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[2022.5]【連載 アルゼンチンの沖縄移民史⑩】戦後の移民社会と救済活動②
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[2022.5]【連載 アルゼンチンの沖縄移民史⑩】戦後の移民社会と救済活動②

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文●月野楓子

 のんびりペースの連載も10回目。始まった時は「内地」(沖縄から日本本土・他の都道府県をあらわす場合によく使われる)にいて、そのあと沖縄に引っ越し、気がつけばそれなりに時間が経っている。この期間に変わらなかったことといえば、コロナの話題が途切れなかったことだ。

 こんな状況ゆえに気付いたこともなかったわけではないけれど、行きたい場所に行けないという事態は想像以上のダメージをもたらし、思考や判断もなんだかおかしくなっていた気がする。移動が制限され、もちろんラテンアメリカにも行けないし、そこに暮らす人々に会えない。会いたい人に会えないのに生きてる意味ってなんですかと問うたのは私だけではないだろう。「いつか会える日のために元気でいよう」じゃなくて(もちろん理屈はわかる)会えないから元気じゃないのだ。いつかじゃなくて、いま会いたいのだ。たしかに健康は大切だけれど、割り切れないまま新しいルールの中に生きている。

 それでも明けないコロナはないようで、3月から沖縄の道には「わ」や「れ」や「Y」のナンバーをつけた車が増えたし(前者はレンタカー、Yは駐留軍人軍属の私有車)、4月のキャンパスでは対面授業が再開され学生が戻ってきた。外務省が出している海外渡航危険情報も緩和の傾向にあるし、留学生の入国も徐々に増えている。沖縄には南米の国々に暮らす沖縄移民の子弟を留学や研修に迎える制度があり、コロナ禍で中止や期間の短縮がされていたが、少しずつ元の形に戻りそうだ。延期になっていた「世界のウチナーンチュ大会」も今年は開催予定になっている。

 「移動の自由」はコロナだけでなく戦争によっても壊される。前回書いたように、第二次世界大戦の影響によって日本人は移民先国で「敵国人」となり、行動が制限された。敗戦後もすぐに日本に帰ることはできず、インターネットはおろか電話も、手紙さえ届くかわからない状況で、故郷にいる家族や友人の安否を思う不安はいかばかりだったであろうか。移民たちは離れたところからできることを、離れていてもできることを探し、動き始めた。

 終戦から1947年にかけてのアルゼンチンの日本人移民社会に関する記録は、新聞の発行も停止されていた時期であるため不明な点が多い。在亜邦人について書かれた『アルゼンチン日本人移民史』の年表では、終戦の翌年である1946年の欄に記載されている項目は二つのみである。一つは前回書いた移民の再開に向けた活動で、もう一つは戦後の日本を支援するための活動が行われたことだ。

「敵」ではなくなるまで

 第二次世界大戦においてアルゼンチンは連合国側に立ち、日本は枢軸国にいたため、アルゼンチンにおいて日本は「敵性国家」となった。アルゼンチンの日本人は他国の日系人の経験と比較すると、第二次世界大戦を相対的に穏やかに過ごすことができたと言われる。アメリカで行われたような日系人に対する大規模な強制収容が行われたわけでもなく、ペルーのように南米から収容のためアメリカへ移動させられたわけでもないことが「相対的に穏やかであった」といわれる所以だ。
 それでも一部の人は一時的に郊外へ移動しなければならなかったし、遠出をする際には届け出を必要とするなど、生活は日常とは異なる管理下にあった。アルゼンチンの日本との国交断絶は他の南米諸国よりも遅かったとはいえ、新聞の発行停止や日本語学校・日本人会といった組織・団体の閉鎖も行われた。人々は行動をする際には怪しまれないよう、目立たないよう、気を配らねばならなかった。

 「敵性外国人」としてその処置と干渉が解かれたのは1947年に入ってからのことである。アルゼンチンと日本の間での通信業務が再開され、米軍占領下の沖縄との通信業務にも許可が下りた。日本語新聞もこの年から発行されるようになった。移民社会においては敗戦後の故郷の状況は十分に把握できなかったが、日本・沖縄へ物資を送付し支援を行うことを目的として終戦直後の移民社会の活動は立ち上がった。そして、「敵性国家」としての扱いが解除されることによって救済活動は活発化していった。

救済活動

 救済活動において中心的な役割を担った「日本戦争罹災者救恤委員会」(以下、救恤委員会)は、首都ブエノスアイレスで結成された。戦争で疲弊した日本社会に金銭や物資を送ろうと有志が集まって物資送出の可能性を検討し、実現に向け活動した。正式な組織としてアルゼンチンの赤十字社へ申請を行い認可も受けている。

 物資の送出が可能となった経緯については、アメリカ本土で行われていた救済活動との関係も無視できない。同様の活動が展開されていた北米からは、南米の日本人に向けて協力が呼びかけられていたという。北米で始まった救済活動は「ララ」の名前で知られ、ララを通して送られた物資は「ララ物資」と呼ばれた。「ララ」とはLicensed Agencies for Relief in Asia(アジア救済公認団体)の頭文字をとったもので、「戦後の日本、朝鮮、沖縄を救済する」ため開始された活動であり、救援物資は戦後の日本の食糧難や物資不足を大きく補った。1946年11月から1952年6月までの間に日本に送られたララ物資は当時の金額で約400億円にのぼり、その内の2割が日系人によるものであったという。

救援物資の内容 『亜国日報』1948年1月1日 

 アルゼンチンの救恤委員会は様々な方法で物資輸送を模索し、ララを通しての輸送はそのひとつであった。寄付の募集や物資の取りまとめは救恤委員会が担い、1947年8月の『亜国日報』には、第一回目の送付物資として乾肉20トンが購入され、食用油やキャラメルの入った「食料品詰小箱」4800個とともにブエノスアイレス港から送出されたと記されている。この物資のうち一部は沖縄へも届けられ、沖縄民政府知事から救恤委員会宛てに感謝状が送られ、人々への物資の配布準備が進められているとも伝えられた。
 これは救恤委員会の活動が早い段階から沖縄に向けた支援に重点を置いていたことによる。当時の在亜邦人社会は約半数が沖縄系の人々であった(戦後に沖縄からの移民が増えたため、現在では7割から8割が沖縄出身あるいは沖縄にルーツを持つと言われる)。委員会には沖縄出身者も参加しており、日本全体へ向けた支援に加え沖縄に向けた支援を強化するため「沖縄救済部」が作られた。後にそれを「在亜沖縄救済会」(以下、救済会)とし、自治性をもたせた組織とした。

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