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[2022.5]【著者 & 編集者インタビュー】 宮沢和史『沖縄のことを聞かせてください』

インタビュー・文:中原 仁 

宮沢和史 著『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)

 宮沢和史が沖縄を訪れ、太平洋戦争を体験した人から聞いた話に衝撃を受けたことをきっかけに「島唄」を作詞作曲、THE BOOMで発表したのが1992年。空前の大ヒットとなり、国内外で数多くカヴァーされ、今も愛されて続けている。
 以来、30年。奇しくも沖縄の日本復帰50周年にあたる2022年。宮沢和史が自身の文章と、沖縄に生きる10人の人々との対談・鼎談を通じて沖縄と向かい合った書籍『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)が刊行された。全て書き下ろし、語りおろしで、500ページ近い長編にして本体価格2,200円と良心的だ。
 著者・宮沢和史と、編集と注釈を担当した安東嵩史氏に話を聞いた。

安東嵩史(編集者|左)と宮沢和史(右)

⎯⎯ 宮沢さんの文章と対談、鼎談が実にバランスよく配されていて、その全てから深い想いが伝わってきました。まず編集の安東さんに、この本の背景など聞いていきたいと思います。14年前、安東さんが編集した宮沢さんの本『BRASIL-SICK』(双葉社 2008年)を持ってきました。この本の中で沖縄からブラジルへの移民についても触れられていました。この本がお二人の出会いですね?

安東嵩史 僕はもともと宮沢さんの音楽をずっと聴いていて、音と言葉の奥にある、文化や他者を見つめる姿勢や態度のようなものに影響を受けてきましたから、編集者になって以降、いつか宮沢さんと一緒に仕事がしたいと思っていました。日伯移民100年のタイミングでそれが叶ったわけですが、そういう宮沢さんの態度の部分を形にするのだという思いは、この本の時から変わっていないですね。それ以降、長いお付き合いをさせていただいています。

⎯⎯ そしてこの「沖縄のことを聞かせてください」。アイディアは、いつごろ、どちらから持ち上がったんですか?

安東 2021年の6月頃に僕の方からご連絡しました。2022年がこういう年であるということはもちろんですが、それ以前から、宮沢さんが「島唄」から沖縄と関わってきた歴史やその奥にある思いが、ゆかりの深い沖縄の方々や、ファンの人たちの他には意外と伝わっていないのではないかという気持ちがずっとあったんです。そのことをより多くの人に知ってもらえるよう、ちゃんと形にしたいというのがひとつ。もうひとつは、宮沢さんの存在をフィルターにしつつ、さらにもっと沖縄の深いことを伝えていく必要があると思ったこと。この50年、もっと言えば琉球処分が始まってから150年という時間の流れの中で、きちんと伝わってこなかったいろいろなことがある。それを少しでも、宮沢さんの声をお借りしながら沖縄の人にもヤマトの人にも届けるということをやりたいなと思い、宮沢さんに提案しました。

⎯⎯ この本の軸となる曲「島唄」から30年が経ちましたが、宮沢さんが「島唄」の成り立ちや歴史などを形にしたいと思ったのは、この話を受けてからでしょうか、それとも以前から考えていましたか?

宮沢和史 「島唄」は、30年経ってるけれど、懐かしい歌じゃないんです。世界中のいろんなところで歌ってきましたから、常に僕のいちばん新しい歌って感じで、意外と自分で総括してないなと思ったんですよ。振り返ってない。で、この節目に自分自身、立ち止まって、どんな歌だったかを自分でも知りたいというか、そんな思いがあって、やってみたいと思ったんですよね。

 ただ、僕が語る沖縄というだけでも一冊の本が作れると思うんですが、いくら30年、関わってきたといっても僕が知らない沖縄のほうが多いわけですから、役割として、僕は沖縄への扉の門番みたいな感じで説明して、そして本の中で扉を開けて、いろんな人に出会う。そういう奥行きのある立体的な本にしようと思って、僕が会ってインタビューしたい人の名前をあげて、安東さんからは僕が知らない人を提案してもらって、20代から90代まで、いろんな世代のいろんな境遇の人に話を聞いたら、僕の知らない沖縄が見えてくるんじゃないか。実際、知らないことをいっぱい教わりました。

⎯⎯ 「島唄」について僕が今でも覚えているのは、96年にTHE BOOMが初ブラジル公演を行なった時、僕はバイーアとリオのライヴを聴いて帰国しましたが、その後にサンパウロ公演があって、帰国した直後の宮沢さんから、サンパウロでは大勢の日系人が聴きにきて「島唄」を歌って、この曲が海を越えたと思った、という話を聞きました。そうした実感を持ったのは、その時のサンパウロが初めてでしたか?

宮沢 肌で感じたのはその時だったかもしれないですね。正直言いますと、僕がブラジルに乗り込んでいった時って、ブラジルに渡ってきた主にヨーロッパ系とアフリカ系の人に、どれだけ日本の音楽が通じるか、トライしたんですね。

 で、行ってきたら、サンパウロはお客さんがほぼ日系人で、ちょっと面食らったっていうか、そういう感じで乗り込んだわけじゃないので、ちょっと複雑な気持ちだったんです。だけど、物凄い熱気なんですよ。1曲目から「島唄」を歌えと。あれが僕にとって初めての、日系人との濃密な対面でした。

 もちろんその前から移民のことは知っていましたし、興味はあったんですが、実際に目の当たりにして交流して、そこから徐々に僕のブラジルでの挑戦が、どうしたら日系人の人たちに喜んでもらえるかということに、自分でも知らないうちに移行していきましたね。

 で、最終的にここ何年か、サンパウロでの移民110周年の式典や、サンパウロの「沖縄まつり」でゲストで歌ったり、というのが今、僕にとっていちばん濃密なブラジルとの交流です。コンサートやレコーディングをしてきましたけれど、やっぱり日系人の人たちの手助け、助言がすごく大事だったんですよね。僕が関わる日系人の人たちって、うちなーの人が多かったんです。沖縄県人会の人たちと交流する機会が他の県より多くて、世界中にいる沖縄の人たちが視野に入ってきて、そういう人たちと交流したいというのが音楽家としての一つの夢になっていきました。

 それよりも前になりますが、9.11のテロの後(2001年)、ブラジルに行く仕事がありまして、サンパウロの「デイゴ」という、うちなーの方がやっている居酒屋で一世、二世の方達と交流して、飲んだり歌ったりしていたら、「今度はあんたの歌を歌おう」と言って、工工四(クンクンシー。三線用の楽譜)を持ち出してきました。工工四は、新巻が数年おきに出て、そのたび新たな沖縄の歌が増えていくんです。

 で、11巻を目の前の人が開いたら、1曲目が「島唄」で。僕は「あ、沖縄の歌にしてくれたのか」と、物凄く嬉しくて。僕の大好きな沖縄民謡は、何百年も前に作られた曲が今でも愛され、歌われているんですね。そういうものに自分の歌がなったら、作曲家としてこれ以上の幸せはないですよ。そのスタート地点に立ったというか、そんな気がして。

⎯⎯ 本の中で、宮沢さんが制作された『沖縄 宮古 八重山 民謡大全集1 唄方 ── うたかた』に関する文を読んで、想いの深さと苦労の大きさに思い入りました。ところで、沖縄から海外に渡った移民の人たちが作った民謡がありますね。5年前、宜野座がらまんホールでのイヴェント「ブラジル×沖縄フェスタ」で座談会の司会者をつとめた時に、安慶名信夫さんというカンポ・グランヂの方が録音した、沖縄からブラジルなど南米の国々に渡った人たちが作った曲のCDを聴いて感銘を受けました。宮沢さんはそういった音楽もリサーチしてますか?

宮沢 海外に渡ったウチナーンチュの歌を集めて、という考えは持っています。中江裕司監督に会うといつも、南米のウチナーンチュを映画にしてくれって言ってます(笑)。以前「ニッポニア」というコンセプトのコンサートを立ち上げまして、コロナが終わったらアルベルト城間など、みんなの力を借りて、またやりたいと考えてます。

⎯⎯ 沖縄と南米のつながりはとても深いですが、もうひとつがアジアの中の沖縄。本の中で中江裕司監督と一緒に鼎談している音楽プロデューサーの野田隆司さん、僕も長年、沖縄の仕事でお世話になってきた方が立ち上げたプロジェクト「Trans Asia Music Meeting」など、アジアの国々との交流の動きがとても興味深いですね。

宮沢 野田さんは何年も前からそのことにこだわって、やってらっしゃって、道を作ってきた人ですね。とくに台湾。僕もCDを作るお手伝いをしました。HIRARAという宮古島出身の唄者が台湾で音楽賞を獲ったり、そういう時代です。

 東京を経由しない。ある意味、東京って世界から遠いじゃないですか、地理的に。那覇から台北に行くのは、すぐですからね。そういうところから新しい道、エネルギーが生まれてくるのは絶対に間違いないし、野田さんがインフラを作って、あとは音楽家同士ですよね。僕の身の回りでも大城クラウディアが去年、台湾の音楽祭にリモートで出演したり、そういうことが水面下でいっぱい起きてます。

── 宮沢さんの活動の中で、沖縄に関わることの比率がどんどん高まってますね。特に今年は、いただいたインフォメーションを見ると、まだ情報解禁前のものも含めて、沖縄関連のイヴェントなどが目白押しです。

宮沢 復帰50周年でいろんな催しがスタートする前に本が完成したのは非常にありがたいです。注釈がすごいでしょ?

⎯⎯ ですね。資料と出会うまでの時間と、それを読み解かす時間を想像するに、安東さんでなかったら、どれだけ時間がかかっただろうというぐらい。

安東 宮沢さんから「注釈をたくさん入れたい」という意向を聞いて、確かに唄者の名前から歴史的な事象から、特に内地の読者にはなかなかわからないものも多いであろうということで注をつけることにしたんです。最初はもう少し簡単なものになることをイメージしていたんですが、宮沢さんの原稿や対談相手の話をもとに書き始めると、「この言葉は説明が必要である」とか、「話には直接出てこないけれど、この用語には沖縄の歴史において重要な出来事が関係しているので、それも入れておかなければ」といったことが次から次に出てきて、どんどん増えてしまいました。また、論文などを調べていくと、これまでの通説が最新の研究で更新されているトピックがあったり、中世の琉球などに関してはそもそも説が定まっていないようなこともあって。

宮沢 諸説ありますからね。

安東 書かないほうが安全パイであるようなデリケートなトピックだけど、それを省いてしまうと何も立体的な理解が進まない……というものもありました。そういうものも含め、中世から近現代史のさまざまな領域にわたるトピックを専門家でもシマンチュでもない自分が自己判断だけで書いてしまうのはもちろん間違いのリスクもあるし、何より沖縄に対して敬意を欠いたものになってしまうと思ったので、原稿をまとめたところで、専門家の監修が必須だと考えました。しかも、それは宮沢さんの思い同様、未来志向のものでなければならない。ということで、『つながる沖縄近現代史』(ボーダーインク 2021年)という、タイトル通り沖縄の近現代史を最新研究の視座から現在につながるものとして考える意欲的な本が沖縄で話題になっているんですが、この本の編著者のチームに注釈を監修してもらいました。

宮沢 この本を読んで沖縄で起きたこと、沖縄が今かかえていることを知ることで、全く沖縄に関心がない人でも何か考えてくれる、例えば直接、沖縄でなくても自分の故郷のことを考える。そういう思考がどんどん枝分かれして伸びていくことを期待したいです。

 僕自身、沖縄との出会いが『観光コースでない沖縄』で、それを知ったことによって人生がガラリと変わりました。そういう出会い方をしてなかったら、全然違うものになってたと思いますね。

⎯⎯ 僕がとても感銘を受けたのが、老夫婦が名護湾の高台で木の枝を燃やして煙をあげ、船で大阪に向かう娘に別れを告げる、という話をもとに知名定繁さんが作られた曲「別れの煙」に関する宮沢さんの文でした。読んでいて風景が目に浮かんできて、その背景も想像できる。とても刺激的でした。

宮沢 書物を出しておいて言うのもなんんですが、歌は書物以上に教えてくれるんですよ。那覇港から出港し黒い煙を上げながら大和へと出稼ぎに出る娘、惜別の思いを伝え娘の無事を祈るために名護の高台に登り白い煙を焚いてのろしを上げる親。そして船はいつしか本部半島へと消えていく…これを歌で聴かされると、擬似体験以上のものがありますよね。琉歌は八八八六の三十音でできていますが、星の数ほどある沖縄の様々な物語がたくさんの琉歌に詠まれています。それが沖縄芸能の柱にあるという豊かさ、文学性。ラティーナでもそういう連載をしてますが、沖縄の音楽、踊りを紐解くことは、沖縄を知る近道だと思いますね。

(ラティーナ2022年5月)


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