くちずさめる音楽を遺したい ⎯⎯ 新ユニット「ジュス(笹子重治+ゲレン大嶋+宮良牧子)」の活動をスタートした笹子重治とゲレン大嶋にきく
インタビュー・文●佐藤英輔
ギタリストの笹子重治と三線奏者のゲレン大嶋の出会いは、30年前の沖縄に遡る。飲み友達になった二人だったが、コロナ禍を引き金にソングライターのユニットを結成。そして、ゲレン大嶋と一緒のグループにいた石垣出身のシンガーである宮良牧子がそこに加わり、ジュスは結成された。早速仕上げられたデビュー作『サガリバナ~島をくちずさむ Vol.1』には沖縄に対する思慕を介しての得難いメロディと歌唱と演奏が付帯し、聴く者をもう一つの地へと誘う。そんな確かな訴求力を携えたジュスはどのような表現を目指しているのか。笹子と大嶋に話を聞いた。
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── お二人は最初の出会いはかなり昔になるんですね。最初は沖縄で出会ったようですが。
笹子重治 そうですね。当時元気で自転車に乗って沖縄を一周したり、八重山の方に行ったりしていたんです。一番最初に行ったのが、西表島で、これは西表カーニヴァルというイヴェントでしたね。
ゲレン大嶋 それ、何年?
笹子 88年とか、その辺です。もう、なんかすごんいですよ。天然記念物の動物とかがわらわら出てきて、一発で虜になっちゃいました。それで、それから毎年のように音楽の仕事に関係なく行く事になるんですが、ゲレンさんと出会ったのは何年ぐらいかな。
大嶋 93年でしたね。
笹子 その時は確か北の方を自転車で回って、帰りにコザに行って古謝美佐子さんのいる “島唄”というお店に寄ったんです。そしたら、そこに変な人がいて(笑)、そのうちステージに出て三線を弾き出したんですが、すげえ酔っ払っていて全然うまくない(笑)。でも、なんかすごい面白かった。そして、話をしたら、当時ゲレンさんが勤めていたJ-WAVEの"SAUDE SAUDADE”でショーロクラブの僕の曲がテーマで使われていたり、という御縁があることもわかったりして、それからだんだんゲレンさんと会う回数は増えていくわけです。
── ずっと純粋な飲み友達という感じでしょうか。
笹子 全然音楽の話はしませんでしたね。
大嶋 飲みながら、なんの話をしてましたっけね? それで、2000年ぐらいに僕はサラリーマンを辞めて TINGARA をやったわけですが、僕がたまたま引っ越した所の沿線に笹子さんが住んでいて、それで会いやすくなりましたね。たとえば、僕がプラッサオンゼに笹子さん関連のライブに行くと、帰りは一緒に電車で帰ったりするわけです。ラジオの仕事は今も地元のコミュニティ・ラジオやOTTAVAというインターネット・ラジオをやってるんですけど、OTTAVAの方には笹子さんにゲストで来ていただいたりもしています。
── 東京生まれの大嶋さんはもともと洋楽少年だったようですが、三線を弾き出すきっかけはなんだったのでしょう。
大嶋 年上の従兄弟のお兄さんの影響もあり完全にロック小学生だったんですが、多分小学5年か6年ぐらいの時に “ハイサイおじさん” がヒットしたんです。で、その感興が僕にはもうビートルズの「抱きしめたい」を最初に聞いたみたいだった。これが沖縄の伝統音楽とロックンロールのミクスチャーだなんていう知識はないんですけど、僕にとっては同じように格好いい、変わったロックみたいに聞こえたんです。それがすごく残っていて、後に自分で何か音楽を作りたいと思い始めた時に、三線を手にしたわけです。
── 笹子さんにとっては、もう一つの洋楽がラテンやブラジル音楽だったわけですよね。
笹子 ロックはモンキーズやドアーズだったんですが、僕はわりと最初からラテンに行っちゃったんでねえ」(https://e-magazine.latina.co.jp/n/n7a71636cdee7 を参照の事)
── 大嶋さんがやっていたTINGARAはビクターから出ていたんですね。聞いた事がなくて申し訳ないんですが、どんな音楽性だったんでしょうか。
笹子 分かりやすく言うと、エンヤに三線が入ってる感じですかね。
── そういう説明だと聞いてみたくなりますね。そして、その後はジュスのメンバーでもある宮良牧子さんがシンガーを務めた山内雄喜(スラック・キー・ギターのエキスパート)さんとのチュラマナをするわけですね。
大嶋 山内さんも笹子さんと同じようにばったり飲み屋で知り合っていたんです。僕って、すごいギタリスト運がすごいんです(笑)
── 飲み屋文化、万歳ですね。そのチュラマナはどういう経緯で始められたんですか。
大嶋 TINGARAを辞めて僕が暇そうにしていたら、ビクターのディレクターから、山内さんを知っていますよね、一緒にやりませんかと連絡があったんです。その際、宮良牧子と上原まきという二人の素晴らしいシンガーがフロントで歌ったんです。
── 宮良さんは石垣出身ですが、その頃は石垣にいたんですか。
大嶋 いえ、ずっとこっちです。彼女は多分、高校出てから那覇なんかも経由せずに、いきなりこの神奈川、東京とかに住んでいると思いますね。
── チュラマナは今振り返るとどんな音楽性だったと思いますか。
大嶋 ものすごく正直に言っちゃうと、そのビクターのディレクターの企画ものだったんですね。山内さんがスラック・キー・ギター、僕が三線を弾いて、ハワイアンと沖縄のミックスみたいな感じでした。でもハワイと沖縄のトラッドのアレンジだけだともう100%企画ものみたいになるので、僕がオリジナルをやりたいと主張して、2枚出た各アルバムで1曲ずつオリジナルを提供しました。
── そして、ギタリストの梶原順さんとも2010年ぐらいから、coco←musikaというユニットをやってるんですか。
大嶋 そうですね。順さんとも飲み屋で知り合いました。
── coco←musika は2019年の秋にプラッサンゼで見たことがあります。マルセロ木村さんとコモブチキイロウさんが結構フューチャーされるような感じでやっていました。そしたら、その後マルセロさんは渡辺貞夫さんのサントリーホールの公演に呼ばれたりとかしました。
大嶋 僕以外のあの日の3人は、全員渡辺貞夫さんとやっているんですよね。
── そして、知り合ってから30年、ついに笹子さんとグループを組んだわけです。それも、たまたま一緒に飲んだことがきっかけなんですか。
大嶋 笹子さんが昨年『PLATAFORMA』を出した時、僕のラジオ番組に来てくれた事があったんです。オンエア後は飲みたいわけですが、当時お店には飲みに行けない時期でしたから、ちょっと途中下車してうちで飲みませんかと誘ったんですよ。家飲みだといつもとちょっと雰囲気が違うんで、普段と違う話になったんです。その際、一緒にやるという話がぽろりと笹子さんから出ました。
── 当初は、ソングライターのユニットを始めようということだったんですか。
笹子 コロナ禍で暇だったので、曲を沢山作って、それを作品集『PLATAFORMA』やコーコーヤの『TASTE』というアルバム、あとアニメの『ARIA』のサウンドトラックなどに振り分けていったんです。なんか昔は作曲するのが苦痛で好きじゃなかったんですよ。でも、時間に余裕があったからでもあったわけですけど、作曲がちょっと面白くなっちゃって、もっと作曲をやってみようかなって思っていたところだったんです。だから飲んでいて、曲を作らないかというところから話が始まりました。あ、これはちょっと面白いかもしれないと。
大嶋 オリジナルの曲を作るプロジェクトなんだというのは、一致した見解でしたね。
── そして、ジュスのnoteを読むと、なんか神がかったようにポンポンと曲ができたようですね。
大嶋 そうなんですよ。
笹子 プレッシャーを感じるほどに、次々にデモが送られてきました。
大嶋 はい、ちょっとプレッシャーかけました(笑)。笹子さんが忙しいのは分かっているけど、僕がポンポンポンポンと毎日のようにデモを送っていたら絶対いい刺激なるだろうと思いました。
笹子 こっちは、それにのせられたっていう。その後、歌詞もポンポンできちゃってたよね。
── そして、シンガーを立てるという行き方も定まっていったんですね。
大嶋 とにかく歌を創作するプロジェクトだとなり、たとえば一曲ずつ曲に合うシンガーを呼ぶこという事も二人で話したりもしました。それこそ笹子さんにはいっぱいヴォーカリストのリストがありますから。いろんな話の中、じゃあ宮良牧子はどうですか?という話をしたと思うんです。彼女が笹子さんのギターで歌いたいっていう気持ちをずっと持っているのは知っていたので。
── 歌詞を作った時は宮良さんが歌うことを想定していました?
大嶋 多分、宮良牧子に歌ってもらうとなってから書いたと思います。でも、特定の歌い手を意識してというよりは、もうそのメロディから歌詞は全て出てきましたね。
── “架空の島唄”を作ろう。そういう気持ちもあったんですよね?
大嶋 最初、笹子さんとの間でキーワードみたいになってたんです。そして、それはまあ今もある程度変わっていないと思いますね。
── すごい分かりやすいワード、形容だなあと思います。
大嶋 憧れとして “てぃんさぐぬ花” とかがあって、ああいう曲って誰が歌詞や曲を書いたかもう分からないじゃないですか。でも、皆が歌える歌ですよね。“てぃんさぐぬ花” みたいに、笹子重治もゲレン大嶋も知らない人が僕たちがあの世に行った後に、僕らが作った曲を口ずむというのが究極の夢なんです。“てぃんさぐぬ花” みたいな曲が一曲でも二人のこのプロジェクトから生まれたらと思っています。
── 今の説明はよく分かります。とにかく万人の心に届くようなメロディや情緒があり、まさにエヴァーグリーンであると思えますから。
大嶋 それを狙って作っているわけじゃないですけど、そういう夢はやっぱりどこかにあります。このジュスっていうユニット名も、口ずさむっていう意味の古語なんです。
── 話は前後しますが、三人でやろうってなったのは、いつぐらいでしょうか。
笹子 去年の夏ぐらいですかね。そして、デモ音源録ったのが今年の1月ぐらいだよね。
大嶋 レコーディングしたのが、今年の春。5月4日にマスタリングが終わりました。
── 仕上がったアルバムを聴くと、どちらがメロディを作った曲か分からないです。
笹子 ほんと分からないですよね。
── だから、最初は飲み話から始まったかもしれませんが、お二人にどこかでちゃんと響き合うというか、重なりあう部分があるんだろうなと思いました。
笹子 いや、そんな立派な事ではないです(笑)
大嶋 僕の場合、今まで僕が聞いてきた笹子さんのギターとか、曲とかっていうのがいいインスピレーションとしてありました。
笹子 それは、すごくアレンジしても感じました。なんかこっちを考えたような曲作りみたいですごいやり易くて、面白いアレンジができたと思うんです。逆に僕の方は琉球の女性の声で歌われるっていうイメージが、なんとなく全体にありまして、やはり僕の方がシンプルになるんです。でも、こちらの作るものには全然琉球旋律は出なかったのは個人的に面白かった。
── 今おっしゃったように、アレンジは笹子さんがおやりになっています。シンプルながら風情がありますよね。
笹子 アレンジを散らすとか、そういうことを考えずに曲に向き合い、これはこれ、これはこれみたいな感じでしました。そうしたら、こうなりましたって感じです。宮良さんってすごい勘のいい歌手で、こっちの要求を一言言うともう完全に理解するんです。それが分かったら、余計にアレンジしやすくなりましたね。
── いい歌手ですよね。ちゃんと地に足つけているんだけど、そのうえでニュートラルにいろんな人に訴求できる広がりとしなやかさを持っています。
大嶋 まさにその通りだと思います。民謡的な歌い方もできるんですけど、民謡歌手のそれでは全然ないですよね。
── 宮良さんの根は石垣であり、子供の頃は民謡をばんばん歌っていたりしたんでしょうか。
大嶋 すごいやりたかったわけじゃないと思うんです。むしろ洋楽的なものとか、普通にポップ・ミュージックを好きな人。僕たちも民謡をやろうと思っているわけではなくて、当然沖縄的なものを活かしてはいるものの洋楽的なものが背景にあるんで、それらが混ざった音楽をうまく表現できる歌手はなかなかいない。
笹子 そうなんです。
大嶋 もちろん、洋楽だけ歌ってきた人にもできないっていう。
── それから、もう一つキーとなる人に、名嘉睦稔さんがいますね。今作のジャケット・カヴァーの絵を提供しているだけでなく、2曲で歌詞を書いています。
大嶋 もう、睦稔さんはすごいです。版画家で、僕はTINGARAの時から縁が深いんです。TINGARAってそもそも睦稔さんの絵に合うような音楽を作りたいというのが最初のコンセプトでしたし。それで、僕が歌詞を書きだす前に、笹子さんが昔ながらの島のオリジナルな言葉、島言葉を使った歌詞があるといいよねとおっしゃったんですよ。睦稔さんはりんけんバンドの照屋林賢さんに頼まれて島言葉の歌詞を昔いっぱい書いていたんです。それがとても素敵でした。とはいえ、睦稔さんは沖縄アートの巨人なのでちょっとビビりながら連絡を取ったら、うんいいねとご快諾いただいて、笹子さんの曲と僕の曲に1曲づつ書いてもらいました。うち、笹子さんの “行ち戻(むどぅ)い” という曲は大きな一つのメロディが繰り返されるんです。それって実はできそうで一番できないことと僕は思っていて、要はAメロやBメロがあってサビがあるということではなく、一つのメロディが始まり一周して終わり、それがまた一周して終わりっていう大きななメロディ一つで成立する曲なんです。作曲する人だったら分かると思うんですけど、それはなかなかできない。そんなメロディに乗せた睦稔さんの歌詞の響きがまたとても音楽的なんですよね。
笹子 そう、すごい音楽的で存在感があるんです。
大嶋 一気に知らない景色が広がり、どこかに連れて行かれる。笹子さんの展開しない大きなメロディとこの歌詞が一つになると、不思議な呪術的なものを呼び起こすんです。
笹子 睦稔さんに歌詞を書いてもらう曲を作りましょうという話になった時に、琉歌がいいんじゃないかと思ったんです。琉歌というのは琉球の古い歌詞の形式で、88886……。たとえば “てぃんさぐぬ花” とかがそうなんですよね。それで、琉歌を作ろうじゃないかと思ったわけですけど、するっとできちゃって、すごく嵌りましたよね。
大嶋 睦稔さんもサンパチロク、8886で書くのが一番得意なんですよ。
── 楽曲なんですが、アルバムに収録された以外の曲も作っていて、そこから選んだという感じですか。
笹子 そうですね、その中から今作の曲を選んだという感じです。なんかあと一枚分あるので、もう一枚はとにかく作るつもりです。
── だから、ヴォリューム1となっているんですね。
笹子 ええ、最初は2枚組にしようかと言う話もあったんですよ。
大嶋 ですので、次も絶対出します。
── 笹子さんのギターと大嶋さんの三線、その重なりや棲み分けが考え抜かれているなとも感心しました。
笹子 ギターはまあ、普通にいつもの仕事しています。それはゲレンさんが考えているんですよ。
── また、隙間を活かした作りながら、フルートやチェロやピアノ、さらにリズム・セクションを絶妙に入れた曲もあります。
笹子 まあ、僕が普段やってる方にやっていただいているだけでして。
大嶋 林正樹(ピアノ)さんとはあるライブの打ち上げで、笹子さんと曲作りをしていると言ったら、ぜひ弾きたいとおっしゃっていただきました。
笹子 彼と知り合えて、本当にお得だったなあ。あんな素晴らしい人を使えるなんてなんてラッキーなことか。
大嶋 ヤマカミヒトさんも本当に素晴らしかったですね。僕は完全に初めましてだったんですが、ヤマカミさんのフルートがメロディーに沿ってくれたり、三線のフレーズに沿ったり、でもちょっと離れたりみたいなさじ加減がものすごくよくて、音色もいい。
── 別の曲では Saigenji がフルートを吹いていたりもし、そこからはこの曲で吹くことができて嬉しいなあという感じが横溢しています。
大嶋 もう笹子さんの狙い通り。皆、はいって感じでこなしてしまう。
笹子 皆本当に慣れているので、なんかありがたい事です。
大嶋 コモ(ベースのコモブチキチロウ)さんと石川(パーカッションの石川智)さんも素晴らしかった。また、橋本歩さんのチェロも良かった。アルバムの最後の渋い曲が、チェロが入り極上のものになったと思います。
── 『サガリバナ~島をくちずさむ Vol.1』はすべてオリジナルで固められているというのが重要というか、素晴らしい事だと感じます。存在する良い曲を我々なりにやるんじゃなくて、一から普遍性を持つ自分達のオリジナルを用意し、多くの人に届くようなものを鋭意提出しているっていうのが、僕にはすごい意義深いと思えます。
笹子 チャレンジですよね。自主制作だし、これをどこまで多くの人に聞いてもらい、いかに多くの人に歌ってもらえるかっていうのは。だめもとではあるんですけど、沖縄でもこのプロモーションを設定したりして、まあどこまでいけるんだろうかとやってみます。曲には自信がありますけど、その自信がどこまで世間様に通じるのか、これはちょっと楽しみなチャレンジですね。
(ラティーナ2022年7月)
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