見出し画像

[2019.07]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界 第18回 下り坂(クエスタ・アバホ)

文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA

今年もまた6月24日がやってくる。今から84年前の1935年のその日、コロンビア・メデジン空港を離陸したばかりの飛行機が墜落、南米巡業中のカルロス・ガルデル一行が命を落とした(伴奏ギタリストの一人ホセ・マリア・アギラールだけがかろうじて助かった)。カルロス・ガルデルはその美声と歌のうまさのみならず、「わが懐かしのブエノスアイレス」「場末のメロディ」「想いのとどく日」「閉ざされし瞳」などの名曲の作者としても知られている。でもこれらの曲の作詞者はガルデルではなく、アルフレド・レ・ペラであり、レ・ペラもメデジンの事故でその生涯を閉じてしまった、ということは不当に忘れられがちである。

スクリーンショット 2020-07-01 17.28.39

 アルフレド・レ・ペラの父はコゼンツァ、母はナポリ出身のイタリア人で、若い頃からアメリカ大陸への移住を望み、結婚後ほどなく1898年ブエノスアイレスに移住、イタリア製食用油の販売を始めた。1900年仕事の都合でブラジルのリオ・デ・ジャネイロに移動、その後サン・パウロ、ジャルディン地区に居を構え、そこで1900年6月6日(資料によっては7日)にアルフレド・レ・ペラは生まれた。生後2か月で一家はブエノスアイレス・サンクリストバル地区に戻り、アルフレドは生粋のポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)として幼年期を過ごす。地元の小中学校で過ごしたアルフレドは次第に文学に興味を持ち、中学生の時にはスペイン文学に関する40ページにわたる論稿を書きあげ、その出来は先生が驚愕するものだった。ジャーナリストでもあったその教員の手引きでアルフレドはさまざまな詩人や文学者と出会うようになる。またこの時期並行してピアノを学んでおり、正しい記譜法も学んだ。このことが後に譜面を書くことが出来なかったガルデルとのコンビネーションに大きく役立ったのだろう。しかし両親の希望もあり、大学は薬学部に進学、その一方で日刊紙「ウルティマ・オラ」に演劇評を書き始める。結局大学卒業後、劇団の事務や助手の仕事を続けていく。両親のビジネスがうまくいっていたことで、アルフレドはより自由な道を進めるようになったのだ。

「下り坂」楽譜表紙

「下り坂」楽譜表紙

1927年末、スイスとフランスを旅したアルフレドは、当時ヨーロッパで制作され始めた無声映画を、スペイン語字幕を付けてアルゼンチンに輸出するプロジェクトに関わるようになる。イタリア語、スペイン語、フランス語、英語(そしてちょっぴりのドイツ語)を駆使することが出来たアルフレドにはぴったりの仕事だった。やがて新たに制作され始めたトーキー映画の紹介にもたずさわることになる。

続きをみるには

残り 1,967字 / 5画像
このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…