[2018.06]【連載】タンゴのうた 詩から見るタンゴの世界 第5回 聖なる十字架の下に~ブロンカ(憤怒)
文●西村秀人 text by HIDETO NISHIMURA
Mario Battistella
Al Pie De La Santa Cruz
このタンゴは決して有名な曲ではないが、タンゴには珍しく社会性を反映した先駆的作品として評価されている曲である。1933年発表、エンリケ・デルフィーノ作曲、マリオ・バティステーラ作詞。発表後発売されたのはカルロス・ガルデル(ギター伴奏、9月18日録音)とアルベルト・ゴメス(オルケスタ・ティピカ・ビクトル伴奏、10月11日録音)のレコードのみ。
この曲が発表された時期のアルゼンチンは、1929年の世界恐慌に端を発した経済の悪化が深刻化、政治も不安定となり、国民の間に大きな不安が広がっていた時である。しかしここで描かれているのは1919年1月の労働争議、のちに「悲劇の1週間」と呼ばれる鉄工所のストライキに端を発した紛争が軍によって鎮圧、一説によれば700人が亡くなったとされる事件をテーマにしている(ロシア革命とのつながりを疑われ虐殺されたロシア系ユダヤ人が多数含まれているとも言う)。バティステーラは、この争議で労働者として戦った夫が、その後ストライキから外国人を追放する「雇用者法」によって逮捕され連行されていく様子を、哀れな妻の姿とともに描いたのだった。経済・政治ともに疲弊したアルゼンチンで、10数年前の悲劇を描くことで、バティステーラは警鐘を鳴らしたのだろう。
マリオ・バティステーラは1893年イタリアのヴェローナ生まれで、17歳の時アルゼンチンにやってきた。1922年頃から音楽劇の歌詞を書くようになり、1925年の「ピンタ・ブラバ」を初めとしてタンゴの歌詞も書くようになる。1929年、無声映画の解説を翻訳する仕事でパリに渡る。1931年、旧知のカルロス・ガルデルと作詞家アルフレド・レ・ペラがパリにきて、3人の共作で「告白するのはつらいこと」「場末のメロディ」などを発表。翌32年にはガルデルのイタリア公演に同行、タンゴとカンツォーネの映画を撮る予定だったが、なぜか企画倒れに。その間フランス在住のバンドネオン奏者マリオ・メルフィの作ったタンゴ「追憶」(レメンブランサ)にも作詞した。1933年のカルロス・ガルデルの主演映画「エスペラメ」にも協力(英語からフランス語に訳された原脚本があまりにひどかったので、全部訳し直した。秘書役で1シーンだけ映画にも出演している)、その後アルゼンチンに帰国、ほどなくガルデルの旧作を焼き直した「幸運のメダル」と「聖なる十字架の下で」を発表した。つまりバティステーラは世界恐慌の影響を受け、アルゼンチン社会が荒廃していく間は、アルゼンチンにいなかったのである。ガルデルらと充実した時をヨーロッパで過ごした後、戻ったアルゼンチンのあまりに悲惨な様子に、自分が青年時代を送っていた頃起こった労働争議の想い出を重ね合わせたのだろう。
時は流れ、1943年、軍事クーデターによりラミレス将軍が大統領に就任すると、不適切な内容のタンゴに規制措置が取られ、「パン」「アクアフォルテ」とともに「聖なる十字架の下に」も放送禁止となった。その禁止が解けてまもない1949年12月にアルフレド・デ・アンジェリス楽団がカルロス・ダンテの歌で「聖なる十字架の下に」を録音しているが、なぜか最初の4行だけ歌詞が変えられている。
カーニャ(焼酎)がダンスパーティの中を駆け抜け
大騒ぎに火がついた
粋な男たちの混乱の中で
勇気ある男が印のついたいかさまトランプを差し出す
この後はすべて同じ歌詞なのだが、飲み屋の騒動で捕まった男の悲劇にすり替えられたわけだ。誰がこの変更された詞を書いたのかは不明だが、デ・アンジェリス自身はこの変更を「刑務所に行くのはいやだったからね」と後年説明している。1949年12月、ペロン政権は深刻な経済危機に見舞われており、労働者の不平を助長するような歌詞ははばかられたのか。
バティステーラはその後もさまざまなヒット曲を手掛けた。特にヒットしたのは1934年「ノ・アフロヘス」(ペドロ・マフィア曲、セバスティアン・ピアナ詞共作)、1939年「青い小部屋」(マリアーノ・モーレス曲)。1950年以降は独立したばかりの歌手エドムンド・リベーロと組んで、「兄弟タンゴよ、おまえのために」「パル・ネネ」「哀れな金持ち」などを発表。
そして「聖なる十字架の下に」から30年、ペロン政権崩壊後の混乱に揺さぶられ続けるアルゼンチンを憂い、リベーロの曲を得て、1962年にバティステーラは再び社会派タンゴを発表する。
Edmundo Rivero『Bronca』(1962年)
この曲(本ページ「ブロンカ」参照)が書かれたのは、アルトゥーロ・フロンディッシ大統領が軍事クーデターにより失脚、急激なインフレに見舞われた時期だという。
Osvaldo Pugliese y su Orquesta 『Soy bien porteño』(1962年)
当時のこの曲の録音は2種類ある。一つはオスバルド・プグリエーセ楽団で、歌手はアルフレド・ベルーシ、資料では1961年9月録音とあるが、歌詞で「1962年」とはっきり歌っているので、1962年の録音のはずだ。ちなみに収録アルバムの発売日は1963年7月12日(アルバム「ソイ・ビエン・ポルテーニョ」)。
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