【松田美緒の航海記 ⎯ 1枚のアルバムができるまで①】 『Atlântica』 ⎯ 大西洋は深かった ⎯
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【松田美緒の航海誌 ⎯ 1枚のアルバムができるまで①】
『Atlântica』 ⎯ 大西洋は深かった ⎯
文●松田美緒
2004年夜な夜なファドを歌い歩いたリスボンの留学が終わる頃、7月にブラジルのミナスジェライス州の冬の音楽祭出演の仕事と、8月にはカーボヴェルデのホテルに歌いに行く仕事をもらった。
ブラジルはポルトガル語圏の国々のミュージシャンが一堂に会するイベントで、カーボヴェルデ、サントメのミュージシャンと赤土の大地300キロを旅した。リオ発着だったため、行きと帰りに、ギタリストのホジェリオ・ソウザと空港で会って、大西洋の歌をテーマにCDを作りたい、どうしたら作れるかと相談した。
その頃の私は、ポルトガル語圏のアンゴラやカーボヴェルデ、ブラジルの音楽文化にどっぷり浸かり、ファドの歌手として身を固めてしまうのが嫌で、私がじかに感じた汎大西洋の音楽の豊かさとつながりを描くような作品を作りたいと思っていた。それを、留学前に富山で会ったエポカ・ヂ・オウロの人たちと作りたかった。ショーロは黎明期のファドと同じルーツを持っていて、器楽の調べもリズムも大好きだったから。
ホジェリオと大まかに打ち合わせをして飛行機に飛び乗りリスボンに着くやいなや、1週間もしないうちにカーボヴェルデへ飛んで、大西洋の真ん中のクレオール文化の洗礼を受けた。毎日碧い海で泳いで、夜はいろんな歌を覚えて歌って、素晴らしい体験だった。「サイコーダヨ」という日本語が入った歌に出会ったのもそこで、日本人漁師がマグロを獲りに来ていたという話に出会い、この歌こそ日本人の私が歌わなくてはと思った。モルナが歌われるサンヴィセンテ島の独特のもてなしの心「モラベーザ」に浸り、BAUなど素晴らしいミュージシャンにも出会えた。そして、音楽的にも地理的にも精神的にもポルトガルとブラジルを繋ぐのは紛れもなくカーボヴェルデだと感じ、モルナは絶対に歌いたいし、そのリズムと情感はカーボヴェルデ人しかも上の方の島(ソタヴェント)の人に来てもらおう、と思った。こうしてアトランティカの構想は育っていった。
一時帰国して、アルバムは2004年秋にリオのサンタテレザの素敵なスタジオで録音。タイトル曲の「Atlantica」はリオの詩人アジェノールと共作したもの。リスボンで出会ってから私の目標だったアンゴラの歌手、故ヴァルデマール・バストスのために書いた詩がベースになっている。そこから普遍的な海の女神に捧げるような詩になった。大好きなクララ・ヌネスのサンバや、リスボンのあまり歌われていないファドから、港の詩情溢れるアマリアのファド、ヴィラ=ロボス、みんな海のドラマを描くような詩を選んだ。パウリーニョ・ダ・ヴィオラのサンバをカーボヴェルデのコラデイラにしたり、大西洋の音楽を融合したいと思った。ガロートの「Duas Contas」のみ、ずっと前から好きで、エポカのメンバーとセッションした時に歌った曲だった。また、ビクターのプロデューサーからの要望で日本の歌もということだったから、「雨降りお月」にポルトガル語歌詞をつけてもらい、熊本尚美さんがフルートで参加してくれた。ブラジルとの出会いは日系ブラジル人の友人からだったので、二つの故郷を持つ移民の歌を心の中で探し始めたのもこの頃だった。
カーボヴェルデ曲のために、ポルトガルに住んでいるアルマンド・ティトに来てもらった。彼はセザリア・エヴォラと子供の頃から一緒に演奏していて、サンヴィセンテ島の生き字引のような人。小柄で可愛くて、情感溢れながら神がかったグルーヴでモルナを弾くギタリストだ。長年アル中でセザリアのバンドからも干されたけど、今はやめているからということだった。でも、ちゃっかりウイスキーを空港の免税で買っていて、「これは生き別れになった弟のためだから」と言って、「弟はリオで水泳の先生をやっていてどこどこに住んでいるから連れて行ってくれ」と言う。その時私は、サンタテレザ在住でジルベルト・ジルのバンドにいるクラウジーニョと歌手のシンチャの家に居候させてもらっていて、二人に連れて行ってもらったけれど、その通りの番号は途中で終わっていて、とうとうどこにいるのか、そもそも記憶は正しいのかわからず、ウイスキーボトルはアルマンドが持って帰った。
楽器は、バンドリンはホナウド・ド・バンドリンやホドリーゴ・レッサが、それぞれ素晴らしい音を奏でてくれて、アルマンド・ティトとのセッションも本当に良かった。当時はお元気だった故ジョルジーニョ・ド・パンデイロも来てくれて、これぞ古き良きサンバのグルーヴを見せてもらった。クリストーヴァン・バストスはファドの原曲を聴いて、低音が面白いね、と左手で深くおおきな波のような響きを作ってくれた。ポルトガルギターを入れたかったけれど、ブラジルではいい人がおらず、アコーディオンのトニーニョ・フェハグチが来てくれて素晴らしかったし、ファドの2ビートはブラジルの2ビートとは違ってるから、どうせならイメージを変えちゃおうということで、「リスボン、私の街」はああなった。ブラジルのショーロのミュージシャンが大西洋の向こうの、遠くて根は同じ親戚のような音楽を、私の伝えたイメージを大切にしながらも何倍も豊かに昇華してくれた、貴重なレコーディングだった。
歌に関していうと、実は本当に難しかった。ポルトガルとブラジルでは歌唱の方法も言葉の発音も、表現そのものが違っている。それはまるで大西洋の海溝にはまったかのよう。ポルトガルの友人に来てもらって発音指導をしてもらったけれど、例えば、強く鼻にかかった発音で歌えと言われるとブラジル人がクスッと笑う。ブラジル音楽をファドの歌唱で歌おうものならダサくなる。反対にファドをブラジル発音で歌うと軽くなる。間にあるカーボヴェルデがちょうど中間だったけれど、そもそもクレオール語だからこその甘さがある。それぞれの表現をしたいと思って奮闘していた。海溝深く、課題も大きく、30歳すぎてようやく自分なりの声と落としどころができていった気がする。こんな贅沢なレコーディングだったから、今ならもっと深く詩を感じられるし、もう一度歌い直したいくらいだけど、あの初々しさは出せないだろうから、また「アトランティカ2」を作りたいな。
(ラティーナ2022年3月)
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