[2021.08]【連載 アルゼンチンの沖縄移民史⑦】もうひとつの戦争体験
文●月野楓子
オリンピックが終わった。言いたいことは色々あるけれど、ひとまず置いておくとして。
沖縄では、空手の喜友名諒選手が沖縄に初めてのオリンピック金メダルをもたらしたことに沸いた。喜友名選手の行きつけという食堂のおばぁが嬉しさで踊っている様子がテレビで流れ、見ているこちらまで嬉しい気持ちになった。
喜友名選手の母校は沖縄国際大学だ。大学のwebサイトにも早速お祝いのメッセージが掲載された。そこで同時に目に入るのは、8月13日「普天間基地の閉鎖を求め、平和の尊さを語り継ぐ集い」の文字である。
沖縄国際大学が位置する宜野湾市は、「世界で最も危険な基地」とも呼ばれる普天間飛行場をど真ん中に抱え、大学と基地はほぼ隣どうし。「普天間基地の閉鎖を求め、平和の尊さを語り継ぐ集い」が8月13日に行われるのは、17年前のその日、大学に米軍のヘリが墜落したためだ。
校舎は焼け崩れ、現場には米軍が規制線を張った。大学構内にもかかわらず大学関係者はおろか日本の警察すら入れず、入れた時にはヘリの残骸等の証拠は撤去されていた。大学は当然飛行停止を求めたが、実行されたのは2か月足らず。当時の外相町村氏は、「操縦士の勘が鈍るから」というのを飛行再開容認の理由としたという話もある。
エンパシーのかけらも無く、驚くほど軽薄で、出来事も言葉も軽んじる日本の政治家に、沖縄はどのようにうつっているのだろう。「どこ向いて仕事してんだよ」の不信感は減じるどころか今も募る一方だ。
戦争を今も可視化させ続けているのが基地の存在である。基地は米軍が住民の土地を接収して作られたわけだが、戦前に移民した人々は、76年前、日本・沖縄とは別の場所で終戦を迎えた。今回はアルゼンチンの沖縄移民と戦争の話をしたい。
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前回、沖縄における「世替わり」と文化政策の変遷に触れたが、「日本」に組み込まれた沖縄にとって自らの文化が否定・抑圧されるという時代は後に複雑な感情を形成した。移民先で他府県出身者から差別を受ける事もあり、自らの生活文化さえ人目を気にせざるを得なかった(例えば、渡航時に携行した三線は押入れに隠れて弾いた)。しかし、後に沖縄の文化は移民先において大きな力を持つこととなる。その変わり目となる太平洋戦争、第二次世界大戦を、アルゼンチンの沖縄移民社会はどのように経験したのだろうか。
日米開戦時の移民社会
ブラジル移民の転住から始まり、呼び寄せによって広がったアルゼンチンの沖縄移民社会には、決して大きな規模では無かったが人々の往来が継続していた。しかし、1941年124名の渡航を最後に移民は中断する。
太平洋戦争が始まり、アメリカでは危険とみなされた日系人たちの大規模な強制収容が行われた。ペルーやブラジルも早々に日本との国交を断絶し、日本語学校は閉鎖、日本語新聞の発行も禁止に追い込まれた。アルゼンチンの日本人社会の間にも不安は広がったが、他国における日本人の扱いと比較すると、アルゼンチンでは戦中を相対的に「穏やか」に過ごすことができたといわれる。自国の利益やアメリカ大陸における覇権を重視したアルゼンチンは、アメリカ合衆国への追従を好まなかった。そのためアルゼンチンの参戦は他の南米諸国よりも遅かったが、1945年3月ついに日本へ宣戦布告、日本人は「敵性外国人」となった。
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