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【追悼:大城美佐子】[2017.09]大城美佐子と宮沢和史─芸歴60周年を彩る共演曲集『島思い〜十番勝負』を発表した大城美佐子が宮沢和史と「唄」の力を語る

 沖縄民謡界の女王、大城美佐子さんが2021年1月17日、他界されました。84歳でした。
 以下の記事は、月刊ラティーナ2017年9月号に掲載されたものです。筆者の岡部徳枝さんと写真家の仁礼博さんのご協力で、追悼の意を込め、ここに再掲致します。ご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。

文●岡部徳枝/写真●仁礼博

 沖縄民謡界の女王、大城美佐子が芸歴60周年を迎えた。那覇にある自身の店「島思い」で連夜歌いながら、国内外のライヴに飛び回り、80歳を超えなお現役で活躍する唄者。そんな彼女の「今」をパッケージしたニューアルバム『島思い~十番勝負』がリリース。10組の唄者・アーティストが集結、10曲10様の共演を聞かせる。

 共演者は、縁ある人ばかり。知名定男は、かれこれ60年もの付き合いで姉弟のような存在だ。父親は大城美佐子の師匠、知名定繁。大城美佐子のデビュー曲「片思い」を始め、数々の名曲を生み出し、戦前戦後の沖縄民謡界を牽引した偉大な唄者である。登川誠仁の弟子で、大城美佐子とも旧知の仲、コンビ唄も多く披露している徳原清文。40年間大城美佐子に憧れ続け、今回念願の共演を果たした黒島生まれの八重山民謡唄者、安里勇。「ワタブーショー」で活躍した漫談師・前川守康の息子で、小さな頃から大城美佐子を慕ってきた「元ちゃん」こと前川守賢。嘉手苅林昌と大城美佐子のコンビ唄を聞きこみ沖縄民謡を学んだという宮沢和史。「会うたびに緊張する大先輩」と尊敬し、その背中を追い続ける4人組女性グループ、ネーネーズ。弟子として「唄は語り」という教えを間近で学び、各地のライヴでともに歌い続けてきた大城琢。古くから大城美佐子の店で働き、その情けと唄に惚れ、現在も「島思い」で歌う宮里恵美子。今年初めて大城美佐子と出会い、「嘉手苅さんの唄を上等に歌う」と才能を買われた期待の若手、喜友名朝樹。そして沖縄が誇るDJユニット、Churashima Navigatorは「片思い」をリミックス。デビュー当時の艶やかな唄声、繊細な思いを浮き彫りにする緻密なビート。「島思い」の常連客でもあり、親しい間柄ならではの「思い」を汲んだ仕上がりだ。

 今回は、大城美佐子と宮沢和史の対談を敢行。真夏の沖縄、「島思い」にて。弟子から届いたばかりの桃を切り、用意していたお寿司をふるまい、「お腹すいてるでしょ、食べて」と、まずはおもてなし。唄には厳しいが、ふだんは優しいお母さん。皆が語る大城美佐子像そのものだ。この日、宮沢和史は大城美佐子から黒木の三板を譲り受けていた。「やっぱり本物の黒木はいい音が鳴る」と嬉しそうに叩きながら、「今僕たちが育てている黒木は、200年後に三線を何千丁とれる予定です」と、自身が運営する「くるちの杜100年プロジェクト」の話。「200年後。じゃあその頃また生まれ変わってきてください。それで一緒にまた『でいごの花』を歌いましょう」と、笑う大城美佐子。食べて飲んで、和やかな雰囲気の中、話は進んだ。


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—— お2人の出会いはいつ頃ですか?

宮沢和史 渋谷のパルコ劇場で開催された知名定男さんとの「二人唄会」のとき。2008年ですね。僕は美佐子さんのCDを全部持っていて、いつお会いできるんだろうってずっと夢見ていたんです。前から大ファンでしたから。

大城美佐子 まぁ、恥ずかしい(照笑)

宮沢和史 「島唄」を発表してからずっと定男さんにご挨拶したいと思っていて、そのチャンスがないまま十年ほど経ってしまったんですけど、あるときテレビで「島唄」を弾いていらっしゃるのを観て、これは近日中に行こうと。そのタイミングがその唄会だったんです。

大城美佐子 定男はあんなとっつきにくそうに見えて、話すととっても優しいからね。

宮沢和史 そうですよね、とても喜んでくださって。その年から始まるご本人主催のイベント(熊本で年一度開催の「琉球の風~島から島へ~」)に出演してくれ、と。定男さんにそんなふうに誘って頂けてすごく嬉しかったです。

—— 宮沢さんは美佐子さんの歌う「白骨節」が大好きだと聞きました。

宮沢和史 この曲は片割れ心中物ですけど、僕はこういう恨み節に魅了されて沖縄民謡にのめりこんでいったんです。辻の遊郭のにおいがする「仲島節」とか、胸にぐっと迫る「片思い」とか、美佐子さんの声に合う唄ってあるんでしょうね。情唄はいいなぁ、としみじみします。そういう民謡の魅力は美佐子さんの唄を通して知りました。

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—— 「片思い」は、今作にボーナストラックで収録されていますね。25歳当時、1962年に録音されたデビュー曲。

大城美佐子 師匠の知名定繁が押入れの中に頭を突っ込んでゴソゴソ探してね。1枚の紙きれを引っ張り出して「これを歌え」と。とっても難しい唄だったけど、自分にはこの曲しかないと思ったから、死に物狂いで頑張りました。よく「あんた、誰に片思いして歌ってたの?」って聞かれてね。恋に悩んでるように見えたみたいだけど、実は唄うのに必死だっただけ(笑)でも今は誰かのことを思い出さないと歌えないよ。昔、片思いした人のこと。ふふふ。

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—— 今作でお2人が共演されたのは知名定繁さん作詞・曲による「でいごの花」。定男さんも三線で参加なさっています。

宮沢和史 僕はこの曲が大好きで、美佐子さんとコンビ唄するならぜひと提案させて頂きました。旦那が妻子を残してよその島へ戦争に行くことになって、妻はじっと待ち続けて、やっと戦争が終わって、さぁ帰れる、会えるという心情を綴った物語。2人は島と島、離れ離れで思い合っているわけで、直接会って話をしていないのに唄の中ではちゃんと会話になっている。それがすごく粋。情唄の美しさですよね。落ちて枯れようとも、でいごの花。素晴らしい唄です。でも定繁先生の作る唄って難しいですよね。音がぐーんと飛ぶし、すごく音楽的。

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大城美佐子 そうなんです。もともと古典の人だから、昔の古典の節回しを入れたり、ほかの人がやらない曲の作り方をする。だから難しい。

—— 定繁さんはいつもニコニコして仏のような方だったと。

大城美佐子 そう、知名定繁は仏様のような人。嘉手苅林昌さんは歌の神様。仏様と神様に恵まれて私は幸せ者です。

宮沢和史 僕の後悔は林昌さんに会えなかったこと。沖縄民謡を聞き始めた頃、マルフクレコードのカセットを集めるのが好きで、その中の林昌さんと美佐子さんとのコンビ唄はずいぶん聞きこみました。本当に会いたかった。

大城美佐子 おもしろい人でしたよ。酔っ払うとグローブみたいに大きな手で好きな人をバチーンと殴るの(笑)。そもそも私が民謡をやるようになったのは、嘉手苅さんのせいなんですよ。ある日ラジオから嘉手苅さんの唄が流れてきたときに体が震えて。「なにこれ?」と怖くなるほど雷に打たれたような衝撃。それからあの人がライヴやるって言ったら、飯もいらん、仕事も放って追っかけ(笑)

宮沢和史 唄の力ってすごいですよね。僕は林昌さんと美佐子さんがいなかったら沖縄民謡がここまで全国区で愛されていなかったと思うんです。竹中労さん(沖縄民謡を生涯愛したルポライター)が心底お2人に惚れて本土に連れて行って紹介したっていう大きな流れがあって、それで沖縄民謡の魅力が日本全土に広まった。島の外へ持って出た人がいたからこそ、僕みたいな人間もそこに引っかかったんだなって。

大城美佐子 沖縄民謡が広まったのは労さんのおかげです。昔ね、東京でライヴをしたときに1人の青年がカチャーシーを見て興奮して。めずらしくて仕方なかったんだろうね、騒いで騒いで、その後の名古屋、大阪とずっと付いてきました。青年の人生を狂わせてしまったねって(笑)

宮沢和史 それだけ一瞬で虜にするってすごい。しかも沖縄民謡って一度聞いて好きになったら、もういいやってならないと思う。人間が突き動かされて変わっちゃうくらいのエネルギーがある。そういう人が全国にいっぱいいますからね、美佐子さんの唄を聞いて元気になる人が。

大城美佐子 沖縄の方言で言葉の意味がわからなくても胸に届くのかなって。唄はハート。心から歌えば伝わるんですね。宮沢さんのことは、最初は不思議でしたよ。あれだけ人気のある人が、あえて沖縄民謡を好きになるって、それだけ沖縄の引力が強かったのかなって。

宮沢和史 美佐子さんや嘉手苅さんの唄と出会ったからです。素晴らしい唄者に惚れてしまった。惚れるのに理由はないですからね(笑)。それから沖縄に来るようになって、いろんな方の唄を聞いて、ますます沖縄民謡が好きになって。こんなに素晴らしいものを知って、自分だけに留めておくのは罪、伝えないのは罪だと思いました。亡くなられた労さんを引き継ぐことはできないけど、自分なりに同じことをしたいのかもしれない。自分が死ぬまで沖縄民謡を聞いていたいから応援する。そんな思いでいます。

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(↑写真:岡部徳枝)

—— 美佐子さんは芸歴60周年を迎えて今どんなことを思いますか?

大城美佐子 しんどい思いもしたけど、たくさんの人に支えられて、お客さんが喜んでくださる顔を見て励まされて、やっとここまで来られたなと思います。こんな世界は嫌と思って、結婚して民謡やめようと考えたこともあるし、唄をやめるつもりで本土に逃げたこともある。でも気が付いたら三線を肌身離さず持っていました。本当は沖縄の音楽って、とても素朴でね。人が聞こうが聞くまいが、静かなところで三線弾いて歌って自分が楽しむものだと思うんです。決して華やかじゃなくていいから、人の心に響く唄を歌い続けたい。それを楽しみに待っててくれる人がいる限り、これからもずっと唄い続けます。

(月刊ラティーナ2017年9月号掲載)