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[2014.12]永遠の《リズムの王様》フアン・ダリエンソ研究〈上〉

文●ガブリエル・ソリア/翻訳●鈴木多依子

texto por GABRIEL SORIA / traducción por TAEKO SUZUKI

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▲初期のオルケスタ(1928~1939)

 30年代以降におけるフアン・ダリエンソは、タンゴ界において紛れもなく重要な存在だった。彼への評価は演奏家としてではなく、唯一無二のスタイルを指揮する楽団リーダー/創立者としての姿であり、それは完全なる改革者であった。今日に至ってもそのスタイルを模倣し、再構築する後継者は後を絶たない。

 ダリエンソ・スタイルは軽快でリズミカル、そして本物のダンサブルなタンゴとしてタンゴ界に大きな影響を与えた。30年代中頃になると、力強いリズムに幅広いレパートリー、タンゴにミロンガのリズムを取り入れたりと、ダンス界においても革命を起こしていくのである。

 フアン・ダリエンソは20世紀、正しく言うと1900年12月14日に、モンテセラット地区のイポリト・イリゴージェン通りとセバジョス通りが交差する家に生まれた。父親はアルベルト・ダリエンソ、母親はアマリア・アメンドラ、妹ジョセフィーナと弟エルナニの3人兄弟だった。フアンは幼い頃から音楽に触れていた。1912年からアンヘル・ダゴスティーノ(1900年5月25日生まれ)とボログニーニとともにジャズを演奏したり、当時活躍していたダンサーのエル・モローチョ、エル・ポルトゥゲス、エル・カチャファスのバックで演奏していたのが、音楽家としての初期の活動であったとフアン・ダリエンソ自身が語っている。

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 ダリエンソは子どもの頃からバイオリンを習い、生計を立てるために公共の場で演奏していた。20年代になるとジャズ・オーケストラで演奏するようになり、その後「ムニェカ・ブラバ」などの有名曲で知られるピアニストのルイス・ビスカと、プロとして初めてのオルケスタを結成する。それをきっかけにダリエンソは、自分の名前を入れたタンゴ楽団「フアン・ダリエンソ・イ・ス・オルケスタ・ティピカ」を結成することを思い付く。結成するとすぐにアルゼンチンのレーベル〈Electra〉で録音を始めた。また、その頃のダリエンソのあだ名は、そのバイオリンを弾く姿から「エル・グリージョ(コオロギ)」だった。

 楽団最初の歌手は、様々な楽団で活躍していた若手歌手カルロス・ダンテで、その後フランシスコ・フィオレンティーノが加わった。そして面白いことに、この二人の歌手はダリエンソ楽団で活躍した数年後には、フィオレンティーノはトロイロ楽団、そしてダンテはアルフレド・デ・アンジェリス楽団と有名楽団で大ブレイクすることになるのである。また、〈Electra〉に残した録音のなかには特別ゲストに歌手ラケル・ノタルも参加している。

 フアン・ダリエンソ・イ・ス・オルケスタ・ティピカの独特のリズムとスタイルは、当時のタンゴを象徴するものとなった。ゆっくりな曲であればあるほど、後半に向けてバンドネオンのバリエーションが際立ち、ユニゾンが栄えた。1933年に製作されたアルゼンチン初の有声映画『タンゴ』では、キャバレー〈シャンテクレール〉で演奏するその当時のダリエンソ楽団の映像が残されている。そこではステージに並ぶオルケスタに混じり、自作のタンゴ「チルーサ」をバイオリン演奏するダリエンソの姿を観ることができる。

▲偉大なる時代のはじまり

 当時、演奏家・指揮者としては知られていたダリエンソだったが、大事なことが欠けていた。それはヒット曲を輩出することだった。そこでダリエンソは、オルケスタの音がさらに良くなってリズミカルに、そしてバンドネオンのバリエーションをもっと力強くできないかと考え始めたのである。そこでレパートリーをアローラス、バルディ、カナロ、グレコとすべてグアルディア・ビエハ(ダンス向きのリズミカルなタンゴ)時代のタンゴにぬりかえることを試みる。そしてそれが後々のダリエンソ・スタイルへと繋がっていくことになる。1935年7月2日にビクター・レーベルから発表した「ホテル・ビクトリア」とワルツ「デスデ・エル・アルマ(心の底から)」でダリエンソ楽団は大成功のデビューを果たし、オルケスタはバンドネオンとピアノのサウンドで個性を磨いていった。オルケスタ最初のピアニストはリディオ・ファソリで、1935年後半になるとロドルフォ・ビアジが入団しダリエンソ楽団のサウンドが完成することになる。

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 ダリエンソ楽団は大ヒットし、レコードも売れ、演奏は唯一キャバレー〈シャンテクレール〉で演奏をしていた。その頃タンゴは輝かしい時代を迎えており、ダリエンソ楽団が放つリズムとレパートリーは、ダンス・シーンにおいても人気を誇っていった。そしてエンリケ・カルベルとワルテル・カブラルに続き、1938年夏にやってきたロサリオ出身の歌手アルベルト・エチャグエが楽団に加わったことで、ダリエンソ楽団のスタイルとレパートリーはさらに定着していくことになる。1938~39年のあいだ、エチャグエとダリエンソはダンスに特化したタンゴ、ワルツ、ミロンガを生み出していった。ヒット曲には「ラ・ブルーハ」「ペンサロ・ビエン」「デ・アンターニョ」「エスタンパ・デ・バロン」「レクエルドス・デ・ラ・パンパ」「ミロンガ・ケリーダ」「エル・ビーノ・トゥリステ」などが挙げられる。なかでも大ヒットしたのは、1938年のエンリケ・サントス・ディセポロ監督・主演映画『メロディアス・ポルテーニャス』にダリエンソ楽団が出演・演奏した同タイトルの楽曲だった。興味深いことに、映画ではエチャグエによる歌付きだが、レコードではインストゥルメンタルで録音が残されている。

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 30年代後半になると、ダリエンソはビクター・レーベルの売れ筋のアーティストになっていた。ダンスホールやキャバレー〈シャンテクレール〉での演奏のほか、当時もっとも人気だったラジオ局〈ラディオ・エル・ムンド〉への出演もこなしていた。ところが1938年半ば、ロドルフォ・ビアジが自身のオルケスタを結成するためダリエンソ楽団を脱退。その数ヶ月後、ビアジの楽団はビクター・レーベルのライバル会社オデオン・レーベルからデビューを果たした。ビアジの後任として入ったフアン・ポリートはダリエンソ・スタイルを間もなく習得し、ダリエンソ楽団における歴代屈指のピアニストとなった。しかし1939年末、歌手エチャグエを含む楽団メンバーはダリエンソにいくつかの楽団の改変を求めたが、ダリエンソはそれを容認しなかった。そしてメンバーたちは全員脱退の決意はついているとダリエンソに伝え、オルケスタを去っていったのだった。

 したがって1939年12月から1940年夏のあいだに、フアン・ダリエンソはメンバーを一新して新たにオルケスタ・ティピカを結成することにした。そして、フルビオ・サラマンカ(ピアノ)、エクトル・バレーラ(第1バンドネオン)、カジェターノ・プグリシ(第1バイオリン)をメンバーに迎えた輝かしい40年代が幕を開けるのだった。「リズムの王様」という愛称が生まれたのもまさにこの時代だった。

40年代のオルケスタ

 (1940~50年)

 1940年4月12日、ダリエンソと〝新・オルケスタ・ティピカ〟はレコード・デビューする。レコードにはインスト曲「エントレ・ドス・フエゴス」(ロペス・ブチャルド作)と、その裏面には歌手アルベルト・レイナルをむかえたミロンガ曲「サリ・デ・ペルデドール」(エクトル・バレーラ=アルベルト・ネリー共作)が収録された。

 ダリエンソによって召集された新メンバーたちは、まさしく「リズムの王様」に変じるように栄光の時代を歩んでいった。オルケスタの三頭は、コルドバ出身の若きピアニストのフルビオ・サラマンカ(地元コルドバで活動していたタンゴ・グループの時代からダリエンソ・スタイルを真似していた)、バンドネオン奏者のエクトル・バレーラ(エンリケ・サントス・ディセポロ楽団のメンバーとして活躍し、自身のグループでも指揮していた)、そしてバイオリン奏者カジェターノ・プグリシ(1929年から31年にダリエンソ楽団に在籍し、フランシスコ・カナロとも活動をともにした)だった。

 彼らはサウンドの変革を試みた。フルビオ・サラマンカはピアノで旋律をリードし、それをベースにバレーラはバンドネオン陣を指揮した。そして楽団の正面には、リズム、スピード、バリエーションを掲げて両腕を大きく振り動かすダリエンソの姿があった。

 インスト曲も歌曲も、終わりの方になると演奏は走ってやけくそ状態になり、アルベルト・レイナルとカルロス・カサレスの歌手たちを急かすようになっていった。1940年12月になるとカサレスが楽団を抜け、代わりにエクトル・マウレが加わった。一方のアルベルト・レイナルは1942年5月まで在籍した。

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 その頃になると、マウレの歌い方の個性に合わせて楽団の演奏スピードは徐々に落ちていった。フアン・カルロス・ラマスが歌手として入団すると、楽団はラマスとマウレそれぞれの歌い方に合わせて演奏を変え、歌曲のあいだには「ラ・メンティローサ」(42~44年代のグアルディア・ビエハ)などのインスト曲を数曲演奏するようになった。

 1940年から44年までの4年間でマウレは50曲を録音し、そのあいだダリエンソ・スタイルのリズムとレパートリーに大いに影響されていった。しかしある日、ダンスホールの仕事を一回欠席したのを機に、マウレはオルケスタに姿を見せなくなった。ダリエンソはその数ヶ月前に、かつて大ヒットを飛ばした歌手アルベルト・エチャグエを再びオルケスタに呼び戻しており、さらに44年の終わり頃になるとアルマンド・ラボルデを歌手として入団させた。この二人の歌手が加わったことで、ダリエンソ楽団はマウレの時代とは異なるレパートリーに挑戦するようになった。エチャグエは「デスプエス」「ノ・ノス・ベレモス・ヌンカ」「ラ・マドゥルガーダ」など、ラボルデは「コロール・シエロ」「マグダラ」「パハロ・シン・ルス」などの楽曲でレコード・デビューを果たした。

 エチャグエはこのような1937~39年の楽曲をレパートリーに歌っていたが、ダリエンソ楽団に入団すると40年代のタンゴに挑むようになった。フルビオ・サラマンカ曰く、1945年になるとダリエンソはレパートリーの変化に悩んでいたという。「ダリエンソは、歌手で大きなヒットが出ずに悩んでいた。唯一のヒットが「ラ・クンパルシータ」と「ラ・プニャラーダ」が収録された盤だけ……フアンはエチャグエにもっと〝がさつな〟タンゴを歌えと指示していたね……」

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