見出し画像

[2023.7]【追悼】 ジェーン・バーキンを抱きしめて

文●向風三郎

 暗い日曜日。2023年7月16日朝、パリ6区アサス通りの自宅アパルトマンの中で食事の準備で来たヘルパーの女性が死亡した状態のジェーン・バーキンを発見した。二人の娘(シャルロット・ゲンズブールとルー・ドワイヨン)の翌日発表したコミュニケによると、16年という長い年月ジェーンは病気と闘っていたが、その数日間は再び歩けるようにもなっていて、キャンセル続きになっていたコンサート活動も再開に向けて気力が戻っていて、もう24時間看護はいらないと、ひとり暮らしを再開したその第一夜を越すことができずに亡くなったようだ。76歳だった。

 自己免疫疾患、免疫不全性心膜炎、加えてさまざまな合併症…2021年9月には脳梗塞発作で倒れ、生死の境を経験した。2000年代から入退院を繰り返している様子は、2018年と19年に上下巻で刊行されたジェーンの極私的日記(『マンキー・ダイアリーズ』と『ポスト・スクリプトム』)の中で私たちは知ったのだが、それがなければ、精力的にステージ活動(コンサートと演劇)と映画出演を続けている元気な姿しか知らずにいただろう。この2冊の日記本に関しては、ラティーナ誌2018年12月号と19年12月に紹介記事を載せたので、お持ちの方は参照されたし。私はこの日記の発表のあたりから(つまり自らの70歳頃から)ジェーンは自分の死を準備していたように思う。11歳の時からつけ始めた日記は2013年の長女ケイト・バリーの突然の死(自宅アパルトマンの窓から転落、事故死か自殺か誰にもわからない、享年46歳)で終わっている。娘の命を守れなかった母という呵責と悔恨で日記が書けなくなった。たぶん「自分史」はここで終わっていいんじゃないか、と思ったのだろう。その極私的「自分史」を彼女は衆目に晒すことにしたのだ。整然としたフランス語で(他者によって)書かれる「伝記本」ではなく、シンタックスエラーを恐れないバーキン流の(時にワイルドな)フランス語で、混沌とした自分史のありのままを上下巻800ページという分量で。たぶん多くの読者はセルジュ・ゲンズブール(1928 – 1991)と絡んだバーキン史を知りたくてこの本を手にしたのだろうが、バーキン史はゲンズブール史の一部ではない。私はゲンズブールと出会う前も生きていたし、ゲンズブールが死んだあとも生きている。この当たり前のことを世に知らせたかったのだ。

 ジェーン・マロリー・バーキンは1946年12月14日、ロンドンで生まれた。父デヴィッド・バーキン(1914 – 1991)は海軍将校であり、第二次大戦中フランスのレジスタンス軍を支援して何度も夜間英仏海峡を往復しブルターニュ海岸から自由軍兵士たちを救出した。ジェーンはこの最愛の父が軍労を立てかつその美しさを愛したブルターニュのフィニステール地方のラニリスに1990年代に屋敷を購入し、終生の地にするつもりでいた。ラニリスの家は2006年の彼女の映画監督としての第二作めの長編映画『ボックス(Boxes)』の撮影地であった。

 母は女優のジュディ・キャンベル(1916 – 2004)、大戦中ドイツ軍の空爆のさなかにラジオ放送で愛国歌を歌い続けたという武勇伝あり。正義感とユーモアにあふれるブルジョワ家庭。兄アンドリュー(未来の映像作家)、妹リンダ(未来の彫刻家)、笑いとアクションが絶えない家族の記録は早くから映像として多く残されていて、その断片の数々は彼女のドキュメンタリーやヴィデオクリップの一部として公開されていて、ファンたちには親しいものになっている。ジェーンが初めて全曲の作詞をしたアルバム『冬の子供たち』(2008年)は、子供の頃の一家の休暇地ワイト島での光景がフラッシュバックされていて、ジャケットは祖母が撮ったらしい12歳ごろの聞かん坊の男の子のようなジェーンの立ち姿だった。

 ワイト島は三人兄妹のワンダーランドだったが、ジェーンにとっては押し込められた寄宿学校の地獄でもあった。その身に降りかかる “不幸” を吐き出すために少女はぬいぐるみの「マンキー」を相手に日記を書き始めた。不条理を呪い、自由気ままに生きたい子供、その心根は一生変わらない。

 1965年、スウィンギング・ロンドンを象徴する青春コメディ映画『ナック(The Knack…and how to get it)』(リチャード・レスター監督、同年カンヌ映画祭パルム・ドール賞)で映画デビュー。その映画の音楽を担当したのがジョン・バリー(1933 - 2011)で、子持ち離婚歴ありの当時30歳のバリーと18歳のジェーンは65年10月に結婚する。世間的には無茶に見えるこの結婚にも両親と家族は寛容であった。また1967年ミケランジェロ・アントニオーニ映画『欲望(Blow up)』(同年カンヌ映画祭パルム・ドール賞)で、全裸シーンでスキャンダルを巻き起こした時も、両親兄妹は全面的に擁護する立場を取った。このバーキン家の結束が一生ジェーンを精神的に支えることになる。その関係は2年と続かなかったが第一子ケイト・バリーは生まれた。離婚はバリーの不貞と分別知らずの娘の若気の至りが原因のように見られたけれど、ジェーンが真剣に熱愛していたこと、その熱愛に答えられないバリーという実相は、1990年代に戯曲化と映画化(バーキン映画監督デビュー長編作)されたバーキン作の対話劇『眠っていたの?ごめんなさい(Oh! pardon, tu dormais) 』(2020年、バーキン詞&エチエンヌ・ダオ作曲/プロデュースのジェーン最後のオリジナルアルバム “Oh! pardon, tu dormais” でも再現される)で明らかにされる。売れっ子作曲家の仕事に疲労困憊して先に寝ている男、パッションのまま求愛するしかない女、この愛の生殺し劇に耐えることなく、意を決して乳児ケイトを連れて出ていくジェーン。

 1968年、女優として新たなチャンスを求めて海峡を渡りパリへ。激動の5月を生きたパリには新しい風が吹いていたのだが、それにも増してこの細身のミニスカート娘はパリで新しかったのだ。「私のような娘はロンドンにはゴマンといたの、でも幸運にも私が最初にパリに来たのよ」。そこには運命の男が待っていた。ほとんどフランス語がしゃべれない状態でキャスティング応募したピエール・グランブラ監督映画『スローガン(Slogan)』(1969年上映)の主演に選ばれ、その相手の主演男優の名はセルジュ・ゲンズブール。この時の両者の年齢は21歳と40歳。人が言うようにこれは「世紀のカップル」であろうし、ジェーンの生涯において最も重要な関係であったことには一片の疑いもない。この関係をファンたちやメディアは “永遠” のように持ち上げるのだが、実際は12年間しか続いていない。しかしなんと凝縮した12年間であったことか。

 1969年、シングル盤「ジュ・テーム、モワ・ノン・プリュ」の地球規模でのスキャンダルと地球規模でのメガヒット。ローマ法王庁を激怒させ、多くの国で放送禁止(あるいは制限)の憂き目に遭いながら。(この伝説についてはその50年後にラティーナ誌2019年4月号に「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュの50年」という記事で詳説したので、参照できる方はぜひ)― 故国イギリスで、それまでフランス人が誰も成し遂げたことのなかった英国チャート1位に輝くが、故国の “良俗人” たちは、この同国人娘を国の恥のように罵った。それに対してバーキン両親と兄妹は果敢に擁護のエールを送るのだった。

 それ以来、露出度の高い衣装でテレビに出、映画では裸身を晒すことの多くなったこの英国娘は、フランスではセックスシンボルとして人気を急上昇させていく。そのパブリック・イメージは老獪な鬼才に仕込まれ操られるセクシー人形に近かった。ゲンズブールによって “創られた” バーキン。ゲンズブールが公然とジェーンの裸身を露出させたり、バストを掴んだりする時、それは性的挑発よりも女性隷属ではないか、と思った。その役を嬉々として演じるジェーン。― ところが、この “人形” イメージもジェーンは後年全面的に否定するようになる。この “性的” 表現はゲンズブールだけのイニシアティヴではないのだ、ジェーンにも旺盛な性的好奇心と挑発心があり、この大胆さはジェーンが優っていたこともあるのだ、と。ゆえにこのカップルは性的冒険心を共有し、それを実行して享楽する恋愛関係だったのだ、と。ゲンズブール死後、その表側のイメージと裏腹に非常にシャイで怖がりで慎み深かったということが知られるようになった。その同居時代に “性” のことだけでなくさまざまなことでジェーンの方が主導権を持っていた部分があると彼女は言う。

 イメージのギャップということでは、ゲンズブール死後にジェーンが公開した数々のプライベート映像/画像の中で、シャルロット誕生後の四人家族(セルジュ、ジェーン、ケイト、シャルロット)のノルマンディーでのヴァカンスの光景で見られる笑顔にあふれたゲンズブールの良きパパぶり。家族の幸福ここに極まれりという態のど真ん中にあるセルジュ。退廃の奇才という “よそむき” の顔からは想像できない真逆の明るさに、私たちはおおいに当惑したものだ。

 たしかにゲンズブール(とりわけその風貌)を変えてしまったのはジェーンだった。暗く薄汚くドリアン・グレイを気取るデカダンスのダンディ然としていた中年男を、三日ヒゲ、白スニーカー、ジーンパンツ、綿シャツの垢抜けルックに “改造”。このスタイルはゲンズブールが1991年に亡くなるまで変えることはなかった。

 そして私たちはどれほどジェーンの “モード” に魅了されたことか。シクスティーズのアイメイクとミニスカートのベビー・ドールだった頃よりも、メイクを薄くし、レペートのバレリーナ、コンバースのスニーカー、プチ・バトーのTシャツ、メンズの白シャツ、メンズのヴェスト、メンズのダーツパンツ、籐のバスケット、トレンチコート...どんどんシンプルでオーガニックな素材で身をまとうようになっていったジェーンモードに、私たちの世代はみんな模倣したものだ。

 ゲンズブール期にその最高傑作アルバム『メロディー・ネルソン』(1971年)、娘シャルロット・ゲンズブール(1971年生)、その最初の監督映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(1976年、興行的には大失敗だったがフランソワ・トリュフォーが大称賛した)その他もろもろをゲンズブールに “授けた” ジェーン・バーキンだったが、その最上の愛とクリエーションの日々にも終わりは来る。アルコールにまみれ、自己破壊遊戯を繰り返し、暴力も制御できなくなった男に背を向け、1980年9月ジェーンはパリ7区ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸から出ていく。

 脱ゲンズブール期、それはジェーン・バーキンがアーチストとして大きく “本物” として飛躍した時期だった。商業映画のセクシー喜劇女優を卒業し、新しい伴侶となったジャック・ドワイヨン(1944 - )を始め、いわゆる作家主義の映画監督たち(ジャック・リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、アニェス・ヴァルダ、アラン・レネ、ベルトラン・タヴェルニエ...)の作品に登場するようになった。女優としてそれまで自分は単なる “かわいい女” でしかなかった。演技も下手、その上なによりもまずいつまでも抜けない “英語訛り” というハンディキャップがあった(この点、同国出身のシャーロット・ランプリングとクリスティン・スコット・トーマスは見事に克服している)。その劣等意識・苦手意識を根本から覆したのが、1985年、20世紀フランス演劇界を代表する鬼才演出家パトリス・シェロー(1944 – 2013)によって『贋の侍女』(18世紀劇作家マリヴォー作)の主役をとったことだった。硬派の古典劇での演劇デビュー、これによって得た自信は、1995年故国ロンドン・ナショナルシアターでエウリピデス作ギリシャ悲劇『トロイアの女』を演じるまでに演劇女優バーキンを急伸させるのだった。

 脱ゲンズブール期、それは芸能誌やゴシップ誌の上でしか顔を出していなかったセクシータレントだった女性が、ル・モンド紙の文化欄やテレラマ誌やカイエ・ド・シネマ誌といった硬派のメディアに登場するようになり、ジェーン・バーキンという名前がインテリ文化人たちの口にのぼるようになった時期だった。

 脱ゲンズブール期、それは音楽アーチストとしても “本物” になっていった時期だった。口パクのテレビ歌手から、ライヴコンサートで表現し生の感動を与えられる歌唱パフォーマーへ。そのために最良の楽曲がジェーンに贈られたのだ。贈り主の名はセルジュ・ゲンズブール。1983年、慟哭の破局から3年、以前のように共同で音楽を作ることなどありえないと言っていたジェーンに、ゲンズブールは “Je te le dois.” (きみに返さなければならない借りなんだ)と、11曲送りつけてきた。
 アルバム『バビロンの妖精』(1983年)は歌手バーキン初のゴールドディスクとなり、後世にリベラシオン紙ほか多くのプレスからバーキンの最も美しいアルバムと評価されることになる。録音スタジオのブースの中で、自分で書いた譜面でありえない超高音部で苦しそうに歌うジェーンの声を聞きながら、ゲンズブールは涙が止められないのだった。そしてこの男は再犯を繰り返し、1987年『ロスト・ソング』、1990年『いつわりの愛』ともう2枚のジェーンのアルバムを完成させる。別離の苦しみ、悔恨、無情な愛... 抒情という点においては全ゲンズブール作品を見てもこの3枚のアルバムを超えるものはない、とジェーンは言う。この3枚がバーキンを本物の抒情の歌い手に昇華させたのだ。脱ゲンズブール期はアーチスティックな意味においては強烈にゲンズブール回帰していたのだ。

 1991年3月2日、セルジュ・ゲンズブールが62歳で亡くなり、その葬儀の日3月7日に父デヴィッド・バーキンが77歳で亡くなった。彼女の人生で最も重要だった男性2人がほぼ同時に。

 その頃から私たちはさまざまな社会運動のアクティヴな活動家というジェーン・バーキンの別の顔をひんぱんに見るようになっている。SOSラシスム、アムネスティー・インターナショナル、コリューシュの「心のレストラン」、エイズ・チャリティー、難民支援、ホームレス救済、極右勢力伸長の阻止...菜っぱ服で街頭に出て、プラカード掲げて行進したり、メガフォンマイクを持ってシュプレヒコールする姿もよくTVニュースに映った。テレビに映るのは著名人だからなのだが、その著名人の言論チャンスを最大限利用して、ジェーンはその弱者救済や不正義糾弾の主張を理路整然と訴えた。ときどき顔がくしゃくしゃになった。それが私たちにはとても説得力があり、この人は正しいと思わせるものがあった。
 その行動は国際事情にも及び、アフガニスタン、クルド、チェチェン、スーダン、ミャンマー(アウンサンスーチー夫人)などにコミットしていて、旧ユーゴスラヴィア内戦当時の1995年、救援物資を届けるためにセルビア軍に包囲されたボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォまで、民間タクシー、トラック、戦車などを乗り継いで赴いている。そのサラエヴォ行きに同行した“戦友”が作家のオリヴィエ・ロラン(1947 - )で、ジャック・ドワイヨンの後、おそらくジェーン・バーキンの最後の恋人となった人物である。

 世に不幸が起こったのを知ればいてもたってもいられなくなる性分は、2011年3月の東日本大震災の時にもジェーンを奮い立たせ、とるものもとりあえず最初のフライトで東京に降り立った。そこから被災者たちを慰問したり、街頭で募金活動したり、即興でコンサートを開いたり……。そして中島ノブユキ(後年バーキンと交響楽団の共演でゲンズブールを歌うツアー「ゲンズブール・ル・サンフォニック」の編曲者となる)をはじめとした日本のミュージシャンたちを従えて日本と世界を3年かけて巡演した “Jane Birkin sings Serge Gainsbourg VIA JAPAN” ツアーで多額の義援金を集め、復興に貢献したこと、これは日本の人たち忘れないで。

 この大震災の時、ジェーンに「日本に行かなければ!」と言ったのは娘の写真家ケイト・バリーだった。自らも被災地で写真を撮り、母の義援プロジェクトに参加していたケイトは、2013年12月11日、引っ越ししたてのパリの自宅アパルトマンの窓から転落して死んだ。事故死とも自殺とも言われるが真相は誰にもわからない。三人の娘の中で最も壊れやすい繊細さを持ち、問題(薬物禍)もあったケイト、ドラッグから抜け出し自ら薬禍救済活動もしていて、写真家としても “フクシマ” など注目される仕事が続く中の突然の死。11歳から書き続けてきたジェーンの日記はここで終わる。「私の母としての自信はすべて失われ、私にはもうこの霧の中で自分を表現する権利などなくなってしまった」(…)「私の足下に敷かれていた絨毯が引き剥がされ、私は転び、病気になった。それもいいじゃないか...」(日記あとがき)。

 「病気になった、それもいいじゃないか」(前掲書)、「病気をむしろ私は歓迎したわ」(フランスTVインタヴュー)、「集中治療なんかいやと言うほど知ってるわ、でも病院という場所は私の大のお気に入りになったの」(パリジアン紙)...じっと動かずにいて病気の進行を待つのはいやで、仕事をずっと続けていた。日記本の出版、ゲンズブール楽曲の交響楽団編曲での録音とツアー、40年来の友人エチエンヌ・ダオが長年温めていたバーキン作戯曲『眠っていたの?ごめんなさい(Oh! pardon, tu dormais) 』をもとにした最後のオリジナルアルバム(全作詞ジェーン・バーキン)の制作、娘シャルロットが撮る初めての長編ドキュメンタリー映画『ジェーンとシャルロット(Jane par Charlotte)』(2023年8月4日より日本公開)への出演など。だがときどき入る病院の治療室や病室は、彼女にはいやな場所ではなかった。不治を知っている者には落ち着いた準備の場所でもある。回想の場所でもある。その場所でジェーンはひとりこう言うのだ:私は生きた。不平はないわ。私のイギリス的なところがこう言わせるのよ “Never complain !” (
註:英国王家の家訓のように言われている表現 “Never explain, never complain説明する勿れ、不平を垂れる勿れ”)。

 イギリス的なところはたくさん残っている。その訛りや妙なバーキン仏語表現だけではない。ところがこのイギリス娘は50年後にフランス史の一部になった。その歌、その映画シーン、そのファッション、そのスキャンダル、その恋愛、その行動、その泣き笑いは、私たちが共有するフランス現代史の記憶となった。ここの人々はBirkinを「バーキン」とは呼ばない。「ビルキン」なのだ。「ジェーン・ビルキン」、ソー・ブリティッシュなフランセーズ(フランス女性)、ビルキンなのだ。
 2021年2月12日、フランスで最も権威ある音楽賞であるヴィクトワール賞は、ジェーン・バーキンにそのすべての音楽業績に対してヴィクトワール栄誉賞を授けた。受賞のあいさつの最後にジェーンはこう言った。

「そして今、おそらく今がその時なのです、私がみなさんに、フランス人のみなさんに、こう言える時なのです。私を養女として迎えてくれてありがとう、50年前にこの地に着いた時から今夜のこの感動の時まで、私を聴いてくれ、可愛がってくれ、ついてきてくれてありがとうございます。」

 50年の愛、フランスとジェーン、ビルキンとフランス、その関係は相思相愛、Je t’aime, moi aussi(ジュテーム 、モワ・オッシ)に至って幸福に終わる。

 幸福は逃げて行ってしまうんじゃないかと恐れることで幸福を逃す(Fuir le bonheur de peur qu’il ne se sauve)― おそらくゲンズブールがジェーンに与えた楽曲の中で最も美しい歌(1983年アルバム『バビロンの妖精』A面2曲め)。暗い日曜日、2023年7月16日、私のつけっぱなしのラジオは悲しいニュースを告げたあと、その1日に何度かこの曲をオンエアした。歌は「オーバー・ザ・レインボウのはるか上には輝く太陽があるんだって自分に言い聞かせて、幸福を逃してしまう」と続く。手に入れかけては失ってしまう、また手に入れかけてはまた失ってしまう、それは幸福なのか? イギリスのブルジョワ家庭に生まれた娘は、走りながらいろんなものを追って、変容、変身、変貌を重ねてきた人生を全うした。何度も幸福を逃すこと、病気になること、それもいいじゃないか、Never complain ! と私はジェーンに教えられる。今宵、私はオーバー・ザ・レインボウのジェーンを抱きしめようとするが、それは “moi non plus” と囁いて逃げ去っていく。

2023年7月22日、
フランス、ブーローニュ・ビヤンクール、
向風三郎

(ラティーナ2023年7月)


シャルロット・ゲンズブール第一回長編監督作品『ジェーンとシャルロット(Jane par Charlotte)』が、8月4日(金)より公開されます。

© 2021 NOLITA CINEMA – DEADLY VALENTINE PUBLISHING / ReallyLikeFilms
8月4日(金)より、ヒューマントラストシネマ有楽町 / 渋谷シネクイント 他にて全国縦断ロードショー


ここから先は

0字

このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…