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[2021.08]ハウル・セイシャスの「Metamorfose ambulante(終わりなきメタモルフォーゼ)」を紹介【ブラジル音楽の365曲】[8/16〜8/22]

文:花田勝暁(編集部) 

前回の投稿で、

※7月はじめの自社主催イベントの準備が本格化してきているため、毎日更新するのが難しくなってきました。7月初旬まで更新頻度が少なくなります。

 と書いてから、7月初旬どころか、8月中旬まですっとんでしまいました!「ブラジル音楽の365曲」を再開したいと思います。

8月21日「Metamorfose ambulante(終わりなきメタモルフォーゼ)」

 8月21日は、バイーア生まれのブラジリアン・ロックの革命家、ハウル・セイシャス(Raul Seixas|1945年6月28日 - 1989年8月21日)の命日。昨日に続いて、ハウル・セイシャスの代表曲に関して記します。

 「Ouro de tolo(フールスゴールド、黄鉄鉱)(昨日、本項で紹介しました)」が大ヒットしたハウル・セイシャスは、アルバム『Krig-ha, Bandolo!』(1973年)に収録された実存主義的なバラード「Metamorfose ambulante(終わりなきメタモルフォーゼ※)」でも高い支持を獲得しました。

※メタモルフォーゼ:変形・変身・変態

 「Metamorfose ambulante(終わりなきメタモルフォーゼ)」は、 永遠に内なる革命を続けるある一人の音楽家の自画像です。「Metamorfose ambulante」は、常に動き続ける世界に対応するための鍵の1つとして、矛盾を内包しつつも、自身の自由な飛行の計画を発表した意思表明としての歌です。29才の時、パウロ・コエーリョとの共作関係をスタートさせたハウル・セイシャス。ハウルは、パウロを介して、ドラッグ、密教、イギリスの悪魔崇拝者アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)の神秘的な思想に近づいていきました。

 密教的な歌詞を提供した以外に、パウロ・コエーリョは「マリファナからアシッド、コカイン、マッシュルーム・ティーに至るまで」とドキュメンタリー映画で語っているように、ハウルにあらゆるドラッグを紹介し、カウンターカルチャーが夢見た行動革命への知覚の扉を開きました。

 「Ouro de tolo」「Mosca na sopa」「Al Capone」「Rockixe」といった人気曲が収録されたアルバム『Krig-ha, Bandolo!』で、「Metamorfose ambulante」は、告白的、分析的、教訓的な歌詞で、ハウル・セイシャスの性質、態度、スタイルを最もよく表現している曲でした。

私は終わりなきメタモルフォーゼでありたい
何もかもについて古くに形成された意見を身につけるよりも
 Eu prefiro ser / Essa metamorfose ambulante / Do que ter aquela velha opinião formada sobre tudo.

 ハウル・セイシャスは、自分の予想をはるかに超える大成功を収めても、感情や人生の儚さの、栄光の儚さの認識を失うことはありませんでした。

今日、私がスターなら、明日には消えている。もし、私があなたを憎めば、明日にはあなたを愛している...私は俳優だ
 Se hoje eu sou estrela / amanhã já se apagou / se hoje eu lhe odeio / amanhã lhe tenho amor eu sou um ator.

 1989年に、44才で眠るように亡くなったハウル・セイシャスは、自分は歌手でもソングライターでもなく、それらの役を演じる俳優であり、痩せっぽちの薬中だと、いつも言っていました。


8月20日「Ouro de tola(フールスゴールド、黄鉄鉱」

 8月21日は、バイーア生まれのブラジリアン・ロックの革命家、ハウル・セイシャス(Raul Seixas|1945年6月28日 - 1989年8月21日)の命日なので、今日と明日は、ハウルの曲とエピソードを紹介したいと思います。

 2013年のブラジル映画祭で、ハウル・セイシャスのドキュメンタリー映画『ハウル・セイシャス 〜終わりなきメタモルフォーゼ〜』を上映したのですが、観た方いらっしゃいますか? (当時、筆者はブラジル映画祭の実行委員でした)

 軍事独裁政権の最中、ボブ・ディラン(Bob Dylan)とホベルト・カルロス(Roberto Carlos)を皮肉ったようなこの独創的なポップバラード「Ouro de tola(フールスゴールド、黄鉄鉱)は、歌詞で皮肉りながら、独裁政権の「経済的奇跡」と「偉大なるブラジル」に疑問を投げかけていました 

 一人称で告白調に語られるこの歌詞は、歌手の人生と類似しており、リオの街で2年の間の空腹期間を経て、銀行に給料を預け / 流行りに車に乗り / イパネマにアパートを持つようになった「成功した」男の達成感と疑問を表現しています。

 物質的な達成感や消費の夢は、自分を取り巻く不幸や嘘、幻想に対する告白者の憤りに麻酔をかけることはありません。「肉体の頭脳の10%しか使わない、限定的で馬鹿げた人間(ser humano ridículo, limitado / que só usa dez por cento de sua cabeça animal)」の道徳的、精神的な不幸を歌います。

 「Ouro de tola(フールスゴールド、黄鉄鉱)」は瞬く間に大ヒットし、一夜にして、ハウル・セイシャスは、ポップ・アイドルになった。「Ouro de tola」の特徴は、無骨でユーモアのある歌詞、キャッチーなメロディー、ロマンティック・バラードやフォーク、セルタネージョのトアーダ(歌曲)、コルデル文学の詩などの要素が融合したアレンジ。

「私は座っていない / アパートのキングチェアに / 歯がいっぱいの口を大きく開けて / 死が来るのを待って座っていない」とハウル・セイシャスは挑発しています。

 1950年代から1960年代の変わり目に、多くの同世代の音楽家や将来の音楽仲間がジョアン・ジルベルトの声とギターに魅了されていた頃、若き日のハウル・セイシャスは、エルビス・プレスリーに代表されるロックンロールに夢中になり、ハウル・セイシャスはバイーアのエルビス・プレスリー・ファンクラブの会員番号1番でした。

  1960年代後半、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、シコ・ブアルキ、エドゥ・ロボ、ミルトン・ナシメントと行った同世代の音楽家が主要な音楽祭で成功を収め、ブラジルを席巻し始めた頃、ハウル・セイシャスは、最初に結成したロック・バンドとアンダーグラウンドで演奏していました。

  サンパウロに移り住む前の、まだサルヴァドールで活動していた時期に、「Raulzito e Os Panteras(ハウルとヒョウたち)」というバンドを率いていたハウルは、レコード会社のオデオンと契約を結ぶことができ、アルバム『Raulzito e Os Panteras』をリリースしましたが、成功とは程遠い結果となり、バンドは解散しました。

 1971年に、コレクティブアルバム『Sociedade da Grã-Ordem Kavernista presents Sessão das 10』に参加し、自身の音楽家としてのキャリアと対峙しました。このアルバムには他に、ミリアン・バトゥカーダ(Miriam Batucada)、セルジオ・サンパイオ(Sérgio Sampaio)、エヂ・スタール(Edy Star)らが参加していました。
すでに、今日では見直され、後にハウルを成功に導くスタイルを獲得していますが、このプロジェクトはラジオで話題になることもなく、レコード売り上げの面でも失敗しました。

 1972年に、ハウル・セイシャスの楽曲2曲が国際歌謡音楽祭で決勝に進みました。1つは「Let me sing, let me sing」で、ロックが半分、バイアォンが半分という曲で、ハウル自身が、エルビス・プレスリーのような風貌で歌いました。もう1曲は、「Eu sou eu, Nicuri é o Diabo(私は私、ニクリ[ヤシ科の樹木の名前]は悪魔)」で、こちらはバンド、オス・ロボス(Os Lobos)が演奏しました。決勝で入賞はしませんでしたが、観客とメディアに心を掴み、当時のMPBの主たるレコード会社であったPhilips/PolyGramと契約しました。

 先のコレクティブアルバムと同様に、この2曲は「Ouro de tolo」に集約されることになるポップスとブラジル北東部のリズムの有機的な融合という特徴を有しています。この2曲は1973年に、コンパクト盤としてリリースされ、その2ヶ月後にリリースされた革新的なアルバム『Krig-ha, Bandolo!』への導入的役割を果たしました。「Ouro de tolo」は、アルバム『Krig-ha, Bandolo!』に収録されています。

 ブラジルにおけるロックの代名詞というだけではなく、このジャガーのような跳躍の後、ハウル・セイシャスは、彼は自分の紛れもないスタイルを確立しました。そして、今でも、どのアーティストのコンサートでも、聴衆の中に「Toca Raul!(ハウル・セイシャスを演奏しろ ※)」と言う人がいるのです。

※世代を超えて言われ続けているユニークな言葉「Toca Raul!」の話は長くなるのでまた別の機会に。

Eu devia estar contente
Porque eu tenho um emprego
Sou um dito cidadão respeitável
E ganho quatro mil cruzeiros
Por mês
 私は満足しているに違いない
 何故なら仕事があって
 立派な市民で
 月に4000クルゼイロ稼いでいる
 
Eu devia agradecer ao Senhor
Por ter tido sucesso
Na vida como artista
Eu devia estar feliz
Porque consegui comprar
Um Corcel 73
 私は神様に感謝しなければいけない
 何故なら、
 芸術家として成功した
 私は幸せに違いない
 何故なら、
 流行りの車Corcel 73を買えたから 

Eu devia estar alegre
E satisfeito
Por morar em Ipanema
Depois de ter passado fome
Por dois anos
Aqui na Cidade Maravilhosa
 私は明るくて
 気持ちが満たされているに違いない
 何故ならイパネマに住んでいる
 この素晴らしい街リオで
 2年間空腹で過ごした後で
 
....

(「Ouro de tola(フールスゴールド、黄鉄鉱)」作詞作曲:Raul Seixas)


8月19日「Palpite infeliz(不幸な予感)」

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写真:Aracy de Almeida


 8月19日は、1950年代に起こったノエル・ホーザ(Neol Rosa|1910年12月11日 - 1937年5月4日)の作品の再評価の流れの中で、とても重要な役割を果たした女性歌手のアラシー・ヂ・アルメイダ(Aracy de Almeida|1914年8月19日 - 1988年6月20日)の生まれた日です。生誕107年になりますね。
 今日は、彼女が1936年に録音したノエル・ホーザの代表曲の1つ「Palpite infeliz(不幸な予感)」のお話です。

 ノエル・ローザ(Noel Rosa)とウィルソン・バチスタ(Wilson Batista)の有名な論争から生まれた作品の1つ「Palpite infeliz(不幸な予感)」は、抗争の相手への直接的なメッセージです。1936年に作曲されたこのサンバは、その年に、アラシー・ヂ・アルメイダ(Aracy de Almeida)により録音されました。

 ノエル・ホーザが、「Feitiço da Vila(ヴィラの魔法)」をヒットさせた後で、ウィルソン・バチスタは「Conversa fiada(嘘 / 無駄話)」で論争に戻ってきました。婉曲な表現はせずに、ライバルを直接的に疑問を投げかけました。「ヴィラのサンバには魔法があるっていうのは嘘だよね(É conversa fiada / dizerem que o samba | na Vila tem feitiço...)」

 「Feitiço da Vila(ヴィラの魔法)」にまつわるエピソードの紹介はこちら。↓

 ヴィラの詩人、ノエル・ホーザは、またしても、攻撃を非難し、同じ調子でこう答えました。「自分が何を言っているかわからないあなたは誰ですか? 天の神よ、なんという不幸な予感でしょう! (Quem é você que não sabe o que diz? / Meu Deus do céu, que palpite infeliz!)」

 皮肉の部分はさておき、「Palpite infeliz(不幸な予感)」は、ノエルが常に得意としていた美しいメロディーと、古きリオの都市のサンバを記録したことで、その存在感を示しました。ウィルソンに宛てた2つのバースの後で、ノエルは、当時のサンバの本拠地の名前を上げ( エスタシオ、サルゲイロ、マンゲイラ、オズヴァルド・クルス、マトリス|Estácio, Salgueiro, Mangueira, Oswaldo Cruz e Matriz”))、ヴィラ・イザベル地区の兄弟と見なします。ノエルは、その短く濃密な人生のほとんどをヴィラ・イザベルで過ごしました。

 当時、不治の病であった結核の犠牲となって26才で亡くなることになるノエル・ホーザ(1937年5月4日没)は、影響力のある偉大なこの作品を残しました。このサンバはカーニヴァルで大ヒットとなり、すぐに人気を博し、当時の大物歌手や自分自身で録音され、ラジオで流れました。
忘れられ始めていた10年間(アリ・バホーゾ[Ary Barroso]、ドリヴァル・カイミ[Dorival Caymmi]、クストヂオ・メスキータ[Custódio Mesquita]、ラマルチーニ・バボ[Lamartine Babo] いった同時代のアーティストがブラジル音楽を豊かにしていた時代)を経て、1950年代の始めに、ノエルのサンバは再発見され、アラシー・ヂ・アルメイダの声とその魅力的な音楽性によって、再び新しい世代を魅了し、都市のサンバと日常生活の記録の基準となったのです。

Quem é você que não sabe o que diz?
Meu Deus do Céu, que palpite infeliz!
Salve Estácio, Salgueiro, Mangueira,
Oswaldo Cruz e Matriz
Que sempre souberam muito bem
Que a Vila Não quer abafar ninguém,
Só quer mostrar que faz samba também
 自分が何を言っているかわからないあなたは誰ですか?
 天の神よ、なんという不幸な予感でしょう!
 エスタシオ、サルゲイロ、マンゲイラ
 オズヴァルド・クルス、マトリスに幸あれ
 それらの町はヴィラ・イザベルが他の何も苦しめたくないということを
 とてもよくわかっている
 ヴィラ・イザベルもサンバをするってことを示したいだけだ
 
Fazer poema lá na Vila é um brinquedo
Ao som do samba dança até o arvoredo
Eu já chamei você pra ver
Você não viu porque não quis
Quem é você que não sabe o que diz?
 ヴィラ・イザベルでは詩を作ることは朝飯前
 サンバに合わせて木々までが踊る
 僕は君に見せたくて呼んだけど
 君は見たくないから見なかった
 自分が何を言っているかわからないあなたは誰ですか?
 
A Vila é uma cidade independente
Que tira samba mas não quer tirar patente
Pra que ligar a quem não sabe
Aonde tem o seu nariz?
Quem é você que não sabe o que diz?
 ヴィラ・イザベルは独立した町で
 サンバはしたいけれど権利は主張しない
 自分の鼻がどこにあるのかわからない人を
 なぜ呼ぶのか?
 自分が何を言っているかわからないあなたは誰ですか?

...

(Palpite Infeliz[不幸な予感]|1936年)作詞作曲:Noel Rosa

⎯⎯

 再開して2日目ですが... 本日、有名な音楽家に関する記念日の話題はありません。
 「São Yantó」と改名したミナス出身の若手ミュージシャンのリニケル(Lineker)の誕生日で、個人的に愛聴し続けていますが、ここで取り上げて解説するのも違うかなあという思いもあり...

 昨日、あんなにいた誕生日の人の中から、エミシーダ(Emicida|1985年8月17日 - )の曲を紹介します。

8月18日「AmarElo」

 エミシーダについて、月刊ラティーナ 〜 e-magazine LATINA で、何度か記事を掲載していて、最新の記事は、e-magazine LATINA に5月に掲載した記事です。Netflix で日本でも観ることができるエミシーダを追った音楽ドキュメンタリー映画『AmarElo - É Tudo Pra Ontem』について、予備知識を解説した内容でした。
 エミシーダは、サンパウロ出身のラッパーで、現代ブラジル音楽シーンを牽引している才能の1人です。

 映画のタイトルになった「AmarElo」は、エミシーダの2019年に発表した楽曲のタイトルで、アルバムのタイトルにもなりました。エミシーダによる造語だが、詩人パウロ・レミンスキ(Paulo Leminski)の「amar é um elo | entre o azul e o amarelo(愛することは繋がること/青と黄色の間)」という詩から引用しています。

 この曲のリフレインで歌われる「過去に苦しんでばかりはいられない/もう十分血を流したし涙も流した/去年は死んでいたけど/今年は生きている」というメッセージがとても力強いんです。
  今の心境で捉えるなら、コロナ禍から立ち直るためのメッセージとして受け取りたくなります。

...
Tenho sangrado demais
Tenho chorado pra cachorro
Ano passado eu morri
Mas esse ano eu não morro
Tenho sangrado demais (demais)
Tenho chorado pra cachorro (preciso cuidar de mim)
Ano passado eu morri
Mas esse ano eu não morro
Ano passado eu morri
Mas esse ano eu não morro
 私は血を流し過ぎた
 すごっく泣いた
 去年は死んでいたけど
 今年は死んでいない
 私は血を流し過ぎた
 すごっく泣いた
 去年は死んでいたけど
 今年は死んでいない
 去年は死んでいたけど
 今年は死んでいない

(「AmarElo」作詞作曲:Felipe Vassão / DJ Duh / Emicida )

※この曲では、マジュール(Majur)とパブロ・ヴィタール(Pabllo Vittar)というドラァグクイーンの2人がゲスト参加しています。


8月17日 「Lugar comum(皆の場所 / 共通の場所)」

 昨日は、ドリヴァル・カイミ(Dorival Caymmi|1914年4月30日 - 2008年8月16日)の命日で、昨日から再開できたならなあと思っていましたが、途中までになってしまいました。リハビリ必要ですわい。

 今日は、色んな人の誕生日で、誰を取り上げようか、迷いました。ブラジル音楽シーンで、こんな人たちの誕生日です。

エミシーダ(Emicida)は、36才の誕生日。
エヂ・モッタ(Ed Motta) は、50才の誕生日。
ゼゼ・ヂ・カマルゴ(Zezé di Camargo)は、58才の誕生日。
エルバ・ハマーリョ(Elba Ramalho)は、70才の誕生日。
ジョアン・ドナート(João Donato)は、87才の誕生日。
モナルコ(Monarco)は、88才の誕生日。

 それから、ブラジル文学の偉大な詩人 / 作家、カルロス ・ドゥルモンド ・ヂ・アンドラーヂ(Carlos Drummond de Andrade|1902年10月31日 - 1987年8月17日)の命日です。20世紀、最も影響力のあった詩人の1人です。

 そんな中から、今日は何を取り上げることにしたかというと、ジョアン・ドナートの曲にしました。ジョアン・ドナートが作曲して、ジルベルト・ジルが作詞した「Lugar comum(皆の場所 / 共通の場所)」です。

 今日で87才のジョアン・ドナート。「さて、近況は?」と思ったら、本人のinstagramのアカウントがあって、頻繁に更新されています。めっちゃ、元気そうです! 動画のアップが多いのですがnoteだとインスタの動画が上手くシェアできません... 最後に上げてる静止画は、ジョアン・ドナートのお父さんの写真でした。アクレ州出身の、初めてのパイロットだったそうです!

 ちなみにアクレ州はこちら↓。北側にアマゾナス州、東側にロンドニア州、南側にはボリビア、西側にペルーと接しています。アクレ州から、ブラジル中をスゥイングさせる才能が誕生するとは...
 ジョアン・ドナートは、11才の時に、アクレから当時の首都のリオへ移り住んでいます。

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 ジョアン・ドナートが、1975年に発表したアルバム『Lugar Comum』の序文で、ジョアン・ドナートはこの曲について、次のように語っていました。

 アルバム名にもなっている1曲目の「Lugar Comum(皆の場所 / 共通の場所)」の起源は、(アクレ州の州都)リオ・ブランコ市を流れるアクレ川(Rio Acre)を、カヌーで下る男の口笛です。アクレ川はリオ・ブランコ市の真ん中を通っています。夕暮れ時に、僕はそこにいました。まだ僕は、少年で、よく覚えていないけれど、7〜8才の頃だったかな。カヌーが通り過ぎて、男の人は口笛を吹いていて。それで、当時の僕には未知の感覚だったけど、生まれて初めてメランコリックな気持ちになりました。「なんで僕はこんな気持ちになったんだろう」って考えながらも、この気持ちはあの口笛から来てるのかなあと思って、そのメロディーを記憶しました。

 このジョアン・ドナートの回想によると、「Lugar Comum」のシンプルで素朴だけれど力強いメロディーの起源は、アクレ川のカヌー乗りの口笛にあるそうです。

 このメロディーにジルベルト・ジルが道教や禅から影響を受けた歌詞をのせました。

「Lugar comum(皆の場所 / 共通の場所)」の歌詞は、夏に、イタプアン(バイーア州サルヴァドール市の地区の名前。海岸が有名)で書きました。そこにいることの気持ち良さや、多くの一般の人々に共通する場所があること ⎯⎯ つまり、コミュニティという考え ⎯⎯ に刺激されて書きました。最後の詩では、生と死の絡み合いや、1は2を生じ、2は3を生じ、3は万物を生ずというような、陰陽的なフィードバックの感覚として、永遠の回帰への私のこだわりを再確認しています。(ジルベルト・ジル)

※道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気(ちゅうき)以(も)って和を為す。|老子の一節

 では、身を委ねたくなるような平穏な世界観を持ったこの曲を、実際に聴いてみましょう。

Beira do mar, lugar comum
Começo do caminhar
Pra beira de outro lugar
Beira do mar, todo mar é um
 海辺、みんなの場所
 歩き始めるところ
 別のところにある岸辺に向かって
 海辺では、全ての海は1つ

Começo do caminhar
Pra dentro do fundo azul
A água bateu, o vento soprou
 歩き始めるところ
 深い青の中に向かって
 水が弾け、風が吹いた

O fogo do Sol
O sal do senhor
Tudo isso vem, tudo isso vai
Pro mesmo lugar
De onde tudo sai
 太陽の暑さ
 聖なる塩
 すべては来て、すべては去る
 同じ場所へ
 すべてが出てくる場所へ

...

(「Lugar comum」作曲:ジョアン・ドナート、作詞:ジルベルト・ジル)

(ラティーナ2021年8月)


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