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[2021.01]【追悼 フアン・カルロス・コペス】(タンゴダンサー、振付師)

 世界的に有名なタンゴダンサー、振付師フアン・カルロス・コペスが89歳でコロナウイルスに感染し、亡くなった。2020年末にコロナウイルスに感染し、闘病生活を続けていた。1931年の5月31日ブエノスアイレスに生まれ、1951年にマリア・ニエベスと伝説的なカップルを結成。1955年には自身のカンパニーを立ち上げ、アストル・ピアソラやフランシスコ・カナロ楽団とも共演を果たした。音楽だけが注目されていたタンゴをダンスにおいても世界的なレベルへとステータスを昇華させた第一人者であり、その後もタンゴダンス界においてマリア・ニエベスと並んで最も影響力のあるダンサーとして知られていた。タンゴブームが下火になっていた1983年にはタンゴカンパニー「タンゴ・アルヘンティーノ」を立ち上げ、ニューヨークやパリで大ヒットを記録。2000年には「今世紀のタンゴダンサー」の栄誉をブエノスアイレス市から贈られていた。カルロス・サウラ監督の『タンゴ』(1998年)やヘルマン・クラル監督『ラスト・タンゴ』(2016年、製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース)にも出演。その中で当時83歳とは思えないキレのあるダンスをマリア・ニエベスとともに披露し、マリア・ニエベスと愛と別れを経験した壮絶な人生やタンゴダンスが芸術として持つポテンシャルの高さを情熱を込めて語っていた。2017年からは体調を崩して一線を退いていたが、70年間に及びタンゴダンスの発展に貢献してきたコペスの勇姿は今も多くの人の目に焼いている。(以上編集部)



以下は、月刊ラティーナ2013年3月号の「ラ米乱反射 連載第85回 踊りの本質は〈大地への愛〉生来のタンゲーロ、タンゴの巨匠たちが語る」内で掲載された、フアン=カルロス・コペスとダンス・パートナーのマリア・ニエベスへのインタビューです。

文●伊高浩昭(ジャーナリスト)text by HIROAKI IDAKA

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芸術的妙技を見せるコペスとニエベス

コペス・ニエベス組
 アルゼンチンタンゴの踊りの名手にして大御所フアン=カルロス・コペスと、7歳年下の元の妻で永遠のパートナー、マリア・ニエベスは、伝統の名曲もピアソーラも、その後の新しいタンゴも区別なく自分たちの踊りにして踊る。映画『タンゴ』で国際的に一層知られるようになった。96年、9年ぶり2度目の来日公演をした時、東京の舞台の楽屋で二人にインタビューた。

── タンゲーロになった動機は。
コペス 「私は1931年に生まれたが、30年代はラジオの全盛時代で、いつもタンゴが流れ、ブエノスアイレスのどのバリオでも人々はタンゴを口ずさみ、踊っていた。バリオのクラブではアマチュアの歌や踊りのコンテストが盛んだった。私もマリアも、そんな時代の産物です」

── 演奏でも歌手でもなく、踊りを選んだ理由は。
コペス 「踊ることしかできなかったからだ。恋人を得るためでも金欲しさからでもなく、ただ好きだから踊り始めた。師はおらず、見よう見まねで工夫しながら踊った。そこに創造があった。タンゴの踊りには定型がなく、いつも創作のために開かれているのです」

── タンゴの踊りで重要な点は。
コペス「優雅、情感、ビルトゥオシズモ(芸術的妙技)の3要素がある。この3番目のは〈ビルトゥオソ〉(徳の高い)という形容詞から派生した言葉だが、タンゴでは踊りの技術、特に街をほっつき歩くような脚部の動きや、ガンチョ(脚を絡ませ合う動作)に熟達することを意味します」
ニエベス 「踊っている時、二人は一体化して〈一人4脚〉になるのよ。もう私たちは10年以上も組んで踊っているわね」
コペス「私たちは友人、恋人、愛人、夫婦であったが離婚し、それぞれ再婚したが、依然同志であり相棒だ。タンゴの踊りの本質は〈アモール・ア・ラ・ティエラ〉(大地への愛)。4本の足が絶えず地面をなぞり滑り動くからだ。私たちは、この愛を込めつつ、独自性を出すため絶えず努力しながら、半世紀を迎えようとしています」

── 昔と今の踊りの違いは。
コペス 「30年代までは、タンゴはトリオ(3人組)などのバンドが4分の2拍子の楽しい曲をもっぱら演奏し、女性の服装は足元まで隠すドレスだった。その後は曲が一層重視されて、楽団が編成され、4分の4拍子になる。女性も服が短くなって、動きが自由になる。踊りは曲や服装に影響されつつ、独創の積み重ねによって変わってきました」

── タンゲーロ人生に転機はありましたか。
コペス 「51年のアマチュア大会で私がチャンピオンになったのと、翌年、電気技師になる勉強を放棄して職業ダンサーになったことです」

── 当時はペロン政権時代(1946~55)ですね。
コペス 「当時のあの政権は、間違った国際主義を掲げて、土着性の強いタンゴをクラブやカフェから締め出した。アマチュアの踊る機会はなくなり、私はタンゴを守る意味も込めてプロになったのです」

── ペロン政権による画一主義の押し付けを嫌ったのですか。
コペス 「そのとおり。今日、電脳ができない者は役に立たないとする恐ろしい風潮がある。私は文化の独自性を根こそぎにするような電脳万能主義を敵視している。幸いにもアルゼンチンの若者に今、文化の独自性を探る動きがあり、タンゴが見直されています」
ニエベス「画一主義はコピー主義でもある。タンゴの踊りほど独自性を追究するものはない。タンゴは、人間を規格品にする電脳のような機械とは対極にあるのよ」

── ニエベスさん、いまの心境は。
ニエベス「娘時代にタンゴを踊りながらバリオを駆け回っていた私は、今こうしてコペスと踊りながら世界中を旅している。なんて素晴らしいんでしょう」

── コペスさん、いつまで踊りますか。
コペス 「いつまでも踊り続ける。世界中のタンゴファンが望んでいるからです」

(月刊ラティーナ2013年3月)