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[1996.11]シコ・セーザル 時代の寵児

 来月京都の天橋立で『KYOTOPHONIE』が開催され、シコ・セーザルが26年ぶりに来日します。この記事は、初来日(かつ最後の来日)の約1年前、月刊ラティーナ1996年11月号に掲載されたものです。筆者の国安真奈さんにご協力いただき、今回の来日に合わせ公開することといたしました。
 彼が27年前にどんなことを考えていたのか?今、現在でも問題になっていることを当時先駆けて考えていたことが非常に興味深いです。ぜひご覧ください!

インタビュー&文●国安真奈
colaborações especiais●ALDA BALTAZAR(POLYGRAM DO BRASIL), MARCOS FENTANES e DANIEL RODRIGUES 

 ブラジルはノルデスチ(北東部)、リオやサンパウロの大都会から見れば “地の果て” かもしれないパライバ州から、実に唐突に、シコ・セーザルはやってきた。唐突だが、彼は確実に次世代のブラジル音楽を担う旗手である。現在50の坂を登りつつある、カエターノをはじめとするMPBの重鎮たちに決定的な「ご苦労様でした」の挨拶ができるのは、おそらくこのシコ・セーザルだろう。

 シコは、パライーバ州都ジョアン・ペソアから内陸部へ50キロほど入ったカトレー・ド・ホーシャという町の出身だ。この地域はセルタゥン・ド・パライーバと呼ばれる非常に乾燥した気候で、シコの故郷は人口1万2千人程度の小さな町である。住民は自給農業、綿花の栽培、家畜の飼育などで生計を立てている貧しい土地柄だ。シコは、大学進学のため、州都ジョアン・ペソアへ向かうまで、その町に住んでいた。子供の頃の音楽的な環境について、彼はこんな風に語る。

シコ(以下C) 音楽とは子供の頃から親しんだ。初めて作曲したのは12歳の時だった。故郷は、もともとフォルクローレが豊かな地方で、父方の家系の男たちは皆、ヘイザードを踊った。 ヘイザードとは、ポルトガルによる植民地時代の中世的な風俗を反映した大道芸能で、音楽、踊り、そして「エントレ・メイオス」と呼ばれる即興演劇からなる。8歳から15歳まで、僕はレコード屋でバイトをして、その店で、ありとあらゆる音楽を聴いた。ルイス・ゴンザーガ、ジャクソン・ド・パンデイロにはじまって、ブラジル南部のフォルクローレをやっているテイシェイリーニャからローリング・ストーンズ、ビートルズ、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル…… フォホーからポップ、ハードロックまで、なんでも聴いた。
 13歳の時、自作曲で初めてフェスティバルに参加した。曲はサンバで、北東部育ちの僕には、ほとんど縁のないジャンルだったが。そのフェスティバルで、僕はヴィオラゥンを賞品にもらった。初めてのヴィオラゥンだった。その後、見よう見まねで弾き方を覚えた。唯一受けた音楽教育は、通っていた、尼僧が運営する学校で必修だった縦笛の授業だけだ。学校は、第二次大戦時、ドイツから逃げてきた尼僧たちによって運営されていたんだ。
 カトレーは僕にとって大衆文化、マス文化に初めて触れた揺りかごのようなものだ。 カトレーのレコード屋は本も売っていたから、音楽を聴く傍ら、本もたくさん読んだ。僕の文化的基盤は、すべてカトレー時代から来ている。それに、田舎では時間があって、知り得たことについて十分考えることができる。もっとも、それでもスペースは余るから、そのぶんは自分で創造することになる。僕は文化的に豊かで静かな町に住み、州内でも最良の学校で勉強し、本屋を兼ねるレコード屋でバイトしていたわけだから、貧しくはあったが、本当に恵まれていた。

── 大道芸についてだけど、さっき言った「エントレ・メイオス」というのは?

C 即興の演劇だ。興味深いことに、昔は男性だけによって行なわれていたんだ。感じとしては、マラカトゥとブンバ・メウ・ボイとフォリア・ヂ・ヘイスの混じったような、その亜流のようなものだ。
この劇の登場人物は、王と王妃、貴婦人たちと王子たち。この王様は、劇中で一番偉いということになっている。王であると同時に地主でもあるんだ。 王宮の人々の他、3人の牧童が出てくるが、これが狂言回しの役割を持っている。3人はマテウス、ビリーコ、バルタザールという名だ。あと、カタリーナという名の女が登場するが、これは必ず男性が扮する。 カタリーナはマテウスの女房で、ビリーコとバルタザールの母親だ。彼らは仮面をかぶっていて、挙動もセリフも滑稽だ。レシーフェのカルナヴァルで、一人で仮面をかぶって子供を脅したりしてみせる役があるが、それに似ている。おかしなことを言ったり、王様の言葉をパロってみたり。
 さて、カタリーナは妊娠していて、牛タンが食べたいという。牛は地主の持ち物だ。カタリーナは少し悪女風なところがあって、亭主のマテウスをそそのかして牛を殺させる。亭主は捕まってしまうが、これを釈放してもらうには金が必要だ。そういう理由で、役者たちは、観客にお捻りを投げてくれるように頼む。亭主の仮釈保証金にカンパを、というので、女房と息子たちがお金を集めて回るんだ。さらに、みんなで牛の周りで踊ると、牛が蘇ったり……。
 だいたいそういうストーリーの即興演劇なんだよ。たぶん、ポルトガルによる植民時代に源を発するものなのだろうけど。植民者たちは、家畜を連れて海岸地帯から奥へ奥へと大陸を踏破していったから。

── エントレ・メイオスは、あなたのショーにも影響を及ぼしているね。

C もちろんだ。オープニング・チューンは「フォリア・ヂ・プリンシピ (王子様のフォリア)」だが、これは “フォリア・ヂ・ヘイス”をもじったものだ。僕は王冠や笏(しゃく)を持って歌う。みな「君は王様かい?」と訊くが、違うんだ。王は僕の父なんだ。アルバム・ジャケットに写っている人物、というのは僕自身だが、これはアラブ連合だとか、たぶん中世の日本なんかもそうだったと思うけど、王の命令で領地の外、都会での武者修行の旅に出た王子が、王の知恵と新しい知識の両方をものにして、故郷に凱旋しているところなんだ。この筋立てには、勇者の伝説というような側面もある。勇者は、例えば魔法の火だとか、至高の知識だとかを求めて故郷の村を旅立ち、様々な困難を乗り越え、目的のものを手に入れて村へ戻ってくるんだ。

── あなたは大都会でショーをやっているが、こうした背景を観客は理解しているのか。

C 彼らは直感的に理解しているようだ。もちろん、質問されれば答えているが。が、こうした大道芸なんかは、実はサンパウロなどでも頻繁に見られるんだ。特に、ノルデスチからの内陸移民の集まる露天市では。サンパウロではセー広場、リオではサンクリストヴアゥン広場が有名だ。こうした場所はノルデスチ移民のゲットーみたいになっているんだが、そこでは音楽が演奏され、テープが売られ、いろいろなことが行なわれている。

── ジャーナリズムを専攻していたジョアン・ペソア時代、学生運動家だったとか?

C 学校でショーをやっていた高校時代から、学生運動には関心を抱いていた。大学や集会で演奏するミュージシャンというのに対して、多少ロマンチックな考えを抱いていたから。その後、本当の運動家たちと接触するようになった。大学では、ハンガー・ストライキもやったよ。大学の食堂は教育省から補助を得ていたんだが、それを停止する案が出たんだ。もし停止されると、値段が一気に10倍くらいに跳ね上がってしまう。ストライキで、補助は一時的に元に戻ったが、その後は再びいつもの大騒ぎだ。
 が、その時にはすでに、僕は大学を卒業しようとしていた。音楽をやるために36年にサンパウロへ行ったんだ。僕は卒業前からジャーナリズムの分野で仕事を始めていたが、サンパウロへ行ったのは、音楽をやりたかったからだ。とはいえ、82年から92年までは、生活の糧はジャーナリズム分野で得ていた。パライーバ時代は、なんでも取材するリポーターを務めた。サンパウロでは、アブリル社(出版大手)の『エリ』というファッション誌で編集、校正をやった。この時代、ファッション誌で働いたことで、僕はヴィジュアル感覚を養ったんだ。それが今の視覚的な面の構築に役立っている。僕は、ビジュアル面を全体的な言語の一部として見るようになった。

── ショーの衣裳は誰が手がけている?

C 衣裳係がいる。バンド全員のぶんを作る。衣裳はどれも、ヘジオナル(地方的なもの)と都会的なものの混合ファッションだ。僕が着ているズボンは、ストリート・ファッションのズボンのような丈だし、底の分厚いブーツも、ラップみたいなヘアスタイルも、完全にアーバンなものだ。そんな要素がヘジオナルに自然に混じっている。僕自身が、そういう風だからだ。ステージでは、あの衣裳をつけたバンドが僕の王宮の構成員なわけだ。

── 2年前まで、ブラジルですら、誰もあなたの名を知らなかったが……。

C 91年の末にドイツへ演奏旅行へ行ったんだ。言葉もわからない人たちの間で、ツアーは非常に好評だった。でも、僕はブラジルではまだこれほどの評価を得てないことに気づき、帰国後ジャーナリズムの仕事を辞めた。もっとショーをやり始めたんだ。もちろん収入は減り、生活は不安定になった。が、94年になると、最初のアルバムをレコーディングできた。リリースできたのは翌年だったが。アルバムはもともとインディな録音で、それにヴェラスが関心を示したんだ。このアルバムの中の「ア・プリメイラ・ヴィスタ」が、サンパウロのMPBしかかけないFMで流れるようになり、評論筋の間で評判になりはじめた。「これはカエターノなのか?いや、違うようだが?」と。評論筋同様、歌手たちも関心を持ち始めた。ダニエラ・メルクリやマリア・ベターニア、エルバ・ハマーリョ、ジジ・ポッシ、MPB4なんかが、これまで僕の曲をレコーディングしてる。
 そんな風にして、シコ・セーザル現象は広まっていった。とくに95年9月から今年の2月まで、サンパウロの《ブレイン・ブレイン・クルービ》でやったショー以降、現象はほぼ完全に定着したといえる。その頃から、大手レコード会社のコンタクトを受けるようになった。が、どれも今一つ具体的な提案を持ってきていなかった。
 そこへ、マゾーラがきた。MZAというレーベルを持っているから、来ないかと言うんだ。僕は小さなレーベルには行きたくなかった。もっと大きく展開したかったんだ。が、マゾーラは、レーベルの流通を担当するのはポリグラムだと言う。そこで考えた。小さなレーベルに雇われることは、創作に独自性がもてるということだ。しかも、流通は大手が引き受けてくれる。これは願ってもない条件ではないだろうかと。僕は、カルト的な存在に留まりたくはなかった。エリート階級の出じゃないから、自分の音楽を成功させて、 なにかしら故郷に恩返しをしたいと思うんだ。故郷が僕に教えてくれたものに対して。

── あのライヴ・アルバムに参加した、レニーニとラニー・ゴールディンとの交流は?

C レニーニは13年前からの友人だ。 パライーバ州は彼の故郷ペルナンブーコ州の隣だ。一度、ジャグアリービ・イ・カルニという名のバンドを率いて、ペルナンブーコにショーをやりに行ったことがあった。 このバンドのメンバーがレニーニの友人で、その縁で彼が僕らのショーにゲスト参加してくれることになった。その頃から彼は、今と同じくらい、いいヴィオラゥンを弾いてたよ。
 一方、ラニーは、ブラジルのエレキギターの元祖のような人だ。彼とムタンチスのセルジオの2人だが。カエターノ、ジャルズ・マカレー、ガル・コスタの初期のアルバムで、トロピカリズモ的ギターを弾いているのが、このラニーだ。「イレーニ・ヒー」のギターもそうだ。その後、70年代の初めに彼はジャンキーになってしまい、この世から離れた生活を送っていた。でも僕にとってラニーは、昔レコード屋でバイトしていた時に見たレコードのクレジットにいつも名の出ていたギタリストだったから、とても印象に残っていた。それでアルバムに参加してもらったんだ。

── 2枚目の『クスクス・クラン』について。奇妙なタイトルの意味するところは? クスクスはサハラの郷土料理だが。

C それに、セルタゥン・ド・パライーバでもよく食べる料理だ。アルバムのコンセプトは、タイトルにも多少反映されている。『クスクス・クラン』は、アメリカの白人至上主義者の団体 “クー・クラックス・クラン” をもじったものだ。この運動は、差異の存在を認めない。僕が『クスクス・クラン』で表現したかったのは、差異への愛なんだ。
 ここには、いろいろなリズム、そして音楽のジャンルが収められている。 ショリーニョ、ファンク、レゲエ、フォリア・ヂ・ヘイス、ヘイザード、カリンボー、ソカに似ているシリンボー、ジュジュ・ミュージックなど、なんでもある。“世界の音楽” といっていいかもしれない。が、“ワールドミュージック” ではない。世界へ向けて語りかけ、他所の音楽をどんどん受け入れて一体化している地域から発信される音楽、ということだ。
 “クー・クラックス・クラン” が “疎外” を意味するのに対し、『クスクス・クラン』は “包含” を意味する。つまり、全く逆だ。また、この “包含” の概念は、いろいろなところのミュージシャンが参加していることでも強調されている。外国の人はNY在住の南ア人バキチ・クマロだけだが、ブラジル人でもナナ・ヴァスコンセロスはNYから来てるし、僕のバンドのメンバーだって、サックス奏者はイタリア人と日系人の混血だったり、スペイン系だったりする。

── アルバムにはアルセウ・ヴァレンサやエルバ・ハマーリョ、有名な人がたんなるコーラスで贅沢に参加している。実に様々な人があなたと演奏したり、あなたの曲を歌ったりしたがっているようだが。

C それは、今、MPBが実に興味深い時期にあるからだと思う。例えば、セプルトゥーラがインヂオたちやカルリーニョス・ブラウンとレコーディングしてる。 カルリーニョスはマリーザ・モンチと、マリーザはナンド・ヘイスと、ナンドはもちろんチタンスとレコーディングしてる。そして、インヂオたちはマルルイ・ミランダとレコーディングしてるし、マルルイはパウ・ブラジルとレコーディングしてるし、パウ・ブラジルは誰かと…… という具合に、音楽のゲットー化が終わろうとしているんだ。
 80年代は、言うならば音楽がゲットー化した時代だった。ファンクのゲットー、ロックのゲットー、フォホーのゲットー、アシェー・ミュージックのゲットーというように、それぞれが分離独立していたが、今は再び全部一緒になってきている。人々は、自発的に他の人々と出逢おうと動いているんだ。

── バンドのメンバーはみな若いようだが。

C ほとんどが、サンパウロのアンダーグラウンドの出身だ。何人かは92年から一緒にやっている。恋人でもあるバッキング・ヴォーカルのタタ・フェルナンデス、サックスのウーゴ・ホリ、パーカッションのシモーニ・ソウルだ。バンドの編成は、いろいろと試してみた。ヴィオラゥンを3本とか。ファースト・アルバムの後、大きい編成のバンドを組んでみたいと思った。で、それ以前から一緒にやっていた連中に新しいメンバーを加えていった。僕の、今では “クスクス・クラン” と呼んでいるバンドはジャズ・バンドでないにもかかわらず、各ミュージシャンが十分フィーチャーされている。アレンジャーは僕だが、各メンバーがそれぞれ個性を発揮しているんだ。バンドには活気がある。商業的な活気じゃない。ステージに上ると、自然にはしゃいでしまうんだ。それに、歌手のバックを務める官僚主義的な面がない。明るく、参加型のバンドなんだ。

── ステージでは、スクリーンに映像やテロップを流したりと、視覚的要素が強いようだが、映画から影響を受けているのか。

C 映画については大学時代に授業をとったが、ただ単位のためだけの勉強だった。それに、スクリーンの使用も割合としてはまだ低いものだ。最初に僕の両親のインタビューを流し、最後に僕の子供の頃の写真とかクレジットを流しているだけで。もっと使いたいと思っているが、僕自身には術がないので、誰か適任者がいればと探しているところだ。

── あなたのショーには、とても若いファンが押し寄せているそうだが。

C ファースト・アルバムのリリース以来、子供のファンが大勢来るようになり、自分でも驚いている。僕の音楽は、同世代の同じような教養レベルの、大学を出て、学生運動もかじり、なんていう人々向けだと思っていたからだ。《ブレイン・ブレイン・クルービ》で演奏する前、同じサンパウロの《バンブー・クルービ》というところで1ヵ月間ショーをやったが、この時の聴衆はみんな10代だった。14歳から20歳くらいまでの、中流や上流階級のハイソできれいな女の子や男の子がいっぱいきて、みんな僕の曲を知っているんだ。
 これには驚いてしまった。ステージに群がってきて、僕にキスしたり、手で触ったりする。僕は見てのとおり、シックでも二枚目でもなく、その正反対だ。なのに、サンパウロの若い子には、僕がノルデスチーノだとか黒人だとかっていう偏見がない。これには感動した。しかもファン層は、ますます若くなっているらしい。ブラジリアのファンクラブの会長は11歳の男の子だ。僕は “キロンボ(黒人逃亡奴隷)” めいたところがあって、悪戯好きな森の精霊みたいに見えたりするんだろうか……。音楽だけを聴いて、ファンになってくれる子供もいるわけだが。

── しかし、あなたの書く歌詞は子供には難しいのでは。例えば「ムリェール・エウ・セイ」など、「女の心を踏みつけにするにはどうしたらいいか/僕は知ってる/女だったことのある僕にはわかる」という歌詞だが、これが子供にわかるのか?

C だが、僕らにとって難しいことが、彼らには易しいということがある。たぶん、メロディとか歌い方とか、そんなことから子供たちは容易に慣れ親しんでいくんだ。もともとの意図とは別のところに慣れ親しんでいるのだとしても。

── 近未来の計画を教えてほしい。

C 今はブラジル・ツアー中。6月から9月までに50ステージくらいやっている。平均して週に3~4回といったところだ。ツアーでは、ブラジルの隅から隅まで回りたい。自分の音楽は、この国自体に根ざしていると思うからだ。国内をくまなく掃除して回ったら、6月には3枚目のアルバムをリリースできているだろう。7月からは海外ツアーに入るかもしれない。モントルーとかと、出演の交渉中だ。今もヨーロッパから誘いが来ているが、ブラジル・ツアーを中断したくないので、来年、3枚目がリリースされたら行きたい。


 最後に「シコ・セーザルをどう評するか」と質問すると、「自分は新しいジェネレーションの氷山の一角だと思う」と彼は答えた。その氷山には、ざっと挙げてもらっただけでも、ペルナンブーコ州のレニーニ、シコ・サイエンス、ゼロ・クアトロ、パライーバ州のペドロ・オズマール、パウロ・ホー、ジョニアリス、トトーニョ、マラニャゥン州のゼカ・バヘイロ、リタ・リベイロ、サルヴァドールのパキート、ジョタ・ヴェローゾ、ナタル出身のババウ、イエラルド、サンパウロのアンドレ・アブジャンブラ、マウリシオ・ペレイラ、クリチーバのカルロス・カレカ、リオのパウリーニョ・モスカ…… と、全国的な広がりを見せる若いアーティストの名が並ぶ。こうした人々を、シコはサンパウロにいながら、またツアーで訪れた先々で知ったという。
 この先ブラジル音楽を変化させていくべき新しい世代は、すでに着実に、そのネットワークの根を張り巡らせ始めているのだ。一体どんな花が咲くのか、ぜひ見届けたい。
(10月1日、サンパウロへの電話取材)

(月刊ラティーナ1996年11月号掲載)


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