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【連載 それでもセーヌは流れる 112】「68年5月」から50年 —パリの壁の記憶—

文●向風三郎

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ボザール校での「闘争のイメージ 1968-1974」展

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ポスターの数々
(「闘争のイメージ」展で売られていたポストカードより複写)

 パリ6区ボナパルト通りにあるエコール・デ・ボザールは17世紀からの歴史を持つ国立の美大であるが、50年前の1968年5月、この学校も闘争の真っ只中にあり、校舎を占拠した学生たち(+教師たち+画家たち)は「人民に奉仕するアート」をモットーに、施設をポスター、ビラ、壁新聞、横断幕などを制作・印刷する人民アトリエに変え、同年6月27日の警察による強制立ち退きまでパリの壁を闘争ポスターで彩るのである。インターネットもスマホも遠い未来だった頃、パリだけでなくフランス全土の大学・リセ・工場に拡がった異議申し立て運動を支援するコミュニケーション・ツールとして、このポスターは重要な役割を担う。スローガン、合言葉、檄の短いワードを簡潔で一目瞭然な図柄に乗せて、世界に知られた美大ボザールの学生と教師らが制作する。それを短時間で大量に印刷する技術は、その直前までニューヨークのアンディ・ウォーホルの工房ファクトリーでセリグラフィーを担当していたアーチスト、ギ・ド・ルージュモンが、ボザールアトリエが複雑なリトグラフィー版画術でちんたら印刷していたのを見ていられず、セリグラフィーなら手刷りでも三千枚できると伝授したのだった。ボザール人民アトリエが最初のセリグラフィーポスターを印刷したのが5月17日、ボザール校舎封鎖が機動隊によって強制的に解除される6月27日まで同アトリエが制作したポスターは800点を越した。その素晴らしい作品の数々は1点として作者が「署名」したものはない。これは68年闘争の最重要キーワードの一つ"collectivité(コレクティヴィテ=集団性)"の精神であり、個体ではなく集団であること、この行動はクレアシオン・コレクティヴ(集団的創造)であることを宣言しているのである。

 あの五月革命から50年、ボザールではこの68年ポスターを中心にした「闘争のイメージ1968〜1974」展をこの2月から5月まで開催している。私が観に行った平日の午後には、教師に引率された中高生の団体も来ていて、熱心にメモを取ったり、ポスターを模写したりしていた。およそ教育的な題材ではあるまいに、と私のような旧世代の人間は驚くが、当地の教科書では重要な歴史事件「五月危機」と教えられている。だがフランスでの一般的な呼び名は"Mai 68"(68年5月)である。本稿を書いている4月初頭現在、新聞雑誌の68年5月50周年特集、ラジオ特番、記念出版本などが目立つようになっている。大統領マクロンと政府は何も記念などしないそうだが、フランス市民は大なり小なりこの50周年を回顧するだろう。

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ボザール校内の「人民アトリエ」(1968年当時)

 これは単純にカルチエ・ラタンで一部の学生たちがバリケードを築いて騒いでいた事件というわけではない。また権力奪取が果たせなかったのだから革命と呼ぶべきではないと言われようが、これは20世紀後半のフランスで最大の意識革命であり文化革命だった。68年5月の前と後では人々の話す言葉が変わってしまったのだから。

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ローリング・ストーンズ 「ストリート・ファイティング・マン」
(1968年シングル)

 いたるところでデモ行進と機動隊との
 衝突の靴音が聞こえるぜ。
  (…) 
 ロックバンドで歌うこと以外に、
 この哀れな俺に何ができるってんだ?
 眠気をもよおすロンドンタウンには、
 街頭闘争者の入り込む余地なんて
 まるでないんだから。
(ローリング・ストーンズ「ストリートファイティング・マン」1968年)

 ミック・ジャガーはフランスの68年5月に直接インスピレーションを受けてこの街頭闘争者たちを祝福する歌を作った。ミック・ジャガーは真剣にパリの5月に嫉妬していた。それが世界のどこにもなかったものだと知っていたから。

1967年すでにフランスでは解雇反対、待遇改善要求などの労働争議がブザンソン、ヴェニシウ、ミュルーズ、ナントなど各地で発生し、ストライキと工場占拠が日常化していた。そんな中、ナンテールとリヨンの学生寮が学生たちに占拠されたが、それは何ら政治的なものではなく、男子寮建物/女子寮建物への異性訪問者の立ち入りを禁止した寮則に抗議してのものだった。

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ナンテール大「3月22日運動」のリーダー、
ダニエル・コーン=ベンディット(通称赤毛のダニー)

 当時フランスの景気は絶好調であり、イギリスが産業革命に2世紀を要したところをフランスは20年でそれを成し遂げたと言われるほど急激に産業化し、消費社会化した。工場は続々建てられ、労働力は農村部から吸い上げられ、やがて海外県や旧植民地からの大移動が起こる。それを支えるエリート頭脳を育てるべく大学の数も増える。同年代におけるバカロレア(大学入学資格)合格者の割合は1960年に13%、1968年には20%に達している(現在2018年は79%)。子供5人に1人が大学に行くようになったのだ。しかし大学施設はそれに追いつかず、巨大な階段教室にぎゅう詰めにされた講義、封建的で権威主義的な教育システムなどに当然学生たちの反発が始まる。ナンテール校はまさに象徴的な場所であり、パリの西郊外の旧湿地帯を大開発して建てられたモダンな大学建物の周りには、郊外大工場に募られて集まってきた貧しい地方出身者や移民労働者たちが作ったスラム街が広がっていた。大学への行き来に見る風景で学生たちは資本主義の歪みを直視していたのだ。

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1968年3月、ナンテール大学

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©JEAN-PIERRE REY
68年5月13日ジャン=ピエール・レイ撮影、米ライフ誌掲載の写真、
通称「68年のマリアンヌ」

 私たちが漠然と抱いている「フランス=農業国」のイメージは間違っていない。イギリスが2世紀かかったところを20年で成し遂げたと言われる戦後の工業化は、その急速ゆえに農村社会をそのまま工場の労働運動に反映させた。農村の子弟から工場労働者となった者たちは、それまでの伝統的共産党系労組に従わず、要求を通すために農民一揆的実力行使の方法を取った。彼らは職場を占拠し経営陣を監禁し警官隊に衝突していき、逮捕され、その2時間後には釈放された。歴史的にフランスの権力者たちには農民闘争ほど怖いものはなかったのだ。68年で集約昇華される地方での工場占拠のパワーの土台にはこの農村出身者たちの暴力的で苛烈なエネルギーがあった。

 68年1月、大学が選別して学生を入学させる制度を骨子とする新大学法案にリセ生たちが反発、全国の高校で反対行動委員会が結成される。1月23日、カーンでサヴィエム(トラック工場)労働者たちの待遇改善要求ストに機動隊による介入、抗議する労働者と支援学生たちに、同市にある3つの大企業の工場労働者たちが加担、町の中心で警官隊と衝突し市街戦状態に。30日、抗議スト参加者数は1万5千人に。2月2日、抗議者たちへの追跡処分を会社側が放棄しさらに賃上げに合意。

 ここで初めて労働者と学生たちは街頭闘争によって権力者および経営者が折れる、という前例を作ったのである。ここから全国の闘争はさらに勢いづく。

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