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[2024.8]【タンゴ界隈そぞろ歩き⑯】タンゴはピアソラと古典タンゴでできている…のか??

文●吉村 俊司 Texto por Shunji Yoshimura

個人的に最近時々気になっているのが、ライブやコンサートなどで演奏者が「今日はピアソラだけでなく古典タンゴも演奏しますよ!」などと言うケースがあること。あるいはリスナーの方で「ピアソラばかりじゃなく古典タンゴも聴きますよ」とか。話し手の認識では、タンゴは《ピアソラ(の現代タンゴ)》と《古典タンゴ》に二分されるのだろう。

いえ、気持ちはわかるのですよ。確かにピアソラ以前と以後でタンゴは変わった。でもちょっと待っていただきたい。理由は2つ。まず、研究者やディープな愛好家が言う古典タンゴの範囲と上記の認識には大きなずれがあるということ。そしてもう一つ(こっちが重要)、古典タンゴがどの範囲を示すのかはこの際置いておいたとしても、ピアソラ以前にもタンゴは様々な変遷を経ており、それを無視して全部をひとかたまりで認識してしまうとタンゴを聴く楽しみが半減してしまうと思うのだ。

そんなわけで今回は、タンゴの始まりからピアソラが本格的に新しいタンゴを始めるまでの期間について、その歴史を簡単にまとめてみたいと思う。約80年の時の流れをたどるそぞろ歩きにどうかお付き合いのほど。

タンゴの黎明期~グアルディア・ビエハ

ブエノスアイレスの場末のいかがわしい酒場で生まれた踊りの音楽が《タンゴ》と呼ばれるようにになったのは大体1870~80年頃のことらしい。当初はギター、フルート、バイオリンなどが演奏の中心で、他愛のない(しばしば卑猥な)歌詞が歌われることもあった。長調の明るく軽快なメロディを持ち、リズムは2拍子で、ターンタ・タンタンという《ハバネラ》のパターン (ビゼーのオペラ『カルメン』のアリアのリズムを思い出してください)。《ミロンガ》とも呼ばれたが、やがてタンゴという名前に統一されていく。その後やや高級なサロンでピアノによってタンゴが演奏されるようになり、少しずつタンゴは市民権を得始める。当時作られて今でも聞かれる曲としては「エル・エントレリアーノ」(ロセンド・メンディサバル作曲)、「ドン・フアン」(エルネスト・ポンシオ作曲)、「エル・チョクロ」(アンヘル・ビジョルド作曲)、「ラ・モローチャ」(エンリケ・サボリード作曲、アンヘル・ビジョルド作詞) などがある。いずれも1890年代から1900年代の作品。

こちらはビセンテ・アバドという人物による《Estudiantina "Centenario" (エストゥディアンティーナ「センテナリオ」、センテナリオは1910年に行われたアルゼンチンの革命百年祭を指す)》というグループが1910年に録音した「エル・エントレリアーノ」 (クリックすると別画面で再生される)。バンドゥリアというマンドリンに似た楽器とギターという編成なので上述の楽器編成とは異なるが、音楽性は紛れもなくこの当時のものである。

1910年代にはタンゴの演奏される場が市の中心のカフェやキャバレーへと移って行く。ドイツで生まれ19世紀後半にアルゼンチンに伝わった楽器であるバンドネオンがタンゴに定着したのもこの時期。ギターやフルートは徐々にタンゴの楽団には用いられなくなり、バンドネオン、ピアノ、バイオリン、少し遅れてコントラバスがタンゴの標準的な楽器となる。リズムはハバネラの土台を残しつつ4拍子に変わろうとしており、明るくリズミックなメロディには陰影が加わった。多くは器楽曲で歌詞はない(後年になって歌詞がつけられた曲も少なくないが)。当時活躍したのはバンドネオン奏者のフアン・マグリオ、ヘナロ・エスポシト、エドゥアルド・アローラス、ビセンテ・グレコ、アウグスト・ベルト、バイオリン奏者フランシスコ・カナロ、ピアニストのロベルト・フィルポ、アグスティン・バルディ、フアン・カルロス・コビアンといった人々。

この時期に作られた曲で最も有名なのがかの「ラ・クンパルシータ」である。ウルグアイの学生、ヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲスが1914~16年頃に作った曲で、ロベルト・フィルポが手を入れて曲としての体裁を整えたと言われている。こちらはそのフィルポの録音。4つに刻まれるリズムとハバネラのパターンが混在しているのを聴くことができる。

他にも上に挙げたタンゴ人たちがたくさんの作品を残している。カナロ「エル・ポジート」「エル・チャムージョ」、バルディ「ガジョ・シエゴ」「CTV」「ケ・ノーチェ (なんという夜)」、グレコ「ロドリゲス・ペニャ」「オホス・ネグロス (黒い瞳)」、アローラス「デレーチョ・ビエホ」「ラ・ギタリータ」「エル・マルネ」、フィルポ「夜明け」「アルマ・デ・ボエミオ (ボヘミアンの魂)」、等々…。

この時期のタンゴは《グアルディア・ビエハ》とも呼ばれる。『タンゴ100年史 (上・下)』(高場将美・著、中南米音楽)の説明を引用する。

グアルディア・ビエハを直訳すると、「古い守衛」―― 伝統をかたく守るもののことだ。グアルディア・ビエハの曲とかグアルディア・ビエハの音楽家というと、古い形で、くずれていない作品や人のことで、その年代は厳密には1910年代までの古典タンゴの時代に属する。(もう少し拡大して、後のタンゴでも昔の形のものをグアルディア・ビエハと呼ぶ人もいる)

『タンゴ100年史』(高場将美) - 第3章 グアルディア・ビエハ 1911~17年

英語のold guard (守旧派、保守派) と同様の概念だろうか。高場は章のタイトルにこの語を据え1911~17年と付記しているが、終わりを1925年ごろとする考え方もある (1917年と25年の意味は後述)。また1910年以前の黎明期も含めてグアルディア・ビエハと呼ぶ人もいる。いずれにしてもここまでの範囲が、研究者やディープな愛好家の言うところの《古典タンゴ》である。

ガルデルとデ・カロ

古典タンゴの時代の終わりとして高場が区切った1917年。この年、元々民謡歌手だったカルロス・ガルデルが「わが悲しみの夜」(作曲:サムエル・カストリオータ、作詞:パスクアル・コントゥルシ) をレコーディングする。

それまでのタンゴにはなかった物語性を持った内容の歌は評判を呼び、翌年には劇にも使われて大ヒットとなる。他愛もない歌詞の歌か器楽曲しかなかったタンゴの世界に本格的な歌が登場したのが、つまり歌のタンゴが生まれたのがこの年である。ガルデルはその後映画にも進出し、アルゼンチンにとどまらない汎スペイン語圏の大スターとなる。

バイオリン奏者のフリオ・デ・カロがフアン・カルロス・コビアンから引き継ぐ形で自らの楽団を持ったのが1924年。バンドネオン×2、バイオリン×2、ピアノ、コントラバスの六重奏で、本格的に編曲を施した楽曲を演奏するこの楽団はタンゴに新たな局面をもたらしたと言えるだろう。これが上述の2つ目の区切りにあたる。これ以降の時代はグアルディア・ビエハと対比して《グアルディア・ヌエバ (guardia nueva)》とも呼ばれ、デ・カロは《現代タンゴの祖》と言われる。作曲面でもデ・カロは「マーラ・フンタ (悪い仲間)」「ボエド」「ブエン・アミーゴ (良き友)」「ラ・ラジュエラ」など数多くの作品を残している。

1920年代はまた、上述のカナロ、フィルポやオスバルド・フレセド、フランシスコ・ロムートといったアーティストの楽団が充実した演奏活動を行った時期でもあった。電気録音が始まったのは1920年代の後半で、現在我々がCDやサブスク等で耳にするSP復刻音源も多くがこの時期以降のものである。

ミロンガの復興とダリエンソの登場

1930年代にはタンゴは一時人気の下降がみられる。大恐慌に端を発する不況、トーキー映画がもたらす海外の先端の音楽の流行などがその原因。タンゴ界は楽団の人数を増やしたり管楽器を導入したりして対抗するが、なかなかうまく行かない。そんな状況を打破したのは《古典タンゴ》への回帰であった。そう、この時代にはもう古典タンゴは回顧され復興される存在だったのだ。一つには、リズムの名前としては消えてしまっていた《ミロンガ》の復興である。セバスティアン・ピアナ作曲、オメロ・マンシ作詞で新しいミロンガが作られた。これはその一曲「ミロンガ・センチメンタル」でフランシスコ・カナロ楽団の演奏。トランペットの音も聞こえるのは上述の管楽器導入の流れでもある。

1935年にはカルロス・ガルデルが飛行機事故で世を去り多くの人々がショックに打ちひしがれるが、そんなタンゴ界の強烈なカンフル剤となったのがフアン・ダリエンソの登場。どんどん遅くなっていたタンゴのテンポを古典タンゴ時代のように大幅に速くし、強烈にリズムを強調したスタイルを打ち出した。レパートリーも古典タンゴの時代に作られたものが多く、ダンスにぴったりということで絶大な人気を博した。

巨匠ロベルト・フィルポが古典回帰の四重奏団を作ったものこの頃。楽器編成はピアノ、バンドネオン、バイオリン×2で、古典タンゴの時代にこんなにテクニックのあるバンドネオン奏者はいなかったはずだが、リズムやテンポ、そして何よりマエストロのピアノは古典タンゴの時代のもの。

タンゴの黄金時代

ちょっと長くなりすぎてしまった。先を急ごう。ダリエンソの人気などにより息を吹き返したタンゴは、1940年代には黄金時代を迎える。第二次世界大戦に参戦しなかったアルゼンチンは食料輸出で経済的に潤ったこと、1946年に大統領に就任したフアン・ドミンゴ・ペロンがタンゴを保護したことも影響した。アニバル・トロイロ、ミゲル・カロ―、カルロス・ディ・サルリ、オスバルド・プグリエーセ、アンヘル・ダゴスティーノ、リカルド・タントゥーリ等々、多くの楽団が活躍する。ダリエンソもピアノにフルビオ・サラマンカを迎えて絶好調。たくさんの歌のタンゴがヒットする。タンゴを踊る方ならこの時代のタンゴに最も馴染みがあるのではないか。

黄金時代は1950年代前半まで続き、その間には新しい感覚を持った楽団も多く生まれる。例えばアルフレド・ゴビ、フランチーニ=ポンティエル、オスマル・マデルナ、オラシオ・サルガン。

しかしながら1950年代に入る頃から徐々にアルゼンチン経済は悪化、海外からロックンロールなどの音楽が流入したこと、ペロン大統領が1955年に失脚してタンゴ保護政策がなくなったことなどが作用し、黄金時代は終焉を迎える。

そしてタンゴの革命

アストル・ピアソラはアニバル・トロイロ楽団で腕を磨いた後、歌手フィオレンティーノの伴奏楽団の指揮を経て1946年に自身の楽団を結成する。その後一時はクラシックの作曲家を志し、奨学金を得て1954年にパリに留学。そこで自身のアイデンティティを再確認し、1955年に帰国して2つの楽団で活動を始める。タンゴ黄金時代の終焉と入れ替わりのタンゴ革命である。そのひとつ、《ブエノスアイレス八重奏団》はタンゴにエレキギターを導入し、クラシックやジャズの影響も取り入れた演奏を行った。

もうひとつの《弦楽オーケストラ》では、大編成の弦セクションとピアノにバンドネオンという編成で様々な新しい試みを行った。

いずれも極めて斬新なアプローチであり、当時のブエノスアイレスの人々の多くはこれをタンゴと受け入れることに抵抗があった。一方で現在の我々の耳で聴くと、そこには紛れもないタンゴのリズムがあり、この直前のサルガンやゴビのタンゴとの間にそれほど大きな隔たりを感じないのではないかと思う。フリオ・デ・カロに端を発する現代タンゴの流れの上にこれらの音楽はつながっているのである。

以後、ピアソラの音楽はさらに変化し、またピアソラ以外にも新しいタンゴを創ろうとするさまざまな動きが生じるが、それについてはまた別の機会に取り上げることとしたい。

ここまでの流れから見えること

《古典タンゴ》の位置づけを確認するために、ピアソラがタンゴに革命を起こすまでのタンゴの変遷をたどってみた。実際のところ古典タンゴという言葉そのものの定義にはそれほどこだわるつもりはないのだが、タンゴをピアソラと古典に二分する考え方はなかなか乱暴なものだということは実感していただけたのではないかと思う。逆に、ぼんやりとでもこの流れのイメージがつかめていれば、時代ごとのタンゴのスタイルの違いなどを楽しむことができるだろう。また、今回は立ち入れなかったこの後の歴史において、ピアソラの名前を現代タンゴの代名詞として使ってしまうことの危険性も嗅ぎ取っていただければなお嬉しい。

文中引用した『タンゴ100年史 (上・下)』(高場将美・著、中南米音楽) は、1981~82年に出版された本なので扱う歴史も当然1980年までの100年だが、タンゴの歴史を知る上での絶対的名著である。Kindle電子版がカラ・プランニングから出ているのでタンゴに興味のある方はぜひ読んでみていただきたい。

(ラティーナ2024年8月)



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