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[1989.08]今月のアーティスト紹介 スピック&スパン

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 e-magazine LATINA の2021年2月の特集「日本のラテンシーンを作ってきた人たち〜ブラジル音楽編」に関連して、佐藤由美さんのご協力で、月刊ラティーナ1989年8月号からアーカイヴ記事を掲載します。

紹介人■佐藤由美

 昨年(※1988年)2月、折しも来日中のジョイス姉さんが「アタシ、これからヨシダのレコーディングに付き合うことになってんの。じゃ行ってくるわね」と、ギター1本だけ抱えてふらり外出してしまった。おいおい、姉さんどこに行くの……と追いかける暇もなく、彼女はどこかのスタジオに拉致されてしまったのだった。
 あの時吹き込んだとジョイスが話していた2テイクはいったいどうしたんだろ、などと記憶の糸を手繰り寄せていたらホラ、スピック&スパンの最新作(※8作目『トロピカル・コネクション』)が遂にNECアベニューからリリース。
 思い起こせばブラジル元年ともいうべき79年春、かねてライヴの場で噂となっていたブラジリアン・フュージョン・バンド(かの時代、こういう呼び名がトレンドだった)、スピック&スパンの初レコーディングが日本コロムビアのスタジオでスタートしていた。当初のメンバーは今のようなロック的要素はかなり薄く、トロンボーンの向井滋春、キーボードの大徳俊幸はじめジャズ界名うてのプレーヤーの集合体という感が強かった。その昔、ジョージ大塚のボーヤだったというリーダーでドラマー、名ヒチミスタの“タマさん”こと吉田和雄が、ジャズ・ドラマーというテリトリーからはみ出して、ブラジル人のスイング(バランソかな?)感を湛えたプレーで聴き手の心に“ブラジル疑似体験空間”をおし広げてくれたものだ。
 その後、パーカッショニストが三島一洋から若手のヤヒロトモヒロに交代したり、好コンビを印象付けた坂井紅介のベース時代などを経、スピック&スパンは緊張弛緩を繰り返し、かずかずのブラジルのアーティストと共演してきた。アルバム第2作目では来日中のエグベルト・ジスモンチを拉致し(どうも“タマさん”はこういう交渉手口がうまいらしい)、スペーシーな1曲(※アルバムタイトル曲「サルヴァドール」)を録音することに成功した。レシ・ブランダン来日ステージでも、絶妙のバッキングを披露。アルシオーネとの六本木セッションでは、アルシオーネの歌のうまさを煽って引き出すことに成功してくれた。ジョアン・ボスコともセッションしたけれど、何といっても彼らグループをリードすることを痛快とし、単なる顔合わせセッションの域を越えて共演を楽しんでいたのが、かのジョイス姉さんだった。(ジョイスの第1回目の来日では、両者は武道館の舞台でプレーしているのだ!※85年、ヤマハ主催の第16回世界歌謡祭で共演)
 ジョイスという人は歌手、作曲家であると同時に、根っからのミュージシャンだ。東京という遥か遠い地でも、彼女は普段着のままの音作りゲームを大いに堪能してしまう。「コバヤシ(その時のキーボード奏者※小林修)、あんたの今のソロは色っぽかったわよ!」だの「ベニスケ(その時のベーシスト※坂井紅介)、入りかたはバッチリよ、いい感じ!」なんて声をかけつつリハは進んだものだった。昨冬の2度目の来日時に、ふらりとギター1本持ってレコーディング実現なんてのもこんな過去の体験があってこそ、ということかも知れない。
 さらにスピックはジャヴァンのバック・ミュージシャンを録音に招いたり、レイラ・ピニェイロとステージで共演したり……もっともっと、私は見逃してしまったけれど世界中の有名演奏家たちと、“ブラジル”というキーワードを携えて(切り札、かも知れないな)縦横無尽のセッションを展開し続けている。パット・メセニー、今回のレコーディングで2度目の共演となったスティールドラムのアンディ・ナレル……。私にはそんなスピックの交流が実に羨ましく思えてしまう。

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吉田和雄とトニーニョ・オルタ

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