのペンネームで曲を書き続けた。後にアンヘル・ダゴスティーノ楽団の名演「カフェ・ドミンゲス」の朗唱でも知られる詩人フリアン・センテージャの芸名はホセ・カネーが考えたようなものだった。

 その後はエンリケ・カディカモ、エンリケ・ラリ、アベル・アスナル、カルロス・バールなどの人気作詞家や、アルベルト・ゴメス、ネリー・オマール、ホルヘ・ビダルなどの歌手が作った詞にも曲をつけるようになる。やがて自分でも作詞するようになり、その最初のヒット曲が「心ならずも」だった。

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