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【追悼】[1981.04]極私的チック・コリア論

〜日本を襲うラテン、スパニッシュ・フュージョンの中で、どんな個人的体験が可能だろうか?

文●池上 比沙之 texto por Hisashi Ikegami

ピアニスト/作編曲家のチック・コリアがほかの星に行ってしまった。
公式サイトに寄せられたチックの言葉を読むと、すでに旅立ちを予感していたようで、彼らしく明るい感謝の気持ちが綴られている。そんな、気持ちが生み出す優しい音楽を、たっぷり味合わせてもらった。
チック、ありがとう。                  池上比沙之

巨匠チック・コリアが9日、癌のために79歳で亡くなった。以下の記事は、中南米音楽1981年4月号に掲載されたものを文章もそのまま再掲載しています。また、チックのお別れの言葉が、彼自身のHPに掲載されています。

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表出の過程に入り込む制約はミュージシャンの音楽から “個人的な輝き” を奪ってしまう

 音楽はどのような音楽であろうとも、ほとんどの場合、個人的な体験でしかあリ得ない。ところが、音楽が資本の再生産や商品流通の現場に組み入れられると個人的な体験でしか得られない“輝き”を失うことが多い。例を挙げるのは実に簡単なことだ。いま、ポピュラー音楽の主軸になりつつある“フュージョン”の多くは、個人的体験を捨て去る方向でしかレコード化されていない事実をみても明らかだ。もちろん、どんな場合でも音楽家は自分が個人的に育ててきた音楽を音として表出するしかないのだが、その課程に入り込む制約が彼らの音から個人的な輝きを奪うのである。

 こうした現象は、音楽が作られて行く過程だけにみられるのではない。ひとりの音楽家が、ひとつの音楽が紹介されて行く過程にも浸透している。

 ミルトン・ナシメントという、ほぼ天才というにふさわしい才能を持った音楽家がいる。ところが、この男はかつてウエイン・ショーター(ウェザー・リポートのサックス奏者)とアルバムを作ったことがあるため、ジャズとブラジル音楽の接点のような見方をされている。彼の音楽の背後には、ブラジルの民族音楽的要素も、ジャズの要素もあると思うが、彼が自分のアルバムで訴えようとしているのは “自分だけの音楽” にしかすぎない、とぼくは考える。それを、ブラジルの民族音楽的側面や、ジャズという側面だけから判断し、紹介したら、ミルトン・ナシメント個人の音楽を最大公約要素で認識する人が現われかねない。人称という立脚点をもたない表現は、情報にすらならないのである。こうした“流通スタイル“や”フォーム“に無意識のなかで固執した表現は、実は、数年間にわたって音楽に関して文を書き続けてきたぼく自身にも覚えのあることだ。ところが、ラッキーなことにぼくはつい最近になって、自分の安易な表現に対する反省を、これから書こうとしているひとりのピアニスト、チック・コリアとのコミュニケーションによって得ることができた。ぼくがいま要求されていることは、日本のラテン音楽ファンにチック・コリアという音楽家の魅力を紹介することになるのだが、それはあくまで“ぼくにとってのチック・コリアの意味”をまとめることに過ぎないとあらかじめお断りしておきたい。

メンバーに新しいインスピレーション与えるチックの完璧なリーダーぶり

チック6

 ぼくはこれから語ろうとする男、チック・コリアとは何回も会っているが、彼の音楽について真剣に話し合った記憶がほとんどゼロに近い。もちろん、今度のアルバムの○○という曲がいい。とか、誰か共演したい人はいる?」という程度の会話はある。だが彼の音楽のディテールについては、ぼくも聞こうとしないし、チックも話そうとしない。つまるところ音楽とは演奏する人間の自由と、聴く人間の自由が、音だけを拠り所にスパークするからである。1度だけぼくはチックに向かってぼくらは本当に音楽のこと話さないね。と言ったことがある。すると彼は“ハハハ。なぜかねえ”といたずらっぽく笑った。“音楽のことは、レコードやパフォーマンスを聴けばいいんだからね。せっかく人間チックが目撃できるチャンスなのに音楽のこと話してたらもったいない”と答えたら、ひとこと“グッド!”という言葉が返ってきた。第1次リターン・トゥ・フォーエバーのオリジナル・メンバー、アイルト・モレイラとも何回か会ってはいるが、やはり彼の音楽のことは話したことがない。が、たびたびチックのことが会話のテーマとなったものだ。「チックってね、一緒にいるととってもリラックスできるんだ。ウォームなんだよね。チックのことを悪く言うヤツはいないな。クリーンでフェアだからね」ぼくはアイルトに、あなたもチックもブルースをルーツとしないミュージシャンだから気が合うんじゃないの?」と聞き返した。すると、「そんなことないさ。だって彼は、スタンリー・クラークやレニー・ホワイトとうまくやってるし、ハービーやマイルスとだってね。性格なんだよ、ヤツの」といわれてしまった。

 楽屋話となるが、チックはグループの収入をメンバーに均等に配分することでも知られている。第2次RTF(リターン・トゥ・フォーエバー)に加入した当時は新人のギタリスト、アル・ディ・メオラにも、自分の取り分と同じギャラを渡していたそうだ。レニー・ホワイトの言葉を紹介しよう。「チックはリーダーとしてパーフェクトだ。でもそれ以上に偉大なミュージシャンとしてオレは尊敬してるんだよ。彼とプレイしてるとね、新しい音楽に対するインスピレーションが湧いてくる。何をやればよいのかがわかってくるのさ」そんなチックがまたまた日本にやってきて、ゲイリー・バートンとすばらしいデュオを聴かせてくれた。ぼくは楽屋にチックを訪れ、「ありがとうチック、ぼくはまた新しい自分を発見しちゃったよ。あなたの音楽のなかにね」と言った。すると、「グッド!」という例のひとことが飛び出した。その時初めて、周囲にいる人間をハッピーにしてくれるチックのなかで彼の音楽はどのように変化してきたかをぼくなりにまとめて、多くの人々に紹介したいという欲望が起こってきたのである。

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チックのラテン傾斜は単純に民族回帰や血の問題の図式で捉えることはできない

 紹介記事に関しては個人的な前置きが長くなってしまったが、チック・コリアの現在の音楽は、そんな彼の暖かさ抜きには語れないのである。音楽家は誰でも、というよりは人間は誰でも、その人生において幾度かの変転の時を持つものだ。スタイルにおける変転の時はもちろんのこと、人によっては価値観の変転の時を持つこともありうる。だが、スタイルの変転のみに心を奪われると、ともすれば最も大切なもの、その人の心の奥深くに潜む不変のリアリティを見失いがちになる。ぼくはこれから、便宜的にチック・コリアの音楽の歴史について書いて行くが、彼の内部で変化して行ったものと、変わらずに在り続けるものを、凝視し続けたいと思う。

 チック・コリアは、本名がアルマンド・アンソニー・コリア。1941年6月マサチューセッツ州のチェルシーという所で生まれている。父親のアルマンド・J・コリアはトランペットとベースを演奏するジャズ・ミュージシャンで、彼の家には父親が集めたチャーリー・パーカーやサラ・ボーンなどのレコードが沢山あったという。音楽的な環境としては申し分なかったわけだ。後年、チックがラテン・ミュージックと接近するようになった原因を、両親の出身地に求める人は多い。父親がシシリー島、母親が南イタリアの出身という、イタリア系アメリカ人であるが、世に言われるプエルトリコ民族の血が入っている。という説は、チック自身が否定している。だが、父親がシシリーで生まれているという事実は見逃すわけに行くまい。このことからみるとコリア家は、比較的最近になってから”アメリカ人となった“ファミリーである。ということはコリア家は、シシリー文化の影響を濃く持ちながら、アメリカ文化とフューズしてきたという推論が可能になる。シシリーはイタリア本土とは異なる文化的性格を持つといわれている。ムーア民族(回教徒)やスペイン人との接触によって汎地中海的な色彩の文化が形成されてきたわけだ。そこで生まれた父親を持っていたことが、現在のチックの音楽にある影響を及ぼしていることは十分に考えられうることである。

 黒人ジャズ・ミュージシャンの多くが複雑に発展するジャズのイディオムのなかでも、彼らの音楽的なルーツたるブルースを失わないのと同様に、また、多くの黒人がブルースに回帰して行くように、チックはスペインの音楽や、ラテンの音楽に傾斜して行ったのだ。だが、彼の場合は、“民族回帰”とか“血”などという単純な図式のなかでその音楽を位置づけることはできない。それは、チックのミュージック・キャリアを見れば明らかになる。

 チック・コリアの音楽は、母親のアンナが彼のためにピアノを買ったことから始まる。彼が4才のときだ。父親が、ごく基礎的なことを彼に示しただけで、彼はジャズの感じをつかんだというから、やはり天賦の才能があったのだろう。8歳か9歳から、クラシックの先生について、ピアノを練習したというが、チック自身によれば、他の子供たちと屋外で遊ぶことの方が楽しかったという。こんな当たり前のことにも、ぼくはチックのナチュラルな音楽の源を感じるのだ。

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 そしてどの音楽少年もそうであるように、グループを組んで音楽を演奏しはじめる。もちろん、ポピュラー・ミュージックをだ。そんな時に、チックはビル・フィッチというコンガ奏者と友人となり、ラテン・ミュージックの楽しさを吸収する。それがやがて、彼のプロフェッショナル・ミュージシャンとしての出発につながって行くのである。

 チック・コリアの名前がミュージック・シーンのなかで知られるようになったのはモンゴ・サンタマリアのグループに加入してからだ。その当時のモンゴのバンドは、ちょっとジャズっぽい演奏はしていたが軸となっていたのはラテン・ミュージックだったという。以後、ハービー・マンのグループやウィリー・ボボとの共演など、ラテン・ジャズ・グループでの演奏を体験しながら、ジャズの主流派とのコミュニケートを深めていった。

 ジャズ・ミュージシャンとしてのチックの最初のピークは、スタン・ゲッツのバンドを経てマイルス・デイビス・コンボに加わったことだろう。彼はマイルスのもとで約3年近く、最も新しいジャズと、演奏に確信を持つことを学ぶ。マイルスが好きな人ならば「ファセッツ」というアルバムを知っていることだろう。実は、チックはコンボのレギュラー・メンバーとなる前に、このレコーディング・セッションにドラマーとして参加している。レコード・クレジットではパーカッションとなっているが、チック本人の語るところによると、ドラムを叩いたのだそうだ。あまり知られていないことなのだが、チックは8才の頃からドラムの練習もしていたのである。その後2年間ほど、みっちりと練習したこともあって、「ドラマーとリズムを理解できる人間になった」のだそうだ。彼の音楽が、時に美しいメロディーを示してくれながらも、強靭なリズムを感じさせてくれるのも、またラテン・リズムに強い共感を示すのも、こんな知られざるキャリアを知ることによって理解可能となるはずだ。マイルスのコンボを辞したチックは、現代音楽的な実験的ジャズ・グループ “サークル”を結成する。このグループは、高度な音楽の知識をベースにしたフリー・ジャズ・グループとして世界中のプログレッシブ・ジャズ支持者から注目されたが、長続きはしなかった。抽象化された音楽が極度なテンションを呼び起こし、音の不協和音が、メンバー相互の、そして演奏者と聴衆の不協和音へと不幸な発展を送げることになったからだ。

シンプルでナチュラルというテーマを負ったRTFは聴衆との距離を縮めようと試みた

 チック・コリアという “ジャズ・ミュージシャン” が、日本の幅広い音楽ファン、ラテン・ミュージック・ファンから注目されるようになったのは、70年代の初頭—確か1971年だったと思う—にガラリと方向転換して結成された“リターン・トゥ・フォーエバー”の音楽によってだ。アイルト・モレイラ、フローラ・プリムというブラジリアンが加わった “RTF” の音楽は、爆発的な支持を得ることになった。チックはこのグループで、それまでの音楽生活で得た知識を土台に、コンセプトを抽象化させることなくピースフルなサウンドをしめしてくれた。“ジャズ”を全く知らない女子高生までもが、ロマンティックなジャケットを持ち歩くようになった。コーヒー・ショップでもBGMとして “RTF” の音楽が流れた。
 昨日まで “サークル” の難解なインプロビゼーションにしびれていたぼくは、一瞬戸惑った。友人に
「美しすぎるんだよ」
と意見を述べたこともあった。チックには、本一冊を費しても述べられね必然があってのスタイルのチェンジだったのだろうが、ぼくら“ジャズ・ピアニスト”チックのファンが彼の真意を知るには、さらに数枚の “RTF” によるアルバムが必要であったのだ。「リターン・トゥ・フォーエバー」の音楽を、複雑になりすぎた“ジャズ”に、ブラジリアン・リズムや異民族の音楽を導入して、シンプル化した音楽だと定義することはたやすい。だが、音楽の受け手が要求されるのは、なぜチック・コリアがこうした音楽を作曲・演奏するのかという理解と、その結果として生まれた音楽が聴き手である主体にどんな意味を持つのかということだ。ぼくにとって、チック・コリア&RTFの音楽は、演奏の主体と客体におけるパーフェクトなコミュニケートは可能かというテーマを与えてくれた。音が抽象化されるほど、主体と客体の間でやりとりされる音の意味は、食い違いがちになる。チックは、いかに自分に対してシンプルで、ナチュラルでいられるかというテーマを課すことによって、共演者および聴衆との距離を縮めようと試みたのだ。あらゆる誤解と中傷を恐れずに。
 こうした音楽方法論に、スタイルの上で最も有効な手段となったのが、エモーションのダイレクトな表現であるラテン・ミュージックであったのだろう。それはチックのミュージック・ルーツであると同時に、自分を育ててくれた感動の回復でもあったはずだ。ぼくがなんとなく、チックの誠実さを意識しだしたのは “RTF” による2枚目のアルバム『ライト・アズ・ア・フェザー』の最終曲「スペイン」を聴いてからだ。このアルバムが録音されたのは1972年。この「スペイン」は4年後に「マイ・スパニッシュ・ハート」として、より具体的な形となる。その間に、同じくスペインの音楽を自分の音楽に反映させていったアル・デイ・メオラが “RTF” に加入し、チックのスペイン音楽に対するイメージをより確かなものにして行ったということも見逃せまい。アルはスペイン音楽、及びパコ・デ・ルシアとの出会いを次のように語ってくれた。

パコ

「パコの音楽と会ったのは、RTFでヨーロッパに行った時だ。ぼくもチックもレコードで聴いて、彼の音楽は知ってて大好きだった。やがて、ぼくはパコとレコーディングし、チックはパコに捧げる“フラメンコ”という曲を書いたっていうわけさ。チック? 彼は最高のラテン・ピアニストだ。時代を超えた巨匠さ。ラテンだけをやってるわけじゃないけど、いざラテン・リズムを使うと、もう“マスター”としかいえないね!」

 この “ラテン・ピアニスト” という表現はアル流の、チックに対する最大級の賛辞だろう。ひとつのスタイル、カテゴリーにこだわることのない、真の表現者という意味が含まれている。あらゆるバーサタイルなリズムをこなし、しかも自分を表現できなければアルの言う「ラテン・ピアニスト」にはなれないからである。このアルの言葉をチックに伝えたら、「ハハハ。ラテン・ピアニストだって。OK」と笑っていた。すべての影の意味を理解した明るい笑いであった。

人間チック・コリアはRTFで自分の誠実さ、暖かさ、優しさに確信を持ったのではないか

 “自分が楽しく演奏しなければ、聴衆だって楽しく聴けないはずだ”という言葉は、多くのミュージシャンの口から語られる。もし、かけ値なしの誠実な言葉であった場合、この生き方はミュージシャンにとって最大の武器となる。自分の生活=演奏を唯一の拠り所として聴衆とのコミュニケートをはかろうという、背水の行為となるからだ。チックの場合の “RTF” は、そうした誠実なコミュニケートに対する代表的な例といえるだろう。彼は “RTF” を結成することによって、自然なミュージシャンであることを世界に宣言したのである。その時点では、それまでチックを支持していた聴衆が新しい音楽に同様の賛意を示すか、全く未知の状態であったというのにだ。この彼の確信は、“サークル”がテンションを増幅するグループとしてしか機能しなかったこと、及び人間の健全な精神を追求するサイエントロジーに絶対の信頼を持ったことによって、深められたと考えられよう。そして、新しいステップへの方法にブラジルやスペインの音楽的影響を導入したのは、チックが彼なりの個人的な体験としての音楽にこだわり出したということなのだ。

 一見、簡単に見える音楽によって共演者、聴衆との全面的なコミュニケートの糸口をつかもうとする方法は、チックにとって大きな賭けであったに違いない。実際、“RTF”の初期には、グループの機材を手に入れるため、永年にわたって愛器として親しんできたピアノを手放したという話が伝わっているほどである。そうまでして、チックが演奏しようとする音楽は、ブラジル音楽とのフュージョンでも、スペイン音楽とのフュージョンでもなく、“チック・コリアの音楽”としかいいようのないものだったはずだ。というより、この時チックは“自分がやるしかないことを、意志の命ずるまま、確信を持ってやる”と考え始めていたにちがいない。そこには、名声を得たミュージシャンの思い上がりも、さらに名声を得たいという欲もない、宗教的な(あるいは哲学的な)到達点だといえよう。

 こうして考えて行くと、人間チック・コリアの最大の転換点は、やはり “RTF” 結成前後ということができそうだ。彼が抽象的な言葉を音楽の中から取りのぞいた時、彼は自分の誠実さ、暖かさ、優しさに確信を持ったのではあるまいか。マイルス・デイビスとの出会いで深まった音楽的な確信は、ラテン・ミュージック(スペインやブラジルの音楽を含む広義のラテン・ミュージックだ)によって人間的確信へと深められていったのである。その何よりの証拠は “RTF” のデビュー・アルバム最大のヒット曲となった「ラ・フィエスタ」のその後に示されている。ゲイリー・バートンとのデュオ、ハービー・ハンコックとのピアノ・デュオで演奏される「ラ・フィエスタ」を聴きかえしてみると、音楽の意味はスタイルやカテゴリーにあるのではなく、その背後に息づいている人間そのものにあるのだということがわかるはずだ。チックのひとつのシンボルにすぎない「ラ・フィエスタ」は、時には厳しく、時には優しく、ぼくを訪れる。ぼくはそのつど、新しい自分を「ラ・フィエスタ」に、チックに発見させられるのだ。

 ぼくは、チックのピアニストとしてのテクニックを分析する興味をほとんど感じたことがない。クラシック音楽を徹底して学ぶことによって得た比類のないタッチも、生きたリズムをよりストロングなものとしている名人芸的ペダル操作も、トータルなソノリティーも、ひとりの人間としてのチックの誠実さの前では、単なるひとつの言葉にすぎない。それよりも、そんなチックの誠実さを育てたコリア家と、マサチューセッツの精神風土のほうがよほど興味深いのだ。将来、もし許されるものならば、そんなルポをやってみたいとさえ思っている。現在ぼくに与えられている素材では、チックのトータルな人間像に肉迫することには無理があるからだ。

 アルマンド・アンソニー・コリアの音楽は、日本を襲いつつあるラテン・フュージョン、スパニッシュ・フュージョンの波にのって、ますます多くの聴衆を獲得するに違いない。どれだけ多くの人々が、彼の音楽を媒介に個人的な体験をすることか、それを考えるだけでスリリングな気持ちで一杯となる。あらゆる制約から解放されて、無限の自由のなかで、チック・コリアの存在を受けとめる人がひとりでも多く現われんことを。  

 最後に、今年のライブ・アンダー・ザ・スカイのプログラムとして、チック・コリア=パコ・デ・ルシアの共演というアイデアが出ていることを付記しておきたい。

(中南米音楽1981年4月号掲載)


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