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[2018.04]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界 第3回 グリセール

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

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 作詞はホセ・マリア・コントゥルシ。前回紹介した歌のタンゴの第1号曲「ミ・ノーチェ・トリステ」の作詞者パスクアル・コントゥルシの息子である。パスクアルは23歳の時、17歳の妻イルダと結婚し、ホセ・マリアが誕生するのだが、ほどなくパスクアルはある女性を追っかけてモンテビデオに行くが、あっさり捨てられそこで「ミ・ノーチェ・トリステ」を作ることになる。その後ブエノスアイレスに帰って来るが、事実上の離婚状態で、1927年にパスクアルはパリに移住してしまう(その後バルセローナにも滞在)。1928年には在パリのバンドネオン奏者バチーチャの曲を得て、「場末のバンドネオン」を発表。しかしまもなくパスクアルは精神を病み、ガルデルをはじめとする友人たちはパスクアルに嘘をついてブエノスアイレス行きの船に乗せ、到着後病院に入院させたが、1932年5月29日に世を去った。享年43歳。

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 こうした経緯を考えるとホセ・マリア・コントゥルシと父の関係は希薄なものだっただろう。しかし父の友人たちが集っていたボヘミアンな環境に身を置き、その文才は受け継がれるのである。ホセ・マリアは父とは異なり、ルンファルド(俗語)の使用は極力避け、ブエノスアイレスに新たに出現した中間層の価値観を代表する作品を書いた。

 父の死の翌年から作詞活動を開始するが、実際はラジオのアナウンサーとして活躍していた。1935年のある日、ラディオ・ステントールでホセ・マリアは、15歳のスサーナ・〝グリセール〟・ビガノーと出会う。「グリセール」は彼女の母が昔見たフランスの無声映画(一説によれば小説)の主人公の名前 Griceleからとった愛称だった。スサーナはコルドバ州のカピージャ・デル・モンテで暮らしていたが、ゴリとネリーのオマール姉妹の誘いで、ブエノスアイレスへ公開収録を見に来たのだった。オマール姉妹は美人民謡系デュオとして人気をとり始めた頃。ご存知の通りネリー・オマールはその後長く活動し、2013年に102歳で亡くなった名歌手、ゴリ・オマールはその後すぐ引退したが、詩人のフリアン・センテージャの夫人だった。オマール姉妹はホセ・マリア・コントゥルシにスサーナ(グリセール)を紹介、あまりの美しさにホセ・マリアはひとめぼれしてしまう。しかしホセ・マリアはこの少し前にアリーナ・サラテと結婚、娘エステルも生まれていた……

 時は流れ、1938年、ホセ・マリアは腸炎をわずらう。抗生物質がなかった当時、医師の勧めは「コルドバの山での静養」であった。それを聞いたネリー・オマールは「カトゥンガ(ホセ・マリアのあだ名)、グリセールのこと覚えてる? 彼女が住んでいるのはまさにコルドバのカピージャ・デル・モンテよ」……気持ちを抑えきれなくなったホセ・マリアは家族を置いて、静養の名目でコルドバに行き、道ならぬ恋に落ちてしまう。実はグリセールも、コルドバに戻った後もずっとため息ばかりついていて、母に心配されていたのだった。

 腸炎を直したホセ・マリアはいったんブエノスアイレスに戻るが、再びコルドバに向かう。しかし考えに考え抜いた末、ホセ・マリアは妻アリーナの元に戻った。

 しかしこの頃からホセ・マリアの詞は優れた曲を得て「もう一度会いたい」「わが人生のすべて」「灰色の午後」など大ヒットしていく。

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