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[2020.09]【連載|ブラジル(と新宿)から世界を見る “ペドロスコープ”①】熱帯の真実の「明るさ」と「影」

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文●ペドロ・エルバー

ペドロ・エルバー(Pedro Erber)

プロフィールPH


哲学者、批評家。1975年リオデジャネイロ生まれ。現在は早稲田大学准教授。2019年まで米コーネル大学准教授。美術史ジャーナル「ARTMargins」編集者。アート、美学、政治思想、文学についての多くの執筆がある。主な著書に『Breaching the Frame: The Rise of Contemporary Art in Brazil and Japan』(14年 )。現在2歳の長男とゼカ・ヴェローゾの「Todo homen」を練習中。


 この8月、ブラジルの音楽家カエターノ・ヴェローゾは78歳になり、誕生日祝いとして自宅から音楽家の息子たち三人と生放送コンサートを行った。ブラジルでは新型コロナウイルスが流行してからというもの、さまざまなアーティストが自宅からライブを行い、インターネットに流すことが多くなっている。そんな中、カエターノのライブはおそらく誰よりも期待されていたもので、結果、ブラジル音楽史に残るインターネット上の音楽イベントになった(今も「caetano, live quarentena」などで検索すると動画の一部を観ることができる)。ライブの翌日からS N Sではみんなが自分のカエターノへの思い−− 若いときに行った彼のコンサートのこと、曲の意味に初めて気づいたときのこと−−などを語り続けた。 カエターノは再びブラジルの人々のお茶の間に入り込み、コロナ禍かつ極右ポピュリスト政府下のつらいこの時期の生活をほんの少し軽くしてくれた。


 一方、日本では9月下旬、満を持してカエターノの著書『熱帯の真実』の日本語版が出版された。自伝、文化史、そして教養小説が交えられたこの本は、軍事政府下のトロピカリズモ運動の歴史を中心に、1950年代から70年代にかけてのブラジル音楽や文化の流れを語っている。国安真奈さんのすばらしい翻訳に、ブラジル音楽や文化を日本で長く紹介し続けている中原仁さんと岸和田仁さんの解説がつけられている。

 ブラジルで97年に出版されたこの本は、しかし「ブラジル音楽や文化の流れを語る」という言い方ではおそらく十分ではないだろう。『熱帯の真実』は、トロピカリズモの観点から(そしてカエターノ自身の立場から)当時の世界文化を語ろうとする試みが含まれている点が画期的なのだ。その意味で、カエターノの出身地であるバイーア州の小さな街、サント・アマーロの映画館で、彼が初めてイタリア人のフェリーニ監督の映画を見て感動したという話は特に印象的だった。

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『熱帯の真実』(”Verdade Tropical”)がブラジルで出版された90年代の終わり頃は、今と比べると明るい時代に見えるが、ちょうどカルドーゾ政権の二期目で経済に翳りが見え始め、リオの治安も悪くなっている時期だった。当時、僕はリオデジャネイロの大学で哲学を学んでいたが、指導教官でブラジル・モデルニズム研究家のエドゥアルド・ジャルジン(Eduardo Jardim)があるときこう言ったのを今もよく覚えている。「でもブラジルは悪いことばかりでもないよ。カエターノの本もあるしね」。まるでカエターノの本にはブラジルの明るい時代の記憶が封じ込められているかのようなニュアンスだった。僕が『熱帯の真実』を手にとったのは、この一言がきかっけだった。

「明るさ」はこの本の重要なエレメントだ。しかしそれはいい意味だけではない。この本(そしてトロピカリズモ)の世界観に流れる独特な「明るさ」には、諸々の社会問題を見て見ぬふりをし、「めちゃくちゃさこそがブラジルだ」として、文化や人生の穏やかな面にばかり目を向かわせる力がある。それはトロピカリズモの特徴、少なくともカエターノ自身のブラジル文化や社会、世界史の見方の「軽い側面」とも言えるだろう。

 カエターノを代表とする熱帯主義的な世界観は、もちろんブラジル人みんなに共通しているものではないし、実はトロピカリズモ運動の中でも賛否両論がある。実際、『熱帯の真実』はブラジルでもいろいろな批判をされてきた。その象徴的なエピソードの一つが、2013年に文学批評家ホベルト・シュワルツ(Roberto Schwarz)が新聞でその本を厳しく批判した一件だ。 その後カエターノ自らが彼の批判に答え、他の論客も巻き込みながら、何カ月にも渡って論争が 盛り上がった。

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