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[2023.12]8月の南米ツアー報告~②ペルー編 『パンデミアを経た南米のウチナー社会』

文と写真●宮沢和史

 それ以前に単独で海外渡航を試みた日本人は存在したが、明治元年に150人の移民団が日本からハワイに渡ったことからアメリカ大陸における日系移民史は幕を開ける。沖縄の社会運動家當山久三と平良新助らが1899年に沖縄から移民団30名を送り出した目的地もやはりハワイだった。日本からの移民団はハワイに加えてアメリカ本土へも上陸していくが、勤勉に働き、農業において成功する者が台頭するにつれ、アメリカ社会から日系移民への差別意識が高まることとなり、日本人排斥運動へと発展し、1924年に『排日移民法』が可決されると北アメリカへの門戸は完全に閉ざされてしまう。それをきっかけに移民団の渡航先は南米へと移り変わり、すでに日本人が入植していた南米のペルー、ブラジルへ移民団の大波が押し寄せた。

 ペルーにおける初期移民は大農場に従事する場合が多かったが、1924年からの第二波の移民団は都市部に拠点を構え、都市近郊での農業や商売で生計を立てようと試みるものが多く、次第に成功を果たし日系コミュニティーが結束し始めると、またもやここでも差別の対象となり、移民の受け入れは断たれ、反日暴動が起こるに至る。第二次世界大戦において太平洋戦争が勃発すると連合国側についたペルー政府はペルー在住の日系人への抑圧を強め、日本に強制送還させられる者たちがいたり、ペルーに残る者たちは財産を没収され、学校などの公共施設が取り壊されたりもした。しかし、その後、日系ペルー人たちはペルーへの同化とぺルー社会への貢献に務め、徐々に信用と経済力を回復させ、1990年には日系人のフジモリ大統領を誕生させるまでに至るのだ。

 ペルーにおける日系人の人口は10万人とも言われており、この数は、ブラジル、アメリカ合衆国に次いで海外で3番目に多い。首都リマにはコンサートホールや資料館、日本庭園、裏千家の茶室、日本レストランなどが入った複合施設である『日秘文化会館・神内センターAPJ』という立派な施設が存在し、日系人、ペルー人、日本から来た日本人の文化交流の場として機能している。ペルーにおける日系人のうちのおよそ60%が沖縄系だというから日系社会の中では超マジョリティーであり、日系社会に彼らの存在は欠かすことのできない重要な位置にある。リマにあるペルー沖縄県人会館はリマのウチナー社会の拠り所、沖縄や他国から来たウチナーンチュとの交流の場として機能している。

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