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[2023.7]【追悼】 ジョアン・ドナートの軌跡を辿る 〜ボサノヴァとMPBの偉大なるマエストロ〜

文:中原 仁

 また一人、ブラジル音楽の巨星が旅立った。作曲家・ピアニスト、ジョアン・ドナート(1934年8月17日~2023年7月17日)。享年88歳。年齢を思えば大往生だが、近年も元気に活動を続けていただけに喪失感が大きい。謹んでご冥福をお祈り申し上げる。
 
 ボサノヴァの先駆者あるいは創始者に位置づけられることが多いドナートだが、そのことを裏づける音源は数少ない。むしろとくに今世紀の音源を聴くと、彼の音楽性の幅広さ、永遠の若々しさに心打たれる。その生涯を代表的な音源と共に振り返りながら、彼の音楽像に迫っていこう。
 
 最初に、ドナートの息子世代にあたるカシンの語りでドナートの歩みをさまざまな写真と共に追った、約4分半の映像からスタート。語りはポルトガル語だが英語のテロップつきだ。


●ボサノヴァの先駆者としてのドナート

 ジョアン・ドナート(João Donato de Oliveira Neto)は1934年、アマゾンの奥地、ボリビアやペルーと州境を接したアクレ州で生まれ、最初に手にした楽器はアコーディオン。1945年に一家でリオに越した。彼の音楽の中に漂うラテン成分は、幼少期の生活環境も反映されていたのだろう。
 
 スタン・ケントンを愛聴していたドナートは、15歳を迎えた1949年、フルート奏者アルタミーロ・カヒーリョのグループにアコーディオン奏者として参加。初録音はエルネスト・ナザレー作曲のショーロ「Brejeiro」だった。

Altamiro Carrilho - Brejeiro (1949)

  1953年、19歳で自身のグループ、Donato e seu conjuntoを結成。ジャズの楽曲「Tenderly」と「Invitation」を録音した。
 
 同年、ルーシオ・アルヴィスが独立した後のヴォーカル・グループ、オス・ナモラードス(オス・ナモラードス・ダ・ルア改め)の録音にも参加。鮮やかなリズムの演奏がサンバの新時代を感じさせ、ボサノヴァの先駆けとも聴きとれる。

Os Namorados - Eu Quero Um Samba (1953)

Os Namorados - Palpite Infeliz (1953) 

 1954年からピアノの演奏も始め、また、スタン・ケントン・オーケストラのトロンボーン奏者、フランク・ロソリーノに憧れ、独学でトロンボーンもマスターした。
 
 1956年、ファースト・アルバム『Cha dançante』をアントニオ・カルロス・ジョビンのプロデュースで発表。アコーディオンとピアノを演奏し、A面はサンバが中心で、B面はバイーアと北東部の曲。ボサノヴァとの繋がりに注目すると、ルピシーニオ・ホドリゲス作のサンバ「Se acaso você chegasse」の演奏が聴きものだ。

  50年代前半、ジョアン・ジルベルトと知り合い親友となる。ドナート作曲のインスト曲にジョアン・ジルベルトが歌詞をつけた「Minha saudade」を50年代末にアライーヂ・コスタが録音したが、ドナート自身によるインストの録音もあり、ドナートはトロンボーンも演奏している。

João Donato, com participação de Altamiro Carrilho — Minha Saudade(1958)

 共演はセバスチアン・ネト(ベース)とミルトン・バナナ(ドラムス)。ゲストはアルタミーロ・カヒーリョ(フルート)。「Chega de saudade」と同年、1958年の録音であり、モダンな演奏だ。
 
 しかしドナートは、ボサノヴァの時代の到来を体験することなく、1959年、リオからUSAヘと旅立った。


●ジャズ、ラテン、ボサノヴァ:USA時代のドナート

 渡米したドナートは60年代初め、ロサンゼルスを拠点に、ティト・プエンテ、モンゴ・サンタマリアなどのラテン音楽家と共演していたが、間もなく彼を追いかけるようにボサノヴァがUSAに上陸。1962年から63年にかけてリオに一時帰国し、セバスチアン・ネト(ベース)、ミルトン・バナナ(ドラムス)とのトリオ+アマウリー・ホドリゲス(パーカッション)によるJoão Donato e Seu Trioで初の “ボサノヴァ・アルバム”、『Muito à vontade』 を録音した。タイトル曲をはじめ12曲中10曲がドナート作。痛快なグルーヴの演奏を楽しめる。作曲家としての本格的なデビュー作でもある。

  同じくリオ録音、同メンバーでもう1枚、『A bossa muito moderna do Donato e seu Trio』。12曲中7曲が自作で「Silk stop」は後に歌詞がついて曲名も「Gaiolas abertas」となったが、ここでの演奏は歌ものヴァージョンよりもグッとアップ・テンポだ。アクレ州で育った少年時代に作曲したという「Indio perdido」は、後に歌詞がついて「Lugar Comum」となった。

 1963年、USAに戻り、ジョアン・ジルベルトの3カ月間に及ぶヨーロッパ・ツアー(主にイタリア)に、ネト、バナナと共に同行した。
 
 “2人のジョアン” が共演した音源や映像があれば、、、なのだが、ここではアントニオ・カルロス・ジョビンとドナートの共演映像をあげておく。出典はUSAのテレビ番組だろう。

 TOM JOBIM & JOÃO DONATO │ One Note Samba / Desafinado (1964)

 1965年、ドナートはアストラッド・ジルベルトのファースト・アルバム『The Astrud Gilberto Album with Antonio Carlos Jobim』に参加してピアノを演奏。アストラッドの次作『The shadow of your smile』では2曲の編曲も行なった。
 
 同年の『The new sound of Brazil』は、初のUSA原盤リーダー・アルバム。収録曲の半数がドナートの自作だ。クラウス・オガーマンが編曲・指揮したオーケストラとの共演だが、ややイージー・リスニング色が濃い。

 同じく65年録音、USA原盤の『Bud Shank & His Brazilian Friends』。スタン・ケントン・オーケストラに在籍していたこともあるアルトサックス奏者、バド・シャンクのリーダー作だが、ジャケットに “with João Donato” とクレジットされた、実質的な双頭アルバムだ。メンバーは当時、渡米中だったセルジオ・メンデス・トリオのセバスチアン・ネト(ベース)とシコ・バテーラ(ドラムス)、プラス・ホジーニャ・ヂ・ヴァレンサ(ギター)。ドナート作品は10曲中4曲だが、演奏のクォリティが高い。

 渡米後からここまでが “ドナートのボサノヴァ時代”。やっと時代がドナートに追いついた、とも言える。彼のピアノ、とくに力強いタッチでリズムとメロディーとハーモニーを表現する左手のテクニックとセンスは群を抜いていて、それが50年代後半、多くの音楽家にヒントと影響を与えたのだろうし、多くの音楽家の一人がジョアン・ジルベルトだったのかもしれない。
 
 ドナートは70年代のインタビューで「私の音楽にはボサノヴァとの関係はない」と発言していた。自分は自分がやりたい音楽を追求していただけで、後付けで “ボサノヴァの先駆者” と言われても、、、という思いも理解できる。ただ当時はそう話したが、月刊ラティーナ1995年4月号掲載のインタビューでは「あの頃(注:50年代中盤)の私はボサノヴァ寄りの演奏をしていた」と発言していた。
 
 そもそもドナートの音楽は、ボサノヴァの枠組みの中には収まりきらない。彼のオリジナル曲そして演奏から滲み出る、やや湿度高めのラテン成分は、ボサノヴァとは完全な別物である。渡米時代の末期から、彼の音楽は別方向に舵を切っていった。
 

●エレキピアノ、歌、、、広がるドナートの世界

 1970年、ドナートはジャズ・ロックのリズムに乗って(注:当時はまだクロスオーヴァー、フュージョンという表現はなかった)、主にオルガンを弾きまくったエレクトリックなアルバム『A bad Donato』を発表した。マイルス・デイヴィス、ジェイムス・ブラウン、スライ&ファミリー・ストーン、そして当時のサイケデリック・ロックなどの要素がゴッタ煮になった、彼のディスコグラフィーの中では異色作になるが、個人的にはこれが、僕が初めて聴いたドナートのアルバムで、ロック少年の耳には全く違和感なくカッコよく響いた。

 1972年、10数年間のUSA生活を終えてブラジルに帰国。その際、自作の曲をキーボードで演奏したテープをエウミール・デオダート託した。それにデオダートが、曲によっては補作曲を行ない、多彩なミュージシャンの演奏をオーバーダビングして完成したアルバムが『Donato Deodato』だ。

  帰国したドナートは、USA時代から交流があったマルコス・ヴァーリに実質的なプロデュースを依頼し、ブラジルでの約10年ぶりのリーダー作『Quem é quem』を録音した。自作のインスト曲に歌詞をつけドナートが初めて “歌った”、名盤の誉れ高いアルバムだ。
 
 日本盤CDのライナーノーツから、僕がマルコス・ヴァーリに聞いたコメントを引用する。

「彼が歌うというのは、僕とアゴスチーニョ・ドス・サントスのアイディアだ。3人でレコーディングの打ち合わせをしていたら、ドナートが『コーラスを入れたい』って言い出してね。その瞬間、アゴスチーニョと僕は顔を見合わせて同時に言ったんだ。『ドナート、あなたが自分で歌うべきだ』。彼は『歌うなんて考えたこともない』と拒否したけれど、『小鳥のように歌えばいいんだよ』と説得して実現した」。

João Donato ‎– Quem É Quem (1973)

 この後、ドナートに接近したのがバイーアの “元トロピカリズモ勢”。1974年、カエターノ・ヴェローゾがプロデュースしたガル・コスタのアルバム 『Cantar』でドナートは2曲のアレンジを担当(うち1曲はカエターノが歌詞をつけた「A rã」)。「Até quem sabe」など4曲でピアノを演奏した。

  1975年のリーダー作『Lugar comum』は、カヴァーが多い名曲「Bananeira」など全曲が自作。ジルベルト・ジルが9曲の、カエターノが1曲の作詞を手がけた。ゆるやかなバイーア時間が流れるが、アッパーなリズムの曲もあり、作曲の幅の広がりが実感できる。

  ここで当時の演奏の映像を。アコースティック・ピアノのソロで歌う「マラクジャーの花」。ガル・コスタが『Cantar』で歌った名曲だ。

João Donato - Flor de Maracujá(1975) 


●頼れる裏方の時代から休眠へ

 この後の約10年間、ドナートはリーダー作を出さず、アレンジャー/キーボード奏者としてMPBシーンの裏方をつとめてきた。
 
 その代表作が、60年代前半、リオのベッコ・ダス・ガハーファスのナイトクラブから登場し、バランソと呼ばれる小粋なスタイルで人気を集めたオルランヂーヴォの1977年盤『Orlandivo』。ドナートがアレンジを担当しキーボード類を演奏している。

Orlandivo - Orlandivo (1977)

 ナラ・レオンの『Nasci para bailar』(1982年)はラテン・タッチのタイトル曲をはじめ、ドナート自作の2曲のアレンジをつとめた。

Nara Leão - Nasci para bailar

 珍しいところでは、AORを代表するシンガー・ソングライター、マイケル・フランクスが『Sleeping gypsy』(1977年)の制作にあたり、リオを訪れてドナート(ピアノ)との共演で録音した2曲。「Down in Brazil」には “For João Donato” とクレジットされている。

  このほか、エミリオ・サンチアゴ、ジョアン・ボスコ、ミウシャなどのアルバムに関わってきたが、80年代から90年代にかけて活動がペースダウンし、引退に近い状態となってしまった。

●復活から八面六臂の大活躍!60~80歳代

 1994年、還暦を迎えた年に、ドナートを冬眠から目覚めさせたのが、小野リサだ。ドナートの音楽の大ファンだったリサが、ブラジル・サイドのスタッフ全員の猛反対を押し切って、ドナートの名曲を彼の最新のアレンジで歌ったリオ録音のアルバム『サウダージ(Minha saudade)』(95年発売)。ドナートがピアノ、キーボードを弾き、トロンボーンも演奏した、完璧なコラボレーション・アルバムだ。

Lisa Ono - Minha Saudade 

  1995年、このアルバムのリリース・ライヴでドナートが来日。コンサート全編をとらえた貴重な映像もある。

LISA ONO WITH JOAO DONATO live in tokyo 95

 小野リサとのプロジェクトを機に復活したドナートは、日本公演から戻ってすぐ、『Lugar comum』から20年ぶりとなるスタジオ録音のリーダー作『Coisas tão simples』を制作した。

  これ以降、ドナートは空白期間を埋めて余りある勢いでリーダー作の録音を続けた。その中からセレクトして紹介する。
 
 まず、USA原盤の『Amazonas』(2000年)。ジョルジ・エルデル(ベース)、クラウヂオ・スローン(ドラムス)とのアコースティック・トリオ編成で、自作曲を歌抜きで演奏している。復活以降に録音したアコーステック形態のアルバムの中では、これが最良。

João Donato Trio - Amazonas (2000) 

 ドナートの鼻歌を曲名そしてアルバム・タイトルにした『É lalá lay-ê(エララライエー)』(2001)は、ドナートの多くの曲に歌詞を書いている弟、リージアス・エニオ(Lysias Enio)と共作した曲を歌い演奏したアルバム。ほとんどが新曲・未発表曲だ。

 続く『Managarroba(マナガホーバ)』(2002)。このタイトルもドナートの造語だ。ゲストにジョアン・ボスコ、ジョイス、マリーザ・モンチ、マルセロ・D2を迎えている。

  ドナートとジョアン・ボスコの関係は70年代以来。ジョイスについては後で詳しく書く。マリーザ・モンチの『Memorias,crônicas e declarações de amor』(2000年)にドナートはゲスト参加、ピアノを演奏していた。マルセロ・D2の “ヒップホップ・サンバ” 第一作『Eu tiro é onda』(98年)にもゲスト参加した。このアルバムの発売直後、リオでマルセロ・D2にインタビューした際の彼のコメントを、月刊ラティーナ98年11月号から引用する。

 「僕はボサノヴァもずっと好きだったんだ。ただ僕の世代はボサノヴァのコンサートに行くう機会はなかったんだけど、去年ドナートのライヴに行ったら、彼が客席にいた僕を見つけてね。それでステージから『今日ここに、私よりもずっと若いマルセロ・D2が来ている。次の曲を君に捧げる』って言ってくれた。毛が逆立つぐらいビックリしたよ。だって、それまで僕たちは会ったことも話したこともなかったのに。それでドナートに、ぜひ僕のアルバムでピアノを弾いてほしいってお願いしたんだ」。

  D2のライヴにドナートがゲスト出演した映像もある。『Acústico』(2004年)から。

Marcelo D2 - Espancando o Macaco 

 このほかドナートは、フェルナンダ・アブレウ、ベベウ・ジルベルト、カルリーニョス・ブラウン、モレーノ+2、カシン+2といった、息子・娘世代にあたるトンガリ・ポップ勢からラヴコールを受けて彼らの録音に参加してきた。近年ではトゥリッパ・ルイスとのコラボが印象的だ。

Gravidade Zero | João Donato e Tulipa Ruiz

 一方、正統派MPB勢とのコラボでは、まずジョイスあらためジョイス・モレーノ。『Tudo bonito』(2000)、『Aquarius』(2009)、この2枚のコラボ盤がある。
 
 ジョイスの来日公演にドナートがゲスト参加したことも複数回あり、今はクローズした福岡BLUE NOTEの楽屋で2人が共作した曲が「E vamos lá」。ドナートが参加したジョイスのアルバム『Bossa duets』でのこの曲は「イキマショウ、イキマショウ、フクオカ、フクオカ」と歌って締める。

Joyce Moreno com Ana Martins e João Donato - E vamos lá

  『Aquarius』で初録音したドナートの作品「Amor nas estrelas」。そのメロディーの一部を60年代初め、ジョアン・ジルベルトが「Você e eu」のアウトロで歌い、それが後にアントニオ・カルロス・ジョビンが「Águas de Março」を作曲する際のヒントになったと言われている。

  パウラ・モレレンバウムとドナートのコラボ・アルバム『Água』(2010)も好盤。収録曲の「A paz」(作詞:ジルベルト・ジル)は日本に落とされた原爆にも言及した平和への祈りの歌で、日本語で歌っているパートもある。その歌詞は大貫妙子が書き、リオ録音盤『Tchou(チャオ!)』(1995)で歌ったものだ。ちなみに80年代後半、ドナートがプライヴェートで来日した際、大貫妙子のアルバム『プリッシマ』(注:デビュー前の小野リサがギターを弾いた曲も収録)を聴いてとても気に入った、というエピソードもある。

  80代を迎えても勢いは衰えない。2016年、サンパウロのバンド、Bixiga 70(ビシーガ・セテンタ)のメンバーらとの共演でエレピとシンセを弾いたインストのアルバム『Donato elétrico』を発表。全曲、初録音の新曲で懐古趣味のカケラもなく、ドナートの若さを強く印象づけた。

  2017年、自身が50になってから生まれた息子、ドナチーニョ(1985年生まれ)との双頭リーダー作『Sintetizamor』を発表。親子で曲を共作し、キーボードやシンセサイザーを弾き倒したブギー・ファンクの快作だ。

  2021年、ジャルズ・マカレーとの初コラボ作『Sintese do lance』を発表。2人の老人が今から一緒に露天風呂、なんて妄想が浮かぶ、遊び心満載のジャケット同様に内容も楽しく、穏やかでピースフルな気持ちに包まれる、音楽の温泉のようなアルバムだ。

  ここまでコラボ作が多かったドナートの、20年ぶりの純リーダー作が『Serotonina』(2022年)。タイトルは、脳内の神経伝達物質で精神を安定させる効果があるセロトニンを表す。これも自作の新曲が満載、緩やかでメロウな、タイトルどおりのアルバムだ。ドナート自身の旅立ちも、安らかなものだったろう。

  このように、60代、70代、80代のドナートは、とても充実した日々を送ってきた。日本との縁も深く、復活のキーパースンとなった小野リサのコンサートで95年に来日して以降も、さまざまな形で来日公演を続けてきた。
 
 知り合って以降(60代以降)のドナートの印象は常に、自分が面白がることが大好きな、悪戯好きの少年。会うといつも僕の名前をフルネームで2度、3度と呼んで(叫んで、に近い)、ニヤリとする。日本語の響きとリズム感が大好きなようで、以前、リオの野外フェスティヴァルでドナートのライヴを聴いた時も、演奏しながらカリオカの聴衆に向かって「お元気です~~!」と日本語を連呼していた。10代の時からアコーディオンで大人たちを驚かせていた神童は、永遠の少年として88年と11カ月の人生を歩き続けたのだろう。
 
 締めくくりの映像は、2020年の「リオ・モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」無観客ライヴ。自作の代表曲をピアノで演奏する。ドラムスは長年、共演してきたホベルチーニョ・シルヴァ。後半、息子のドナチーニョも参加。ドナート流サンバ・ジャズを満喫できる。

Show João Donato no Rio Montreux Jazz Festival 2020


(ラティーナ2023年7月)

















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