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[1985.05]ナラ・レオン インタビュー─ ボサノヴァから現在をつなぐナラの風景 ─

文●青木誠 写真●浅田英了

この記事は月刊ラティーナ1985年5月号に掲載された記事です。青木誠さんのご協力でe-magazine LATINA にも掲載致します。
ナラ・レオン(Nara Leão|1942年1月19日 - 1989年6月7日)

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 リオ市の中心から車で10分ほど走ると、トンネルがある。このトンネルを抜けると、眼の前がコパカバーナ海岸になる。ここから右の海岸線は浜ぎわに高層ビルの建ち並ぶおなじみの風景で、つき当たりの岬の向こうはイパネマ海岸、レブロン海岸と、さらに高級住宅ビルがのびている。

 ナラ·レオンのマンションはコパ海岸のそっちにいかないほう、左に曲がった浜の隅に建っていた。ちょっとハズレといった位置である。あとで地元民に聞くと、コパ海岸の中心からイパネマ海岸にかけては観光客が多くて騒がしいったらない。ハズレと見えるこのあたりこそ、地元民の鋭い選択だ、と教えられた。いわれてみるとこのあたりは閑静で、すぐ隣りに地元民しかいかないステーキ·ハウスがあり、味はコパ随一だが観光ガイドなどには名前をださないそうだ(だからぼくも店名は書かないことにする。ウマイゾ)。
 部屋に入ると、海がわは一面のガラス窓である。コパ海岸からイパネマ海岸につづく岬までが一望できる。浅田カメラ、青木ペン、そっと溜息をついた。こういう部屋に住めたら、眼は澄み、写真は輝き、文章は軽くなるにちがいない。これは絶対だ。オレ達の我家は昔、ハト小屋と誰か外人にいわれたけれど、ハトどころか豚小屋だ。オレンチなんか鶏ハウスさ。溜息つきつき、インタビューに入る。(以下のインタビューは英語でかわしました)

青木 ディスコグラフィーを見ますと、70年代のレコードは少ないですね。
ナラ 歌うのをやめましたから。フフフ。
青木 昔の話も関きたいのですが、最初はボサノヴァを歌ってらした──
ナラ エエ。63年に初レコードを録音したのですが、その頃はプロテスト·ソングを歌ってました。ちょうどブラジルがむつかしい局面にたっていたときです。……そのまえはボサノヴァです。あとがプロテスト·ソング。そして、70年代に歌をやめ、精神科医の勉強をはじめました。できたら診療所をひらいて狂った人と話したいと思ったりしましてね。でもいま、もう一度歌にもどっちゃった。フフフ。
青木 おもしろい。精神科医とはね。……お生まれはエスピリト・サント州と聞きました
ナラ そうです。バイーアとリオ・デ・ジャネイロの中間にあります。
青木 資料によると、幻年頃から学生仲間とボサノヴァを歌い、3年にヴィニシウス· ヂ・モライスの小さなミュージカルに出演した。それが評判となってレコードを録音し、64年に2枚のLPをだした。そして、7月にセルジオ·メンデスのバンド歌手として日本にきていますね。
ナラ ハイ。彼はその頃はまだ新しい音楽はやってなかったわね。はじめたのはそのあとです。
青木 聞きましたよ。ブラジル65。ブラジル66。
ナラ そうです。それから彼はアメリカにいき、そのときも誘われましたが、残ることにしました。プロテスト·ソングを歌いたくてね。当時は政治に関心があったものですから。
青木 そして歌をやめ、精神科医の勉強をはじめたのが──
ナラ 72年──ですね。だけどそのまえに子供が生まれたんです。これは女として大変なことですよ。子供は泣くし──わかる? 子供はそういうものだし、面倒みながら歌うなんて、大変。いまは大きくなりましたから。幸運にも。フフフ。
青木 幸運にも!?  ハハハ。
ナラ 娘も歌うし、私より背が高いし。幸運にも。フフフ。

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