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[2018.07]【連載 それでもセーヌは流れる 114】85歳歌手デビューのフランソワーズ・ファビアン

文●向風三郎

1)『モード家の一夜』(1969年)ポスター2

『モード家の一夜』(1969年)ポスター

 ヌーヴェル・ヴァーグの傑作映画の一つとされ日本でも評価の高いエリック・ローメール監督の『モード家の一夜』(1969年)という作品がある。ローメールの連作「6つの教訓物語」の第4作めで、中央山塊地方の主邑クレルモン・フェランに着任したばかりの30代半ばの技師(演ジャン=ルイ・トランティニャン)が、雪降るクリスマス時期の数日間に出会う3人の人物とのやりとりが映画の主軸である。

 論理派ながら敬虔なカトリック信者である技師ジャン=ルイは、教会のミサに参列中、若いブロンドの女性(演マリー=クリスティーヌ・バロー)に目を奪われ、彼女こそ自分の妻になる女性であると直感し、追跡していくが見失ってしまう。たまたま初めて入ったカフェで、十数年ぶりで学校時代の親友ヴィダル(演アントワーヌ・ヴィテス)と遭遇し、若き日に戻ったように二人は哲学論議を展開する。その論戦の主題はその町クレルモン・フェラン出身の17世紀の思想家ブレーズ・パスカル(1623 – 1662、日本ではもっぱら「人間は考える葦である」という言葉で有名)のいわゆる「パスカルの賭け」と呼ばれる神の存在証明についてである。パスカルは理性によって神の存在を証明することはできないとした上で、その存在の有無を賭けにすると、存在するに賭けた者(=信者)は、その賭けに負けた(神が実在しない)としても失うものは何もない。逆に賭けに勝った(神が実在する)場合、天国など得るものは限りなく、反対に無神論に賭けた者は地獄を永遠に背負い込むことになる。確率論と言おうか、損得論と言おうか。ヴィダルは学生の頃から唯物論者で左派志向で、懐疑的で冷笑的な論客で、パスカルを援用して「何か」に賭けようとしている優柔不断でナイーヴなジャン=ルイを論難しようとする。その「何か」とは偶然教会で見かけたそのブロンド女のことであり、ジャン=ルイにとってはその賭けには勝算しかないのである。負けて失うものは何もない。

 クリスマスの夜、ジャン=ルイとヴィダルは再会し、敬虔なカトリック信者である技師に付き合って教会の聖夜ミサに列席した後、ヴィダルが一方的に想いを寄せている(とは言っても真剣ではない)女友達のモード(演フランソワーズ・ファビアン)の家で晩餐することになった。女医のモードは最近離婚し、幼い娘と二人暮らし。ヴィダルとモードは60年代的リベラルな関係で、堅物のジャン=ルイを前に見せつけの抱擁タッチを。その席でもパスカル論争は続き、ジャン=ルイは二人の前でその賭けの正しさを力説しようとするのだが、それがあのブロンド女性との出会いが運命的であるということとダブってしまうのである。やがて泥酔したヴィダルは(多分に作為的に)その場を去り、ジャン=ルイにもう少し居残るように嘆願したモードに申し合わせたように外は雪が激しくなる。帰れないわけではないが、モードに魅かれるものがあるジャン=ルイは帰れなくなる。もう一つ寝室があるからそこに泊まればいい、と言われたもう一つの寝室は存在しない。夜更けの果てまで続くモードとの会話は、堅物技師の確信をぐらぐらと揺さぶっていく。俺はこんな男のはずはない。モードの揺さぶりは宗教的な意味で「悪魔」のそれではない。20世紀的60年代的リベラル派の知性である。17世紀は終わったのよ、と言いたいかのような。この自由さ、この見事な知的ゲームによる魅惑、この黒髪の美しい〝大人の〟女性が、私たちの記憶の中で忘れることのできないフランソワーズ・ファビアンであった。夜の果て、外は激しい雪。モードとひとつ部屋の中で毛布にくるまって安楽椅子で眠りかけたジャン=ルイだったが、抗しがたくモードの眠るベッドの中に入っていってしまう…。

3)『モード家の一夜』スチール、モード(フランソワーズ・ファビアン)とジャン=ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)2

『モード家の一夜』スチール、モード(フランソワーズ・ファビアン)と
ジャン=ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)

 この映画のその後の筋についてはもう書かない。映画題が示すように最重要なのはこの一夜であり、モードの会話によるジャン=ルイ揺さぶりなのだから。モードを演じた時から約半世紀後、今年85歳になった大女優フランソワーズ・ファビアンが長年の希望叶って「歌手デビューアルバム」を制作するとなった時、曲提供者の一人、シンガーソングライターのヴァンサン・ドレルム(2016年12月号の本連載記事で紹介)は「会話(La conversation)」という歌をファビアンに贈った。

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