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【追悼】 フアン・ホセ・モサリーニ(1943-2022)|[2014年9月掲載記事]
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【追悼】 フアン・ホセ・モサリーニ(1943-2022)|[2014年9月掲載記事]

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 バンドネオンの巨匠、フアン・ホセ・モサリーニ(Juan José Mosalini)が他界した。息子のバンドネオン奏者のフアンホ・モサリーニ(Juanjo Mosalini)が自身のFacebookアカウントで、父の死を伝えた。国立タンゴアカデミーのSNSでの発信によると、フアン・ホセ・モサリーニは2022年5月27日午後にフランスで亡くなった。死因について報道している記述はみつけられなかった。

 氏の活動を紹介するために、斎藤充正氏と小松亮太氏のご厚意で、月刊ラティーナ2014年9月号掲載の記事を再掲したい。

プグリエーセ楽団で活躍した巨匠が日本人の精鋭たちと五重奏団で共演

フアン・ホセ・モサリーニ、来日決定!

文●斎藤充正

 フアン・ホセ・モサリーニがフェスティバル出演のために名手アントニオ・アグリらとの五重奏団で初来日し、観客の度肝を抜いたのは1994年のこと。98年のアグリの死を挟んで(後任は息子パブロ・アグリ)2004年までに計7回来日したが、卓越した技術と感性の持ち主であるモサリーニがアストル・ピアソラの音楽を全身全霊で表現するその姿は、年ごとの程度の差こそあれ、強い印象を残してきた。だがそれは、このバンドネオン奏者のほんの一面にしか過ぎない。
 43年生まれ。アマチュアのバンドネオン奏者だった父から楽器と音楽理論を学び、61年、17歳でテレビのコンクールで優勝しプロの道へ。当時の貴重なバンドネオン・ソロ録音は11年になって2枚組『Buenas noches, che Bandoneón』に収められ、日の目を見た。
 ホセ・バッソ楽団などを経て69年にオスバルド・プグリエーセ楽団に参加したことが彼の運命を変えた。ここで出会った同世代のバンドネオン奏者のロドルフォ・メデーロスやダニエル・ビネリと、キンテート・グアルディア・ヌエバやヘネラシオン・セロといったバンドを組み、ロックや電化ジャズのサウンドでバンドネオンをどう活かすかという実験にも取り組んでいったのだ。74年12月にはイタリアから一時帰国したピアソラの凱旋公演に3人揃ってゲストで呼ばれている。
 77年4月、軍政を逃れパリに亡命。同郷のグスタボ・ベイテルマン(p)やエンソ・ヒエコ(fl)らとのティエンポ・アルヘンティーノでの活動、79年のバンドネオン・ソロの傑作『Don Bandoneón』発表などを経て、82年に結成したトリオ、モサリーニ=ベイテルマン=カラティーニでの充実した活動は10年間続き、優れた3枚のアルバムを残す。知性と肉体のバランスが絶妙だったこのトリオは、ピアソラ以降のモダン・タンゴの一つの理想を提示した点で、タンゴ史上特筆される。

 92年に結成された冒頭の五重奏団の過去の来日公演ではいずれもピアソラ作品がレパートリーの中核を占めていたが、96年に録音された唯一のアルバムではピアソラ曲は「AA印の悲しみ」のみで、あとはモサリーニやレオナルド・サンチェス(g)、ベイテルマンなど身内の作品で占められていた(彼らの録音にはそのほかに、日本のTVドラマ用に書かれた『水辺の男』組曲や、プロモーション盤のみに収録された「五重奏のためのコンチェルト」「アディオス・ノニーノ」がある)。
 そんなモサリーニだが、実は伝統を重んじる側面もある。彼にとって、仏亜混成の若い世代のメンバーを集めて92年に結成したタンゴ・オーケストラ(フランスでの名称はGrand orchestre de Tangoで、編成はオルケスタ・ティピカそのもの)の方がもしかすると五重奏団以上に重要かも知れない。94年と00年録音のアルバムのほかに、未聴だが06年頃録音のライヴ2枚組もあり、現在も活動は継続している。アニバル・トロイロやプグリエーセらが極めた緻密で大胆なタンゴ・アンサンブルの継承を目指し、若手を育ててタンゴの裾野を広げようとするアプローチは、ブエノスアイレスでタンゴ学校オーケストラなどが果たしている役割ともリンクする。
 そのほかにも、ヒエコとのデュオやお互いのソロでバロックからヒナステーラ、トロイロからピアソラまで幅広いレパートリーを演奏した94年のドイツでのライヴが近年CD化されたり、05年にはベイテルマンの作品をベナイム弦楽四重奏団と演奏したアルバム『Clásico y moderno』を発表したり、クラシックのオーケストラと自作やピアソラ作品を演奏するなど、多彩な活動は続いている。
 そして10年ぶりとなる今回の来日公演は主に五重奏団編成で行われるが、共演者がすべて弟子を含む日本人の精鋭たちというのは初の試み。これを見逃す手はないだろう。

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●日本のタンゴファンにとって、久しく来日しなかったモサリーニ氏は沈黙しているように見えたかも知れない。しかし彼は「タンゴの異郷の地に住むタンゴの巨匠」という特異性をフルに生かし、本場ブエノスアイレスでは実現しえない様々な活動で自らを、そして周囲の若者たちをクリエイトし続けている。以下、来日公演を控えたモサリーニ氏と、同じくバンドネオン奏者のファンホ・モサリーニ氏(ご子息)に行ったインタビューである。

〝タンゴの異郷の地に住むタンゴの巨匠〟

フアン・ホセ・モサリーニ / フアンホ・モサリーニ

インタビュー・文●小松亮太

——2004年の最後の来日から10年。その間どのような活動がありましたか?

フアン・ホセ・モサリーニ ロベルト・アウセルやレオナルド・サンチェスといったギタリストとのデュオ。ピアソラと同編成の五重奏団やオルケスタ・ティピカ。最近は古典とモダンのレパートリーに歌とダンスを加えた編成にも取り組んでおり、ついには交響楽団と共演もしました。
 アルゼンチン生まれでパリに住んでいるイラストレーターでありデザイナーのナポの「Napo Tango」という画集の付録CDの音楽監修もしました。カラフルにおどけた筆致で、タンゴの登場人物や時代背景、景色を描き上げた作品で、様々なタンゴ演奏を収めたCDが付いています。それらの選曲は私によるもので、私自身の演奏も含まれています。

——誰しも親に反発する時期はあるものです。父子で同じ楽器で、ということに何か葛藤は経験されましたか?

フアンホ・モサリーニ 父と私が同じ楽器を演奏しているからといって、何も葛藤はありませんでした。ごく当たり前の、「父と息子」の関係であったと思います。
 彼の息子であることは、私にとってとても大きなチャンスでしたし、またそのことによって沢山のことを分け合い、父の演奏について広範囲に理解することが出来ました。

——フランス人達のタンゴに対する反応や認識、あるいはヨーロッパのバンドネオン奏者についてはどうですか?

フアンホ・モサリーニ この10年間で、フランスにおけるタンゴのイメージは変わりました。ピアソラ以前のタンゴはミュゼット音楽と混同され、印象は良くありませんでした。それは年寄りが聴く音楽とみなされていたのです。80年代、ピアソラの音楽の影響で、タンゴが広く聴かれるようになりました。70年代の終わり頃には、沢山のタンゴ・ミュージシャンがアルゼンチンからパリにやってきました。フランスという舞台は、タンゴにとって重要な場所なのではないかと思います。
 しかし90年代以降多くの人が、「タンゴ=ダンス」と認識するようになりました。タンゴに対するイメージが、民族音楽的なものに少し後退したように思います。こんにちでは、コンセルバトワールの学生や多くの音楽家達がタンゴに興味を示しています。特徴的なリズムや、音楽としての質の高さに魅力を感じるようです。

フアン・ホセ・モサリーニ とりわけヨーロッパには新しい世代のバンドネオン奏者が多く輩出されました。彼らはタンゴの「美学」にとらわれていません。しかし、時に早まって物事を成そうとするため、結果的に問題を引き起こしてしまうといったことがあるように思います。(小松註:バンドネオン奏者はアルゼンチンやウルグアイ以外の地域では希少で、さほどの修練を積まないうちに「仕事」のチャンスが巡ってきてしまう。結果、厳しい教育プロセスが確立された世界で揉まれてきた他の楽器奏者よりも脆弱になってしまうことが少なくない)

—— 70年代にロドルフォ・メデーロスが主宰する「ヘネラシオン・セロ(ゼロ世代)」に父上は参加なさっていましたが、日本のラジオの音楽番組で当時のアルバムから1曲だけ「Al diablo con el diablo」をオンエアしたところ、「面白い」となかなかの反響がありました。

フアンホ・モサリーニ 父がドラムと演奏していたのを聴いて、多くの音楽ディレクターが父に電話を掛けなくなったことが記憶に残っています。私に言えることは、新しい価値観を生み出すことは容易ではないということです。

—— 近年、「ゴタン・プロジェクト」や「バホフォンド」のような、いわゆる音響派といわれるスタイルの音楽が生まれています。あなたはそのような音楽が今度どのように発展していくと思われますか?

フアンホ・モサリーニ 私の個人的な意見としては、正直、音楽的にはこれ以上大きな発展をするとは考え難いです。しかし私は「ゴタン・プロジェクト」に対して感謝しています。それは時に素晴らしい瞬間でした。まさかバンドネオンを持って、ステージ上でポップスターの感覚を味わえるなんて、思ってもみませんでしたから!

フアン・ホセ・モサリーニ 何ヶ月も経ってから、その曲が大ヒットしたことを偶然知りましたが、私が弾いた「ランバダ」のヒットによって、沢山の若者がバンドネオンに対して興味を持つようになりました。レコーディングの時に私が感じたのは、そのメロディーが官能的な性質を有した、踊るようなポピュラリティーのあるものだなということでした。

—— プグリエーセやピアソラとの印象的なエピソードがありましたら教えて下さい。

フアン・ホセ・モサリーニ 私とピアソラとの関係は、私がテレビのコンクールで優勝した時に、彼がキンテートのコンサートに招待してくれたことをきっかけに始まり、その友好関係は、30年以上も続きました。『ブエノスアイレスのマリア』のソリストとして私を招致してくれたことは、私にとってとても名誉なことでした

フアンホ・モサリーニ 私が生まれた時、父はプグリエーセ氏と同じステージに立っていました。コンサートの後で、プグリエーセ氏は私を訪ねてくれました。私にとって初めての日に、彼と一緒に写っている素敵な写真があります。プグリエーセ氏やピアソラ氏が80年代にパリを訪れた折に、幾度となくお会いしました。彼らのことは、とても印象に残っています。そのころ私はまだバンドネオンを弾いていませんでしたが、88年に最後にピアソラ氏と握手したことを昨日のことのように覚えています。

—— 日本のファンに一言。

フアン・ホセ・モサリーニ 私はたびたびの来日で日本でタンゴがいかに広く受け入れられて来たかを目の当たりにしています。日本のタンゴ・ミュージシャンとの共演も楽しみにしています。

(月刊ラティーナ2019年4月号掲載)


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