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[2019.05]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界 第16回 荒れ果てた愛(エル・アモール・デソラード)

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

この曲をこの連載で取りあげるのはあまり適切とは言えないかもしれない。なぜなら作詞者がスペイン人で、原曲はバラードだからだ。しかし1980年代最高の人気タンゴ歌手だったホルヘ・ファルコンの生涯最大のヒット曲であったのも事実なのである。

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ホセ・フェルナンド・ディセンタ・サンチェス

 あまりに暗い愛の物語の終わりが描かれている。作詞者はスペイン人で俳優、詩人として知られたホセ・フェルナンド・ディセンタ・サンチェス。スペインでは有名な演劇一家の出身で、一般には俳優として有名だが、その著作・詩は高く評価されている。1984年1月に54歳で病死している。この詩がいつ書かれたものかははっきりしないが、1977年以降のものであることは確かである。

 それはこの詩が1977年3月28日に自ら命を絶ったアルゼンチンの指揮・編曲者ワルド・デ・ロス・リオスに捧げられたものだからだ。ワルドは1934年アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれた。母はアルゼンチン・フォルクローレ界における女性歌手の先駆的存在だったマルタ・デ・ロス・リオスで、幼い頃からさまざまな音楽に触れ、大学ではアルベルト・ヒナステーラに師事し、作曲・編曲などを学んだ。ワルドは10代後半から母の伴奏としてピアノ演奏で録音にも参加、電気楽器でフォルクローレを演奏するキンテート、ロス・ワルドスでも注目された。1958年に米国に渡り映画音楽の分野で成功、さらに1962年にスペインに渡り、映画音楽で成功、1969年からシンフォニーとオペラをポップなサウンドにアレンジした一連のアルバムが大ヒットし、一躍イージーリスニングの分野で広く名を知られるようになった。1977年、「ドン・フアン・テノリオ」を題材にしたオペラのアレンジに取り組んでいるさなか、猟銃によって自らの命を絶った。享年42歳。人気の絶頂にあるアーティストの突然の死に、さまざまな憶測が乱れ飛び、母マルタの「息子が死ぬことはわかっていた」という直後の発言も物議をかもしたが、結局減量の影響や、妻であるウルグアイ人の女優・ジャーナリストのイサベル・ピサーノと長く離れていたことからくる極度のうつ状態が原因だったとされている。

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ワルド・デ・ロス・リオス(1954年)

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ワルド・デ・ロス・リオス『Su Música y Su Quinteto (Circa 1964)』(2007)

 ホセ・ディセンタの詞はワルドの気持ちを汲んだものなのだろう、経緯ははっきりしないが、この詞に曲をつけたのは1940年アルゼンチン・ラ・パンパ州ランクル生まれで、1960年からヨーロッパで活動、長くスペインで活躍、奇しくもこの原稿執筆中にマドリードで79歳で死去した歌手アルベルト・コルテスが曲をつけ、スペインでヒットさせた。曲種は特に形式のないバラードと言っていいだろう。

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