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[2019.12]Adeus, nossa Praça Onze, adeus!!! 日本の《プラッサ・オンゼ》38年史を辿る ― 2019年11月末をもって幕を閉じる、ブラジル音楽の拠点へ捧げるオマージュ― 第3回(最終回)

文●佐藤由美/写真●湯田義雄

text by YUMI SATO / photo by YOSHIO YUDA

本稿は、月刊ラティーナ2019年12月号に掲載されたものです。佐藤由美さんと湯田義雄のご協力で e-magazine LATINA に再掲させていただきました。

「グランドフィナーレ」と銘打たれた11月末までのプログラムは、残すところ僅か。10月30日には初代ウェイターの強靭パーカッショニスト、正規オープン時の達人ドラマー、初期ギター弾き語りの重鎮、85年に初来日したキーボードの巨匠、あまたセッションを支えてきたギタリストとベーシストが集い、懐かしくも熱い感謝の特別ライヴを繰り広げた。さぁ、本稿も駆け足で締め括らねば。

 人気店の暖簾を守るのは並大抵の苦労ではない。創業者にしてシンボルのような人物を失った《プラッサ・オンゼ》を継いだのが、伴侶の浅田クラウジアだった。今の店を出入りする誰もが恐れ敬い、怒られてもなお愛してやまないおっかさんである。

 勘違いされる方が多いのでざっと略歴を記しておくが、彼女は父方の実家・島根に生まれ、東京の国立で育った。十代の頃、父親の事業のためサンパウロへ移り住み、彼女は現地のカトリック系中学に学ぶ。70年、大阪万博の仕事を機に日本で働こうと決め帰国。就職先もブラジル系銀行に内定しており、彼女は長年支店長秘書を勤めることになるが……大阪万博のブラジル館で思いがけぬ人物と再会する。その男こそ、サンパウロでバイバイして別れたはずの浅田英了だった。男は未練がつのり、クラウジアを追っかけてきたのだ。

 二人の出会いはサンパウロのバイレ。週末の生バンド付きダンスパーティーだ。当時、男はバンド活動もしていたらしい。以来つきまとわれ、万博会場での再会をきっかけに結婚。やがて娘の花梨が生まれるも、家庭人タイプでない男は仲間内の遊び「ラスト・サマー・カーニバル」に妻を巻き込み、あろうことか高給取りの妻を潤沢な資金源とし《プラッサ・オンゼ》を開店。奥田兄弟の出資とともに、むろん首謀者自身もカメラマン報酬の大半を店の運営につぎ込んだが、なんせ堅気の稼ぎは安定している。もうお分かりだろう。店に顔を見せず口出しこそしなかったものの、クラウジアは当初より〝陰の黒幕〟と呼べる存在だったのだ。あな、怖ろしや~~。

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浅田花梨(撮影:木脇 伸)

 かくて93年10月末以降、ついに黒幕の女将が現れ店を切り盛りしていく。若いミュージシャンやスタッフ、娘の花梨が彼女をバックアップし、悲しみにくれる旧来の顧客へ新時代の到来を突きつけたと言える。折しもバランサという頼もしき若木が育ち、ついに飛躍の時期を迎えんとしていた。ブラジルで話題に上るほどのバランサの活躍を一番喜んでいたのは、当店での初ライヴを見届けて南米へ旅立った、故・浅田英了だったかも知れない。

 99年、「故人にふさわしい七回忌供養を」などと女将が口にしたばかりに、一度きりの浅草サンバ・カーニバル出場が実現する。大人の遊びはつねに真剣、本気であらねばならぬ。出演者・顧客・関係者が一致団結し準備が進められた。時効なのでバラすが、浅草サンバ常勝チームのボスが「本当に一回限りの出場なんですね?」と怖い顔で念押ししに店を訪れたほど、脅威の存在だったらしい。浅草の1週間後には旧騒乱仲間が集い、盛大な供養の仮装パーティー「ラスト・サマー・カーニバル」を、今は無き青山ベルコモンズで敢行した。

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 創業者の一人よっちゃん(奥田芳夫)は、96年に母上の身を案じ帰郷していた。同年末、暖簾分けの形で《プラッサ・オンゼ岐阜》を関市にオープン。地元で再スタートを切り多くのファンに慕われるも、2003年7月8日に倒れ、この世を去ってしまう。店自体は4年半後まで守り続けられたそうだ。

 良くも悪くも時代は移ろい変わる。巷にかつての好景気は戻らず、深酒に溺れる古いタイプの客は激減する一方…… クラウジアの決断は早かった。
週ごとの日替わりレギュラー出演方式をやめ、日々異なる客層へ向けて発信するライヴハウス・スタイルを選択。もちろん厳しい女将のお眼鏡に適ったミュージシャン、歌手だけが継続して出演できる。ときにジャンルを越え、ときにオリジナルを紡ぐ有望な若手が、ブラジル音楽の聖地で新たな鼓動を打ち始めた。思いがけぬ海外のアーティストも、敬意を払い入魂のライヴを披露して行った。新種サウンドを切り口に、当店でブラジルへの興味を掻き立てられた向きもあるだろう。つまるところ《プラッサ・オンゼ》は、古き佳きものと新たな人々や音楽を受け容れる、懐の深い広場だったということだ。

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プラッサ・オンゼ記念冊子。
表紙は永武哲弥画伯作、店へと降りる階段の壁画。

 21世紀の動向を正しく分析・紹介する資格が筆者にあるのか、甚だ心許ない。詳しくは閉店にちなみ作られた「記念冊子」を入手され、寄稿文や年表をご一読いただければ幸いだ。38年の歴史を刻んだ店は、じき北青山の再開発に伴うビル解体を前に使命を終える。奴隷解放のシンボルだったズンビ像を祀るリオのプラッサ・オンゼに倣い、「クラウジア像でも建立してやっか?」と言ったら、いつもの調子で、またもやこっぴどくドヤされた。

 ……さよなら、我がプラッサ・オンゼよ、さようなら。その姿はもう消えてしまうんだね。広場とともに思い出を運び去ってくれ。だが、永遠に我らの心に留まり続ける。いつの日か新たな広場を取り戻し、我々は昔日のおまえを歌い上げるだろう。(グランヂ・オテロ、エリヴェルト・マルチンス作、1942年のヒット・サンバ「プラッサ・オンゼ」歌詞抜粋)

(月刊ラティーナ2019年12月号掲載)

【編集部より】
 記事内に記載あります「記念冊子」(パンフレット)をはじめとする記念グッズは、ラティーナオンラインでもお買い求めいただけます。下記サイトをご覧ください。

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