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[2021.05]6月5日はジョアン・ノゲイラの命日。「新しい労働運動」の時代を歌った「Canto do trabalhador(労働者のうた)」を紹介【ブラジル音楽の365曲】[5/31〜6/6]

面白くてタメになる1日5分の音楽鑑賞「ブラジル音楽の365曲」[5/31〜6/6]

文:花田勝暁(編集部)

 2021年3月1日から「ブラジル音楽の365曲」をスタート。
 ブラジル音楽やブラジル文化についての情報を盛り込んで、面白くてタメになる1日5分の音楽鑑賞の場を提供できたらと思っています。毎日更新で、この投稿から14週間目に入ります。今週で、4ヶ月目に入ります。
 平日は、毎日午前中の更新を予定しています。休日分は、遅い時間のこともあるかもしれませんが、ご容赦ください。

先週の分↓

6月5日「Canto do trabalhador(労働者のうた)」

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1979年、サン・ベルナルド(São Bernardo)のスタジアムで演説するルーラ

 1964年に起きたクーデターで誕生した軍事政権は、1985年まで続きました。しかし、非合法だったストライキが1970年代後半に、労働者が賃上げと労働条件の改善を求めて各地で大規模かつ頻繁に実施されて、特に1979年のストライキには全国で300万人以上が参加し、軍事政権や国民に大きなインパクトを与えました。

 反政府的なストライキを主導したのは、サンパウロ市近郊の金属労働組合のリーダーとして台頭し、のちに選挙へ4度も挑戦して大統領となったルーラ(Luiz Inacio Lula da Silva)など、国家とは距離を置いた「新しい労働運動」の主な担い手たちでした。

 労働運動のほとんどは、雇用主の強硬な態度や警察の弾圧に直面していました。1979年の10月には、サンパウロ圏の金属労働者のストライキ司令部のリーダーの一人である労働者サント・ディアス・ダ・シルヴァ(Santo Dias da Silva)が、工場の外でピケ(※)を組織している最中に治安部隊に射殺されました。彼の葬儀には3万人が参列し、警察の暴力に抗議しました。

ピケ(※):ピケッティングとは、ストライキを行っている労働者たちがそのストライキを維持し、又は強化するために、労務を提供しようとする労働者や業務を遂行しようとする使用者側の者又は出入構しようとする取引先に対し、見張り、呼びかけ、説得、実力阻止その他の働きかけを行う行動。

 ジョアン・ノゲイラ(João Nogueira)とパウロ・セザール・ピニェイロ(Paulo César Pinheiro)による「Canto do trabalhador(労働者のうた)」は、このような時代に作られた歌でした。労働運動の新しい時代を受けて作られた歌でした。

Vamos trabalhar sem fazer alarde
Pra pisar com força o chão da cidade
A vida não tem segredo
Quem sentado espera a morte é covarde
Mas quem faz a sorte é que é de verdade
É só acordar mais cedo
 街の土壌をしっかり踏みしめるために
 騒ぐことなく活動しよう
 人生に秘密はない
 座して死を待つ者は臆病者だ
 運を味方につける者が本物だ
 もっと朝早く起きるだけだ

É só regar, pra alimentar o arvoredo
Por essa luta eu não retrocedo
Pra ver toda a mocidade
Com os frutos da liberdade
Escorrendo de entre os dedos
Que é pra enterrar de uma vez seus medos
 木立を育てるためにはただ水をやればいい
 この戦いのために、私は一歩も引かない
 すべての青春を見るために
 指の間からにじみ出ている
 自由の果実を手にもって
 不安を拭い去るために
 
...

(「Canto do trabalhador」 作詞作曲:João Nogueira / Paulo César Pinheiro)

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 ※6月5日はジョアン・ノゲイラ(João Nogueira|1941年11月12日 - 2000年6月5日)の命日です。享年58才。
 17歳の時、地元メイエル(Méier)のカーニヴァルのブロコの指揮をとり、同時期に彼の作曲した「Espera, ó nega」が初めて録音され、ジョアン・ノゲイラ本人もコーラスで参加しました(58年頃)。
 1970年に、エリゼッチ・カルドーゾ(Elizeth Cardoso)が彼の曲「Corrente de aço」を聴いて、録音。1971年には、クララ・ヌネス(Clara Nunes )が「Meu lema」、エリアナ・ピットマン(Eliana Pittman)が「Das duzentas pra lá」を録音。
 同年、ポルテーラに加入し、「Sonho de Bamba」がエンヘードに選ばれました。後にポルテーラを別のエスコーラ・ヂ・サンバのトラヂサォン(Tradição)を結成するために脱退。
 40年のキャリアで、18作のアルバムを残しました。多くの共作者がいましたが、代表的なのは、パウロ・セーザル・ピニェイロでした。
 息子のヂオゴ・ノゲイラもサンバ歌手として、若手男性サンバ歌手の実力派代表格として、大活躍しています。

6月4日「Mulher Rendeira(刺繍をする女)」

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ランピアォン(Lampião、中央右)とその一団。中央右がマリア・ボニータ

 ブラジル北東部の内陸部は、干魃に苦しめられてきました。政治的にも孤立し、警察の管轄からも孤立していました。大牧場主は、他の牧場主から土地を守るために、私的軍隊を雇っているほどで、しばしば血で血を洗う戦いを続けていました。
 牧場主から過酷な労働を強いられていた労働者の中には、徒党を組んで反乱を起こし、武器を奪って牧場や農園を襲撃し、略奪を行なう者たちが現れました。これが「カンガセイロ (山賊)」と呼ばれる集団です。「義賊」と訳されることもあります。カンガセイロたちのリーダー中には、数々の伝説を残し、民衆の英雄にあげられる人物もいます。その最たる人物が、「ランピアォン(Lampião)」です。

 ランピアォン(本名 Virgulino Ferreira da Silva)は、1898年6月4日に生まれました。ランピアォンの一族は、農業や牧畜をしていましたが、周りの一族との争いで、父を殺害され、弟たちを連れてカンガセイロになりました。父の復讐を果たした後も、カンガセイロをやめず、北東部一帯で暴れまわり、1938年7月に殺されるまで多くの人々に恐れられ、かつ尊敬されました。
 ランピアォンは、詩を書き、曲も作り、サンフォーナを弾き、デザインをし、裁縫や刺繍まで行なう多才な人物でもあったそうです。カンガセイロたちは、イヤリング、指輪、首飾り、英国製の絹のスカーフ、フランス製のタフタのスカーフを身につけるなど、当時の最先端を行くファッション センスを備えていて、それが、ルイス・ゴンザーガを初めとする北東部の音楽家のファッションにも影響を与えています。
 カンガセイロとしてランピアォンと一緒に行動した、ランピアォンの妻、マリア・ボニータ(Maria Bonita)の名も知られています。マリア・ボニータは、時の一般的な服装に逆らって膝上のスカートをはいていました。

 オリジナルの歌詞は、ランピアォンが書いたとされる歌があります。「Mulher Rendeira(刺繍をする女)」です。北東部の人々の間で歌い継がれてきたこの曲を、1953年の映画『オ・カンガセイロ』で使用する際に、ゼー・ド・ノルチ(Zé do Norte)がアダプトしました。映画はカンヌ映画祭に出品され大評判となり、曲も世界に知れ渡りました。

「シネマ·ノーヴォ」を代表する監督グラウベル・ローシャ監督がブラジル映画界に革命を起こした作品『黒い神と白い悪魔』でもランピアォンやカンガセイロが描かれました。そして2019年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した新作ブラジル映画『バクラウ』は、グラウベル・ローシャ監督にオマージュを捧げた作品でしたが、この作品では現代のカンガセイロとも言える人物が描かれていました。

 「Mulher Rendeira(刺繍をする女)」は、ランピアォンが実の祖母の誕生日を祝って歌詞を書いたと言われています。ランピアォン一味では、事実上の軍歌のように、この曲が歌われていたといいます。

 映画『オ・カンガセイロ』で取り上げられた以外にも、ルイス・ゴンザーガ、エルバ・ハマーリョ、シコ・セーザル、デモニオス・ダ・ガロアなどが取り上げています。また、英訳もされ、英語バージョンもさまざまな歌手によって歌われてきました。

Olê muié rendera
Olê muié rendá
Tu me ensina a fazê renda
Que eu te ensino a namorá
 こんにちは、刺繍をする女性よ
 あなたは私に刺繍の仕方を教えてくれる
 私はあなたにデートの仕方を教えます

Lampião desceu a serra
Deu um baile em Cajazeira
Botou as moças donzelas
Pra cantá muié rendera
 ランピアォンが山を降り
 カジャゼイラでダンスパーティーを開いた
 「Mulher Rendeira」を歌うために
 若い娘たちを連れてきた

As moças de Vila Bela
Não têm mais ocupação
Se que fica na janela
Namorando Lampião
 ベラ村の女の子たちは
 もう仕事をしていない
 窓辺に立つと
 ランピアォンに恋をしている

(「Mulher Rendeira」)


6月3日「Azul」

 今月下旬、6月26日に、大洋レコードよりヴァネッサ・モレーノ(Vanessa Moreno)の弾き語りのアルバム『Sentido』が国内盤でリリースされます。

 ヴァネッサ・モレーノは、サンパウロ新世代の実力派歌手。MPBの未来を引っ張っていくうちの1人だと考えられています。これまでは、「弾き語り」ではなく「歌」の人という印象でしたが、コロナ禍での自宅での配信ライヴで、自分の原点である「弾き語り」のスタイルに立ち返り、この度、弾き語りアルバムの録音に至りました。

 『Sentido』は、ヴァネッサのオリジナル曲が中心のアルバムですが、全11曲のうち4曲のカバー曲が収録されています。そのうちの1曲がジャヴァン(Djavan)の「Azul」です。ジャヴァンについて深める機会はまたあると思います。今日は、「Azul」を聴きましょう。

Eu não sei
Se vem de Deus
Do céu ficar azul
Ou virá
Dos olhos teus
Essa cor
Que azuleja o dia
 空が青いのは
 神様のおかげなのか
 それとも
 あなたの目のおかげなのか
 私はわかりません
 一日を彩る
 この色 

Se acaso anoitecer
E o céu perder o azul
Entre o mar e o entardecer
Alga marinha, vá na maresia
Buscar ali um cheiro de azul
Essa cor não sai de mim
Bate e finca pé
A sangue de rei
 暗くなって
 海と夕陽の間で
 空は青を失う
 海藻、潮の香り
 そこに青の香りを求めに行く
 この色は私から離れない
 王の血の
 鼓動と刻印

Até o sol nascer amarelinho
Queimando mansinho
Cedinho, cedinho (cedinho)
Corre e vá dizer
Pro meu benzinho
Um dizer assim
O amor é azulzinho
 太陽が黄色く昇るまで
 柔らかく燃える
 早くに、早くに
 私の愛する人に
 走って行って言ってください
 このように言ってください
 愛はとても青い、と

...

(「Azul」作詞作曲:Djavan)


6月2日「Canto das Três Raças」

 記事の更新が多くて遅くなりました...
 今日は、「Canto das Três Raças」を作曲したマウロ・ドゥアルチ(Mauro Duarte|1930年6月2日 - 1989年8月26日)が生まれた日です。同曲の作詞はパウロ・セーザル・ピニェイロ(Paulo César Pinheiro)で、歌ったのはクララ・ヌネスでした。

 加藤登紀子さんが、「褐色のサンバ」というタイトルで日本語詞をつけて、歌っています。加藤登紀子さんの日本語詞はこちらで、確認していただけます。

 マウロ・ドゥアルチは、ミナスジェライス州のマチアス・バルボーザ(Matias Barbosa)で生まれ、パウロ・セーザル・ピニェイロやWalter Alfaiate(ヴァルテル・アルファイアチ)との共作でも多くの曲を残しました。

 1960年代に、ヴァルテル・アルファイアチやノカ・ダ・ポルテーラ(Noca da Portela)らと結成したオス・アウテンチコス(Os Autênticos)と、ネルソン・サルジェント(Nelson Sargento)、エルトン・メデイロス(Elton Medeiros)らと結成したオス・シンコ・クリオウロス(Os Cinco Crioulos)という2つのグループで活躍し頭角を表し、作曲家としては、クララ・ヌネス(Clara Nunes)が「Menino Deus」「Canto das Três Raças」を70年代半ばに取り上げたことで評価が決定的となりました。

 「Canto das Três Raças」は、直訳すれば、「(ブラジルの)3つの民族の歌」という意味ですが、その3つの民族というのは、先住民インディアン、ポルトガルから渡ってきた白人たち、そして西アフリカから送られてきた黒人たちを指します。

Ninguém ouviu
Um soluçar de dor
No canto do Brasil
 苦痛の叫びは
 誰にも聞こえなかった
 ブラジルの片隅で

Um lamento triste
Sempre ecoou
Desde que o índio guerreiro
Foi pro cativeiro
E de lá cantou
 インディアンの戦士が
 囚われの身となり、
 そこで歌って以来、
 悲しい嘆きは
 いつも響いている

Negro entoou
Um canto de revolta pelos ares
No Quilombo dos Palmares
Onde se refugiou
Fora a luta dos Inconfidentes
Pela quebra das correntes
Nada adiantou
 キロンボ・ドス・パルマーリスで
 ニグロは反乱の歌を歌った
 そこは彼が
 鎖を断ち切るために
 内密の闘争から逃げて
 避難した場所
 何も助けなかった

E de guerra em paz
De paz em guerra
Todo o povo dessa terra
Quando pode cantar
Canta de dor
 平和の時の戦争
 戦争の時の平和
 この大地の全ての民が
 歌う時は
 痛みの歌

E ecoa noite e dia
É ensurdecedor
Ai, mas que agonia
O canto do trabalhador
Esse canto que devia
Ser um canto de alegria
Soa apenas
Como um soluçar de dor
 そしてそれは、夜も昼も響き渡る
 それは耳をつんざくよう
 ああ、なんて苦しいんだろう
 労働者の歌
 その歌は、
 喜びの歌であるべきだ
 痛みですすり泣くのように
 聴こえてくるだけだ

...

(「Canto das Três Raças」作詞作曲:Mauro Duarte / Paulo César Pinheiro.)

6月1日「Apenas um adeus」

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 6月1日は、クララ・ヌネス(Clara Nunes)や好んで取り上げたり、ジョアン・ノゲイラ(João Nogueira)との共作関係でバイーアのサンバの作曲家として確固たる地位を築いたエヂル・パチェコ(Edil Pacheco|1945年6月1日 - )の誕生日です。今日で76才。自身の名義でもアルバムをリリースしたり、ステージに立ったりしてきています

 最初期に録音された曲の1つは、エリアナ・ピットマン(Eliana Pittman)が1969年に録音した「Fim de Tarde」(ルイス・ガルヴァォンとの共作)。以降ガル・コスタ(Gal Costa)が「Estamos aí」(パウリーニョ・ヂニスとの共作)、ウィルソン・シモナルが「Tristeza」(カルロス・ラセルダとの共作)と取り上げるなどして、彼の名が知られていきました。

 1977年には、自身の名義の初めてのアルバム『Pedras afinadas』を発表。1979年には、クララ・ヌネス(Clara Nunes)が「Apenas um adeus」(ホキ・フェヘイラとパウリーニョ・ヂニスとの共作)が取り上げました。クララは、以降も「Coração valente」や「Ijexá」といった彼の曲を取り上げ、ホベルト・ヒベイロ(Roberto Ribeiro)、エルザ・ソアレス(Elza Soares)、ベッチ・カルヴァーリョ(Beth Carvalho)、ネギーニョ・ダ・ベイジャ・フロール(Neguinho da Beija-Flor)などが、続々と彼の曲を取り上げました。1983年からはジョアン・ノゲイラ(João Nogueira)との共作関係が始まりました。

  今日は、「Apenas um adeus(たった一言のさよなら)」を聴きましょう。早逝したクララ・ヌネスが歌うこの歌を聴くと、色々な思いが巡りますね。

Apenas um adeus não apagará
Um coração em chama
Apenas quem lhe chama, sou eu, sou eu
Apenas quem lhe ama
 たった一言のさよならでは
 燃え上がる心は消えないでしょう
 あなたの名前を呼んだのは私だけ
 あなたを愛したのは私だけ

Só quem mexe na terra
Sabe o cheiro do chão
Só quem faz uma guerra
Sabe o gosto da razão
Pagando em começo,
Vem o troco do fim
Eu sou mais esse apreço
Que você que fez de mim
Eu sou mais os meus olhos
Nesta festa de esperar
Afinal, querida amiga
Quem vai enxugar o mar?
 大地を耕す者だけが、
 大地の匂いを知っている
 争いをする人だけが
 理性の味を知っている
 最初に支払い
 最後にお釣りがくる
 私はあなたが評価した以上もの
 この待つというお祭りで私は、私の目以上の存在だ
 結局のところ、親愛なる友よ、
 誰が海を乾かすのでしょう?

Apenas um adeus não apagará
Um coração em chama
Apenas quem lhe chama, sou eu, sou eu
Apenas quem lhe ama
 たった一回のさよならでは
 燃え上がる心は消えないだろう
 あなたの名前を呼んだのは私だけ
 あなたを愛したのは私だけ

Esta felicidade
Que o amor ensinou
Não vai ser só saudade
Não vai ser só desamor
As noites vão compridas
No passo da manhã
Façamos das feridas
O nosso talismã
Fizemos tanta coisa
Que no peito acontece
Não se faz um adeus
Num coração que não esquece
 愛が教えてくれた
 この幸福は
 寂しさだけにはならないだろう
 断絶だけにはならないだろう
 夜は長いだろう
 朝の一歩で
 傷を作りましょう
 私たちのお守り
 胸の中で起こる
 沢山のことを私たちはしてきた
 忘れない心に
 さよならはない

...

(「Apenas um adeus」作詞作曲:Edil Pacheco / Paulinho Diniz / Roque Ferreira)


5月31日「Maracatu Atômico」

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 2012年の5月31日に、ギタリストで作曲家のネルソン・ジャコビーナが、58歳で亡くなりました。死因は肺癌による急性呼吸不全でした。

 1970年以来、ブラジル音楽界が誇る知性、ジョルジ・マウチネル(Jorge Mautner)の共作のパートナーで、広く知られる名曲「Maracatu Atômico(原子のマラカトゥ)」も、ジョルジ・マウチネルとネルソン・ジャコビーナの共作曲でした。

 ネルソン・ジャコビーナは、2002年に、リオの若手音楽家たちが集まって結成されたビッグバンドの、オルケストラ・インペリアルのメンバーで、ネルソン・ジャコビーナの死後の2014年に発表されたアルバム『Fazendo as Pazes Com o Swing』では、ネルソンを追悼し、ジャケットにはネルソンの写真が使われました。

 今日は、ジョルジ・マウチネルとネルソン・ジャコビーナによる名曲「Maracatu Atômico」の話を書きたいと思います。

──

 オーストリアのユダヤ人と、ナチスから逃れたユーゴスラビアのカトリック系難民の両親の間に生まれた詩人、小説家、哲学者のジョルジ・マウチネル(Jorge Mautner)は、1941年にリオデジャネイロで生まれ、7才までリオで過ごし、それからサンパウロに引っ越しました。

 サンパウロに引っ越すまでは、母親とその2番目の夫(バイオリニスト)と一緒に、ジョルジ少年は、カンドンベの巫女であった乳母に連れられて、カンドンブレの世界に生きていました。

 マルクスやニーチェを研究したジョルジ・マウチネルは、21才のときに発表したデビュー小説「Deus da chuva e da morte」で、ブラジル最高の文学賞であるジャブチ賞を受賞し、一躍有名になりました。

 共産主義者であったジョルジ・マウチネルは、1964年の軍事クーデター後に逮捕され、亡命を選びました。まずニューヨークに亡命し、そこでポップカルチャーの隆盛を経験し、その後、ロンドンへ亡命し、そこでジルベルト・ジルやカエターノ・ヴェローゾと親交を深めました。

 ブラジルに戻り、1966年に「Radioatividade」「Não, não, não」という曲が収録されたコンパクト盤をリリースしていましたが、その後に知り合うリオ出身の若いギタリスト、ネルソン・ジャコビーナ(Nelson Jacobina)と理想的な共作関係を築きました。

 1974年、ジルベルト・ジル(Gilberto Gil)が、ジョルジ・マウチネルとネルソン・ジャコビーナの楽曲を支持し「Maracatu Atômico(原子のマラカトゥ)」を録音、ラジオ・ヒットとなりました。

 「Maracatu Atômico(原子のマラカトゥ)」で、ネルソン・ジャコビーナの音楽はペルナンブーコのマラカトゥのリズムを様式化して現代化したのに対し、ジョルジ・マウチネルの歌詞は、原子と原始的なものを融合し、ポップなユーモアとドイツの表現主義を融合しています。

 一見すると複雑な楽曲ですが、人気曲となりました。

"Atrás do arranha-céu tem o céu, tem o céu / E depois tem outro céu sem estrelas / Em cima do guarda-chuva, tem a chuva, tem a chuva / Que tem gotas tão lindas que até dá vontade de comê-las."

"摩天楼の向こうには空がある、空がある/そしてその後、星のない空がある/傘の上には雨がある、雨がある/それは食べたくなるほど美しい雫の雨だ」

(「Maracatu Atômico(原子のマラカトゥ)」作詞作曲:Jorge Mautner  / Nelson Jacobina)

 その22年後、1990年代のブラジル音楽界に大きな旋風を巻き起こしたペルナンブーコのシコ・サイエンス&ナサォン・ズンビは、「Maracatu Atômico(原子のマラカトゥ)」を超重厚なリズムをベースに、ギターの歪んだカッティングと電子ビートが乗る、未来的で重厚なマラカトゥとして、再録音し、センセーショナルに受け入れられました。

 アフリカのルーツと宇宙的なサウンドを、プリミティヴな地域性を融合させたシコ・サイエンス&ナサォン・ズンビの「Maracatu Atômico(原子のマラカトゥ)」は、マンギビートを作り出し、ブラジル音楽シーンの古典となりました。

(ラティーナ2021年5月)


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