[2017.03]「ラ・クンパルシータ」 100周年に寄せて -Ⅰ- 作者マトス・ロドリゲスと名曲の誕生
文●西村秀人
▲1988年にウルグアイで発行されたラ・クンパルシータの記念切手と消印
今年2017年はタンゴの名曲「ラ・クンパルシータ」が初めて録音されてから100年という節目の年にあたる。そこで今回から3回にわたって、この名曲の数奇な運命と100年の旅路をめぐる話に3回に渡ってお付き合いいただければと思う。
1897年3月18日、のちに「ラ・クンパルシータ」の作者となるヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲスが、アルゼンチンの隣国ウルグアイの首都モンテビデオに生まれた。当時のウルグアイは独立初期の混乱から、1903年に始まるホセ・バッジェ政権下での社会改革によって急速に近代化していく変革のただ中にあった。
ヘラルドの父はエミリオといい、多感な青年時代をパリで7年間も過ごした珍しい人物だった。父は初め普通に商売を営んでいたらしいのだが、1913年、タンゴ好きが高じてキャバレー「ムーラン・ルージュ」の経営者となる。当時はまだタンゴ・ダンスを踊るような場所は、一般市民にはまだ「いかがわしい」場所であり、父エミリオは初めこのことを妻や子供たちに内緒にしていたらしい。しかしすぐにすべては明るみとなり、父は家を出て母子と別居(最後まで離婚はしなかった)、姉オフェリアの結婚話も一旦保留になるなど、マトス=ロドリゲス家には暗雲が立ち込めていた。実はヘラルドが「ラ・クンパルシータ」を作ったのは、そんな家庭不和の最中であった。(この曲には1916年誕生説と1917年誕生説があるは、ここではウルグアイ政府も認める後者で考える。)
1917年、20歳のヘラルドは大学の建築学部に通っていた。姉のフィアンセが建築家で、試験に数学がなかったので選んだだけだった。勉強に身が入るわけもなく、もっぱら「大学連盟」という名のクラブにたむろしては、同級生と遊んでいた。2月、そのクラブでカーニバルに参加することになり、その行進用として、友人の家の古いピアノでヘラルドは「ラ・クンパルシータ」を作った。ヘラルドは音楽の勉強はしたことがなく、曲を作ったといってもメロディを1本指で弾き、同級生ワルテル・コレア・ルナが譜面にしたという。「クンパルシータ」は行列を意味する「コンパルサ」に縮小辞がついた形をイタリア訛りにしたものだ。以前行進していた時に、アイスクリーム売りにひどいイタリア訛りで「学生たちの行列だ!」と叫ばれたことがあり、そこから名付けたという。
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