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[2019.03]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界 第14回 最終列車まで

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

今年(2019年)はアストル・ピアソラ作曲=オラシオ・フェレール作詞の名コンビによる大ヒット曲「ロコへのバラード」(Balada para un loco)が発表されて50年という記念の年にあたる。この「ロコへのバラード」大ヒットの発端となったのは、あるコンクールで2位に入賞したことだった。実はそのコンクールで1位になった別のタンゴがある。

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 作詞者はフリオ・カミローニ。1911年イタリア中部のアンコーナ生まれだが、生後3か月でブエノスアイレスに移住、9歳の頃から詩を書き始めたが、タンゴの作詞の最初は1945年(ただし出版も演奏もされなかった)。その後アルフレド・ゴビ楽団のバイオリニスト、アントニオ・ブランコと知り合いになり、1950年「君は私の心の中に」(Estás en mi corazón)、1956年「プレデスティナーダ」(Predestinada)、1957年「最後の女」(La última)を共作、さらにアルフレド・ゴビとも「君の苦悩と私の痛み」(Tu angustia y mi dolor)、「わが手に捧ぐ」(A mis manos)、ワルツ「メンサヘーラ」(Mensajera)を共作。他にもアルトゥーロ・ガルーチと「私には一人の友人がいる」(Tengo un amigo)、「一つの希望がなくなった時」(Cuando muere una esperanza)、エミリオ・バルカルセと「バモス・トロピージャ」(Vamos tropilla)、「白いカンドンベ」(Candombe blanco)などを共作した。いずれも発表当時アルフレド・ゴビ楽団、カルロス・ディ・サルリ楽団、オスバルド・プグリエーセ楽団など最低1種類のレコードは発売された曲だ。一番のヒット曲はアニバル・トロイロ楽団も取りあげた「最後の女」と、独特な雰囲気を持ったミロンガ「わが手に捧ぐ」だと思うが、いずれも大ヒットというところまではいっていないが、一癖ある情感のこもった詞を書く人だ。ヒット曲を書いていた時代から10年ほど経った1969年に「最終列車まで」が受賞したことは本人も思いがけなかったのではないだろうか。

アルフレド・ゴビ楽団 「わが手に捧ぐ」

アルフレド・ゴビ楽団 「わが手に捧ぐ」(1957年)

 びっくりしたのは作曲者も同じだったかもしれない。「最終列車まで」の作曲者は「心にバッハを持ったバンドネオン奏者」とも言われたフリオ・アウマーダ。1916年ロサリオ生まれで、20歳でブエノスアイレスに上京、最初に住んだのがタンゴ史伝説のマンション「ペンシオン・ラ・アレグリーア」で、エンリケ・フランチーニ、アルマンド・ポンティエル、エクトル・スタンポーニらと親交を深め、さまざまな楽団で研鑽を積み、1950年代にはエンリケ・フランチーニ楽団、ロス・アストロス・デル・タンゴなどで活躍、1960年代には旧友ミゲル・ボナーノと共同主宰のアウマーダ=ボナーノ楽団、ロス・クアトロ・パラ・エル・タンゴ、コントラバスのアムレット・グレコとのデュオなどでも活躍するが、決して自分がリーダーとなることはなく、その後はタンゲリーア「エル・ビエホ・アルマセン」のカルロス・フィガリ楽団で活躍、1974年にタンゴオールスターズ、1976年にレオポルド・フェデリコ楽団で来日、1980年からはブエノスアイレス市立タンゴ楽団でも活躍するも、1984年3月4日に死去、死の前年に録音した自己名義最初のアルバムは、死後日本でのみ発売された。

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