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[2017.03]【第2回 カンツォーネばかりがイタリアじゃない】ルイジ・テンコ 受け継がれるカンタウトーレの魂

文● 二宮大輔

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Luigi Tenco

「申し訳ないけど、10月はテンコ賞に出演するかもしれないから」

 ローマで活動するアコースティックの楽団アクスティマンティコの作曲担当ステファノに、ライブ出演を断られた。もう7、8年前のこと、イタリア語で東欧風のサウンドを奏でるこのバンドに惚れ込んだ私は、日本のバンドと共演させるライブを開催しようと奔走していた。そして調整に調整を重ねて10月で都合がつきそうになった所、前述の理由で全ては水泡に帰したのだった。残念に思ったが、それ以上に好奇心がそそられた。テンコ賞というのはどうやら人の名前から取っているようだが、いったい何者なのか。私の好きなアクスティマンティコが出演する賞の冠になるくらいだから、きっと興味深い人物に違いない。そう思って調べてみると、答えはすぐに分かった。ルイジ・テンコは北イタリアの小村カッシーネ生まれのシンガーソングライター。何よりもまず驚いたのが、その特異な死についてだ。

1967年、デビューから8年目にして、国内最大の音楽フェスティバルであるサンレモ音楽祭に出場が決まったルイジ・テンコ。ノミネートされた各アーティストの楽曲の中から、審査員と観客が投票して優秀作品を決めるこの音楽祭で、テンコが歌うことに決めたのは自信作のバラード「Ciao amore, ciao」。元々はイタリア統一期の戦死者を題材にした反戦歌だったが、検閲を回避するため、サビの「さよなら愛しい人よ、さよなら」(Ciao amore, ciao)の部分以外を大幅に変更。イタリア移民が新天地を目指し旅立つ内容に作り替えた。当時のサンレモは男女ペアになって、別々に同じ曲を歌っていた。テンコは恋愛関係にあったフランス人歌手ダリダとともに、意気込んで大舞台に臨んだが、結果はノミネートされた16曲中12位。これに失望したテンコは周囲のミュージシャン仲間に当たり散らし、ホテルに戻ると、その夜のうちにピストルで自殺してしまう。遺書には、彼の筆跡で「人生に疲れたわけじゃない。自分の曲に投票しなかった審査員と観客へ抗議するために、こう(自殺)するんだ」と綴られていた。ステージから降りて数時間後の、あまりにも唐突な死だった。この日の一連の出来事については、残された証言と証拠から、陰謀説も含めて様々な憶測が飛び交ったが、とにかく彼の死の翌日から「Ciao amore, ciao」は爆発的なヒットとなり、売り上げは計30万枚に達した。

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Luigi Tenco『Ciao Amore, Ciao』

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