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[2024.4]坂本龍一に寄せて〜 『TIME』『Ryuichi Sakamoto|Opus』

文●あくつ 滋夫しげお(映画・音楽ライター)

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 2023年3月28日に坂本龍一が71歳で亡くなってから、もう一年が経った。その間にも、例えば映画音楽を手掛けた最後の作品『怪物』の公開、人生について生前に語った自伝本「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の刊行、音楽監督を務めた東北ユースオーケストラに書き下ろした交響曲「いま時間が傾いて」を含むアルバム『The Best of Tohoku Youth Orchestra 2013~2023』の発売など、本人が直接関わった多くの作品に触れることが出来た。またテレビ/ラジオの番組や雑誌/書籍による数々の追悼特集、生涯興味を持ち続け関わってきた、メディアアートの分野での功績を讃える展覧会「坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア」の開催、さらには観に行ったライブやコンサートのアンコールで、坂本作品を演奏して悼む海外を含む多くの音楽家の姿を目にして、改めてその影響力の大きさを再確認した。そして多くの人々がそれぞれ自分のスピードで、偉大な芸術家の死という重い事実を、ゆっくりと受け入れる喪の作業を今もしているのだと感じた。

RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI 『TIME』 
東京公演は終了。ロームシアター京都 メインホールにて2024年4月27日(土) 28日(日)上演。
撮影:井上嘉和

 そんな中で奇しくも日本初演が命日と重なったのが(公演日程は数年前には確定していただろう)、坂本が最後に手掛けた舞台作品『TIME』だ。本作は坂本がコンセプトと音楽を、ダムタイプ(Dumb Type)の高谷史郎がコンセプトとヴィジュアル・デザインを担当した、マルチメディアを取り入れたパフォーマンス作品だ。

 ダムタイプはバブル経済真っ盛りの80年代後半から、テクノロジーを駆使して美術装置、映像、音楽、光、音などを融合。エッヂの効いたデジタルなマルチメディアの舞台に生身のパフォーマーを配し、過剰な情報化社会や物質主義、ジェンダー、セクシュアリティ、人種差別、生と死など、現代社会が抱える様々な問題を見据えながら、テクノロジーと身体の新たな関係性を鋭い批評性を持って提示したパフォーマンス・グループだ。当時の日本には、同じようなマルチメディアを駆使したグループがいくつも生まれていたが、ダムタイプはその中でも抜きん出た完成度で他を圧倒する存在だった。

 坂本は彼らの舞台を90年代半ばに観て衝撃を受け、自身初のオペラ作品『LIFE』(99)の映像監督に高谷を招き入れる。それ以来二人はいくつかのコラボレート作品を残しているが、2022年にはダムタイプが坂本を新たなメンバーに迎え、ヴェネチア・ビエンナーレの日本館展示を創り上げた。坂本と高谷は、自然や宇宙やこの世界と人間との関係性に、芸術とテクノロジーがどのように影響し変化をもたらすかを常に考えており、それが二人の作品を創る上でのテーマの核になっているという。

 本作は舞台の中央に水を張り背景にはスクリーンを設置、そこで舞踊家の田中泯と石原淋、笙奏者の宮田まゆみがパフォーマンスを行う。具体的な物語はないが夏目漱石「夢十夜」と能の演目「邯郸かんたん」という夢に関する挿話の一節を朗読した田中泯の声が流れ(荘子「胡蝶の夢」も映像として提示される)、高谷が創り出した幽玄な映像と相俟って現出した夢の世界は、本作に通底するトーンとして舞台全体を包み込む。そんな夢の世界では時間が自由に伸縮し、時間芸術である音楽や映像、パフォーマンスが時間に抗い解放されたように思える。

RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI 『TIME』 
東京公演は終了。ロームシアター京都 メインホールにて2024年4月27日(土) 28日(日)上演。
撮影:井上嘉和

 水は坂本と高谷にとって以前から惹かれていた素材で、実際これまでのコラボ作品でも重要なモチーフとして使われている。舞台の水は鏡面にもなりスクリーンに映った映像を逆さまに反射する。その映像には水が様々な姿に形を変えて映し出される。雨、雲、霧、波、海、水面の波紋、そしてスクリーンに映った実像と水に映った虚像 ……。それは空と海と大地を巡り、ここでも直線的な時間に抗うように円環を成す。また水は自然を象徴するものとして、人間にとっての脅威にもなるだろう。そして予告動画でも観れるスクリーンに映った田中泯と、照明で黒い影になった現実の田中泯が対峙すると、そこでも虚実の区別が曖昧になった夢のような感覚に陥いるのだ。

RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI 『TIME』 
東京公演は終了。ロームシアター京都 メインホールにて2024年4月27日(土) 28日(日)上演。
撮影:井上嘉和

 タイトルになっている時間も非常に曖昧で抽象的なものだ。時間についても二人は以前から関心を持っていたが、2014年に中咽頭癌が判明して死を意識したであろう坂本は、より深く思索を巡らせたはずだ。その解のためのヒントになるのが、本企画の始動時期と発売の時期が重なったアルバム『async』(17)だ。実際に本作の劇伴は音楽と環境音(サウンド、ノイズ)が一つになったもので、それは『async』と共通する手法だ。そして『async』の中の一曲「LIFE, LIFE」では、坂本が敬愛する映画監督アンドレイ・タルコフスキーの父である詩人アルセニー・タルコフスキーの作品が朗読される。その聴こえ方が本作と共通するだけでなく、詩の内容も「夢見たことを夢見る。時には再び夢を見る。私が夢で見たことすべてをあなたは夢見る」と、夢の話という点でも重なるのだ。

 また『async』のテーマの一つとして坂本が以前語った「始まりがあって終わりがあるような一つの時間ではなく、複数の時間が同時進行するような音楽」は、本作のテーマにも直接繋がっているだろう。そしてアルセニー・タルコフスキーの同じ詩の「すべてが繰り返され、すべてが立ち戻る」という一節はまさに時間の円環であり、「邯郸」の男が見た一夜の夢のようでもある。



 そしてもう一つの作品、坂本龍一のソロピアノによる最後のコンサートを記録した映画『Ryuichi Sakamoto|Opus』が、4月26日から先行公開される。本作は坂本が闘病中の2022年9月に、じっくりと時間をかけながら8日間で20曲を撮影し、後から繋いで一つのコンサートに仕立てたものだ。坂本が音の響きの素晴らしさを評価する慣れ親しんだNHK509スタジオに、長年愛用してきたカスタムメイドのヤマハ・グランドピアノ一台だけを運び込み、入念に練り上げられた撮影プランによって記録された、空音央(そらねお)監督の作品だ。全編モノクロームの映像は、それだけで光と闇が溶け合うアート作品としての美しさを湛えている。

『Ryuichi Sakamoto | Opus』
4月26日(金)109シネマズプレミアム新宿にて先行公開、5月10日(金)全国公開
配給:ビターズ・エンド ⒸKAB America Inc. / KAB Inc.

 カメラは多くの時間で少しずつゆっくりと生き物のように動いて、坂本が弾くピアノの音で満たされた部屋を、まるで一つのインスタレーション作品であるかのように映し出す。凹凸のある四角い断片が集まった壁も、ピアノの周りだけでなく広い空間に何本も屹立するマイクも、照明によって坂本の姿が黒い影となり(照明は『TIME』と同じ吉本有輝子)ピアノと一体化した様子も、全てがオブジェのように見えてくる。そうかと思えば細かい皺が深く刻まれ、血管が浮かぶ骨ばった手には、生身の人間のこれまでの人生が滲み出る。また時折見せる苦しそうな表情には、現在進行形の闘病の厳しさも垣間見れるが、ふと口元が緩んで浮かぶ微笑みからは、演奏に対する素直な満足感も伝わってくる。そしてそんな音楽自体に感じたのは、静かに死を受け入れながらも、やるべきことを粛々とやり切った芸術家の枯淡の境地ということだ。

 坂本はキャリア初期の頃から、常に最新のテクノロジーに関心を持ち、作品にも反映させてきた。また世界中の民族音楽や新しいスタイルの音楽を聴いて才能ある音楽家と共演し、自らの音楽を更新し、その領域を広げ続けてきた。しかし90年代後半頃には華やかなポップス路線から、現代音楽の要素を大胆に取り入れたアコースティックなインストルメンタル作品が多くなる。そして『out of noise』(09)の頃には旋律、和音、リズムの縛りや楽器からも解放された音そのものの探究を始め、癌が判明してからは自分が好きな環境音(サウンド、ノイズ)だけを集め、それらがいわば普通の音楽と拮抗しながらも、絶妙なバランスを保ちつつ同居している『async』(17)を発表する。

 また坂本は自らの演奏を「ピアニストとしてはひどいレベル」と語っているように、超絶技巧の即興ソロで聴く者を圧倒するようなタイプではない。さらに晩年には「煌びやかな世界ではなく枯れた世界に惹かれる。音と音の間の響きを味わいたい」とも語っている。もちろん闘病による体力の衰えもあるだろう。坂本は一台のピアノと真摯に向き合い、10本の指だけを武器として挑むために、自分が生み出した曲をその本質を見極めるかのように極限まで削ぎ落とすことで、シンプルにして深淵な音を得ようとしたのではないだろうか。こうして曲がりくねった長大な音楽体験の道を歩いて来たその果てに、坂本が辿り着いたのが本作の枯淡の境地なのだろう。そしてその珠玉のような響きを自ら味わうために、一曲一曲を慈しむようにゆっくりと噛み締めながら弾く坂本龍一の姿を、本作は完璧に捉えているのだ。

『Ryuichi Sakamoto | Opus』
4月26日(金)109シネマズプレミアム新宿にて先行公開、5月10日(金)全国公開
配給:ビターズ・エンド ⒸKAB America Inc. / KAB Inc.

 ちなみに一昨年末に世界に向けて配信されたコンサート「Ryuichi Sakamoto:Playing the Piano 2022」と、昨年1月にNHKで放送されたテレビ番組「Ryuichi Sakamoto:Playing the Piano in NHK & Behind the Scene」は、本作と同じ素材を基に制作されているが、その印象は全く違うものになっている。NHKの番組は45分で6曲披露されるが、ほとんどの曲で別撮りされた坂本本人の解説が挿入され、同じ曲でも映像のカット割が少し多くなっている。当然分かり易くはなるが、没入感がまるで違うのだ。

 また配信のコンサートは本作より曲数が7曲少ないが、カットされた中の「美貌の青空」こそが本作で最も重要な曲だろう。個人的にはこの曲の途中で起こる出来事に思わず動揺して「一体何が?」と動悸が早まり、曲の終わりに坂本が本作の中で発した数少ない一言で、やっと平静を取り戻せたのだ。この場面があることで本作は単にコンサート映画であるだけでなく、優れたドキュメンタリー映画でもあるということを思い知らされるのだ。

『Ryuichi Sakamoto | Opus』
4月26日(金)109シネマズプレミアム新宿にて先行公開、5月10日(金)全国公開
配給:ビターズ・エンド ⒸKAB America Inc. / KAB Inc.

 Opusとは『BTTB』(98)に収録された曲名だが、Operaの単数形で「作品」という意味だ。オペラと言えば坂本はキャリア史上最も壮大で絢爛豪華な『LIFE』で高谷史郎と協働を始め、その関係は華美を取り払った侘び寂びの世界『TIME』に至り、最後は坂本一人で純粋なピアノの音だけを残した『Opus』に辿り着いた。『Opus』は坂本自身のアイディアから起ち上がった企画で、代表曲はもちろん全キャリアを俯瞰しながら未発表曲(ベルトルッチ逝去の際に作曲した「BB」)まで含むセットリスト20曲も、坂本本人によるものだ。苦しい闘病生活の中でさぞかし大変だったであろう撮影に臨み、こんなにも素敵な贈り物を遺してくれたことには、本当に感謝しかない。

 最後にもう一度、「LIFE, LIFE」で読まれたアルセニー・タルコフスキーの詩の一節を書き記しておこう。

「会う必要はない。私はつねにそこにいる」。


(ラティーナ2024年4月)

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