[2011.03]「もう歌うのはやめない」 〜ディアン・デノア インタビュー〜 マテオとの出会いから肉親との別れまで、歌から離れ、歌に戻るその理由
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[2011.03]「もう歌うのはやめない」 〜ディアン・デノア インタビュー〜 マテオとの出会いから肉親との別れまで、歌から離れ、歌に戻るその理由

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文●西村秀人、谷本雅世

 2009年3月、滞在先のホテルにさっそうとあらわれたディアン・デノア(正しい読み方はダイアンもしくはディアン・デノアだそうだ)。まだ日本でも滅多にお目にかかれなかった iPhone をあやつるその姿にただ驚嘆していると、そこに来たのはあの“トーテム” の元メンバーであり、ここ数年ディアンの伴奏をしているベーシスト、ダニエル・ロビート・ラガルデ。早速マテオのこと、最新作『キエン・テ・ビエラ』のことなどいろいろ訊いてみた。

 ── 子供の頃、どんな音楽に親しんでいたのですか?

ディアン・デノア 子供の時はクラシックとジャズをよく聞いていたわ。母はウィーン出身で、クラシックの勉強をしたけどジャズがやりたかった、でもウィーンでは出来なかった。そこでウルグアイに来て結婚して、自由にジャズを聴いて歌っていたのね。だから私の周りには生まれた時から音楽があったわ。ボレロもよく聞いたし、カルメン・ミランダも聞いたわね。あとはガーシュウィンとクラシック。私も当時の中流階級の女の子たちと同じように、ピアノを習ったわ。で もこういった環境に今感謝している。 

ディアン・デノア(右)と、“トーテム”創設メンバーであるベーシストの
ダニエル・ロビート・ラガルデ(左)(foto por MASAYO TANIMOTO)


── エドゥアルド・マテオと知り合ったのは?

ディアン・デノア もう大人になってからだけど、その頃ギターが流行っていて、ギターを弾く仲間が家に集まってはいろんな曲を演奏していた。ある日その集まりにラジオの番組をやっているエンリケ・デル・カンポという若者が来て、ちょっと斬新なショウをやりたいと提案があったのね。それはソリス劇場でクラシックとポピュラー音楽を一緒にやって、〈ムシカ・クルタ〉(=教養ある音楽)なんてものはないと主張するのがアイデアだったの。興味があったら参加してみないかと言われてOKした。でもその頃私は5つぐらいしかギターのコードを知らなかったから、ギタリストを探すことになった。カガンチャ広場にホテル・ランカステルがあって、その地下に〝ラ・ベラ〟というバーがあったの。今も同じ名前であるかしら?

ダニエル・ロビート・ラガルデ 今も同じ名前だよ。

ディアン・デノア そこに素晴らしいクアルテートが出ていたの。ピアノがマノロ・グアルディア、ギターがエドゥアルド・マテオ、コントラバスがアントニオ・ラガルデ、ここにいるロビートのお兄さん、ドラムがロベルト・ガレッティ。そこへ聞きに行ってすっかり気に入ってしまって、マテオにこのプロジェクトの話をしたの。あの頃は「ギャラがいくらか」という話をする必要はなくて、「やってみたいか」「時間はあるか」ということだけでよかったのね。いい時代ね。それでOKということになって、〈スノッブのためだけに〉というタイトルでショウをやった。私はボサノヴァやフランスの歌を歌ったわ。でもいざステージに出たら、満杯のお客さんがこっちをみていて、急に「自分はこんなステージの上で何やってるんだろう」って思ったりしたわ。そんな調子で始まったの。アントニオとは1969年まで、マテオとは1972年ぐらいまで演奏した。

── 当時のモンテビデオには音楽を楽しむ場所がたくさんあったのですね?

ディアン・デノア カフェ・コンセールみたいな小さな場所でライヴを聞かせる店がたくさんあったわね。踊る場所もあったけど、そっちはロックとかクンビアとか。

ダニエル・ロビート・ラガルデ 今は減ったね。カフェ・コンセールはなくなってしまった。ジャズ・クラブも少ないね。劇場できちっとプログラムされたコンサートか、モンテビデオの郊外にあるダンス中心の場所か、だね。あの頃のモンテビデオには小さいけどいい音楽が聞ける場所がいっぱいあったんだ。

ディアン・デノア それで、私もウルグアイを出てしまったのね。

── いつウルグアイを出たのですか?

ディアン・デノア 1974年4月29日、独裁政権がいやで、ベネズエラに出たのね。戻ったのは1992年。でもその間ほとんど歌わなかった。

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──また歌い始めたのはどんな心境の変化があったんでしょう?

ディアン・デノア 1990年頃にはもう一度歌いたいと思っていたのね。まだベネズエラにいた頃ね。実はその頃ゴンザギーニャが私のアルバムを作ろうとして計画を始めていたの。でも彼は1991年に交通事故で亡くなってしまって立ち消えになった。その少し前(1990年)にマテオも亡くなっていて、歌いたいという気持ちが失せてしまったのね。1994年にマテオの本の出版記念のためだけに歌ったけど、アルバムをつくろうとは思わなかった。98年からは本当に歌いたくなったけど、仕事が忙しくてアルバム作りは無理だった。でもその時にリサイタルをしてステージで何か感じたの。ステージは特別なアドレナリンが出るのね。家で歌っててもそうはならないの。そして2002年に母が亡くなって、仕事もやめて、マジョルカ島へ行って、そこでもう一度歌うことになったの。

── これからは?

ディアン・デノア もう歌うのはやめないわ。2005年に私の1972年の最初のアルバムが復刻されて、2006年にモンテビデオとブエノスアイレスでショウをやり、2007年にこのアルバム『キエン・テ・ビエラ』を出したのね。今年(2009年)はロサリオなどアルゼンチンの内陸にも行くわ。日本にも行かなきゃね。

── 新しいアルバム『キエン・テ・ビエラ』についてコメントしてください。

ディアン・デノア ホルヘ・ドレクスレル、シコ・ブアルキ、マテオ、スピネッタ……ヴィニシウスの曲もあるけど、これはあまり知られていない「メド・ヂ・アマール」という曲。すごくポエティックなの。「フォー・ノー・ワン」はビートルズの曲だけど、私はこれが一番好き。ボサノヴァみたいにアレンジしてるわ。「ラメント・セルタネージョ」はジルベルト・ジルの曲なの。1974年に私はバイーアを旅したんだけど、その時にジルの家に行って、私があとで歌うようにって6曲ほどカセットテープに入れてくれたのね。それとは別に手書きで歌詞もくれたの。それを30年経った今、もう一度スペイン語に私が訳してみたの。「カランバ」は私が長く暮らしたベネズエラの曲。作者オディリオ・ガリンデスは好きな作曲家なの。「あかりを消す時」はウルグアイの若いロック・グループのメンバーだったロドリゴ・ゴメスの曲。オリジナルとは全く違う雰囲気にしてみた。「私たちの息子たちに」はイヴァン・リンスの作品。私にも子供がいるけど、私はこういう歌を歌わなくてはいけない、と思って取りあげたの。最後は「ケ・マス、ケ・マス」というロビートの曲。ロビートがパリにいたときの作品ね。

ダニエル・ロビート・ラガルデ 1995年、ウルグアイに戻ってくる直前に書いたんだ。当時内務省の指示で町中のいたるところに監視カメラがつけられて問題になっていたんだ。今だったらどうってことないんだろうけど、そのことを歌った曲だ。

ディアン・デノア この曲は以前ロビートのアルバムで歌ったことがあるの。その時はロックっぽいアレンジだった。今回は変えようと思って(バホフォンドの)ルシアーノ・スーペルビエジェに、レゲエっぽくしたいって頼んだら、彼はあまり乗り気じゃなくて、結局彼独自のスタイルに仕上がったわね。そうそう、ブックレットの最後のページにステージで歌う母の写真があるわ。私よりはるかに歌はうまかったのよ。

(ラティーナ2011年3月号)

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