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[2018.03]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界  第2回 ミ・ノーチェ・トリステ

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

今からちょうど100年ほど前の1918年4月26日、ブエノスアイレス劇場でホセ・ゴンサレス・カスティージョとアルベルト・ウェイスバック脚本のサイネーテ(寸喜劇)「犬の牙」(Los dientes del perro)が上演される。座長のエンリケ・ムイニョは劇中のキャバレーのシーンで、タンゴを使おうと思いたち、当時カルロス・ガルデルのレコードが出たばかりだったタンゴ「わが悲しみの夜」(ミ・ノーチェ・トリステ)を、女優マノリータ・ポリに歌わせ、当代きっての名楽団ロベルト・フィルポ楽団が伴奏をつとめることになった。


「犬の牙」は大ヒット、400回を超えるロングランとなり、特に「わが悲しみの夜」のシーンはアンコールで一晩に何度も繰り返され、劇場の入り口では作者に無断で歌詞を印刷した紙を売る少年が登場、あっという間に売り切れていたという。すでに発売されていたカルロス・ガルデルのレコードも話題となり、ガルデルは史上初の「タンゴ歌手」という名誉を得ることになる。

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Carlos Gardel

 この前年の1916年、歌手で作詞家のパスクアル・コントゥルシはウルグアイの首都モンテビデオにいた。結婚して子供も生まれたというのに、若い女にいれ込んで、家族を捨ててモンテビデオまで追いかけてきたのだった。劇作家を目指していたが、モンテビデオでは食べるためにギターを弾いて、「エル・フレーテ」「ラ・ギタリータ」「シャンパン・タンゴ」などの古典タンゴに自作の詞をつけてキャバレーで歌っていた。このキャバレー、実は「ラ・クンパルシータ」の作者ヘラルド・マトス・ロドリゲスの父親がオーナーの店「ムーラン・ルージュ」だったというから驚きだ。

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Pascual Contursi

 モンテビデオから一時ブエノスアイレスに戻った際、コントゥルシは「エル・プロテヒード」というカフェでサムエル・カストリオータ(ピアノ)のトリオが演奏する「リタ」(Lita)という曲を聞いた。当時の古典タンゴとは一味違った流麗なメロディが印象的だったのだろう、モンテビデオに帰ってからコントゥルシはこの曲に詞を付け、タイトルも「わが悲しみの夜」(Mi noche triste) に変更し、「ムーラン・ルージュ」で初演した。この時には追いかけた女性には捨てられていたそうなので、歌詞内容はコントゥルシの本心だ。

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