[1982.10]連載⑤(最終回) アストル・ピアソラ物語 〈変化と回帰〉
この記事は中南米音楽1982年10月号に掲載されたものです。
アストル・ピアソラは、1921年3月11日生まれ。ピアソラの生誕100年を記念し、当時の記事をそのまま掲載いたします。
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文●高場将美
1 ひろがる音楽世界/今日のひびき
ブエノスアイレスのたそがれ時……、なにかがある……、でもオレにはうまく言えねえなあ……。酒で焼けた声帯で歌手ロベルト・ゴジェネチェが語る『ロコへのバラード』の導入を全市民が、真似した。さわりの「ローコ!ローコ!ローコ!」を歌った。
69年はアストル・ピアソラという名前が、史上最高のロコ(きちがい)性に包まれた年である。
新開店した大規模なコンサート・バー《ミケランジェロ》に5重奏で出演、このクラブは、植民地時代からあった地下倉庫で、一説には抜け穴が市内各所に通じていたともいい、革命家の隠れ家だったとか、海賊あるいは、密輸商の秘密の家だったとか……。かまぼこ型の天井から壁は、ひとつづきの煉瓦になっていて、今は白く塗ってある。この神秘と想像をかきたてる世界に新しく動くひびきがこだました。5月(日本の11月の気候)に発表した『ブエノスアイレスの秋』が聴くものをロマンチックに酔わせる。
キンテート(5重奏)と共演する歌手は、『ロコへのバラード』の創唱者であり、みんながピアソラの新しいおんなだと知っているアメリータと、ピアソラ・ファンが7年前から知っている高い技術のエクトル・デローサス。
年末から半年間、キンチートの演奏会はロングランする。
はじめてのピアソラ・ブームだった。かつての師であり、タンゴ・ファンの間では神様を超える存在であるバンドネオン奏者アニバル・トロイロと、対等という以上の立ち場で共演し、レコードを録音する。『ロコへのバラード』『チキリン・デ・バチン』『白い自転車』…… フェレールは最良の詞をつくり、ピアソラの音楽が完璧に乗ってヒットする。
時の人となったピアソラは、ヨーロッパ旅行、ついでに演奏し、以前から尊敬あるいは注目されていたことに加えて、『ロコへのバラード』を中心にしたアピールも、しっかりおこなった。
ピアソラは、もともとローカルな偉人で終わることは、たとえばタンゴの最高峰になることは、アーチストとして不具だと思っていた。あの、どん底の59年にニューヨークでウォルドーフ・アストリア・ホテルに出演できたとき、この次はカーネギー・ホールだとアルゼンチンに手紙を書いたほどだ。
世界ピアソラにならなくては!
71年の末に、ピアソラは新たな意欲でほとんど『ブエノスアイレスのマリア』と同じ音楽家を集めて《コンフント・9(ヌエべ)》を結成した。最高の9人だった。
この《9》はブエノスアイレス市から給料をもらう高級公務員となり、「今日のブエノスアイレスのポピュラー音楽」として、各地でリサイタルをひらいた。市の文化使節なのである。これを実現した市のお役人はじつに立派だ。
キンテートに、第2バイオリン、ピオラ、チェロ、パーカッションを足した9重奏団は、筆者の考えでは、ピアソラ音楽のすべてを表現できる理想的なものだと思う。この編成は、楽団経営の収支計算さえうまくバランスがとれれば、今日でもピアソラのグループとして生きているはずだ。
ピアソラは《9》によって、71年8月に亡くなった至高のバイオリニスト、エルピーノ・バルダロに献げる『バルダリート』という名曲・名演をのとした。
バルダロは16歳のピアソラをとりこにした、彼をタンゴのロマンチシズムに陶酔させ、神秘のブエノスアイレス音楽にひきこんだ、幻の6重奏団のリーダーだった。
バルダロの死によって、ピアソラは、はっきりとタンゴの滅亡を感じたのだろうか?
価値ある伝統に根ざした魔神にささげる『バルダリート』のあと、ピアソラの《9》はビートルズ世代の音楽に接近をこころみる。ピアソラの最後のタンゴ…
2 ローマ、パリ、リオ/何処へ?
バルダロのバイリンのひびきの継承者であるアントオ・アグリ、バルダロ6重奏団の第2バイオリンだったウーゴ・バラリスを抱いた《9》は解散する。
私の音楽には、ロックやビートルズやイギリスのフォルクローレや、グレゴリオ聖歌もあると言ったピアソラ。これこそ今日のブエノスアイレスのひびきなのだと信じたピアソラは、《9》以後、どんどん音楽表現の世界を広げるとともに活動の舞台もアルゼンチンにとどまらなかった。
イタリアはローマに住み、ミラノでレコード録音、フランスに行けばパリの精神的な中心に宿る、ブラジルの若者たちと気持ちをわけあう。
やっぱりピアソラの精神は、『ロコへのバラード』が歌っているように、ピアンタオ(いかれてる)だったのだろう。
約10年間、ブエノスアイレスに閉じこもっていたあと、新しい愛情の対象も得たピアソラは、思いきり飛びまわりはじめた。
たまにキンテートでプエノスアイレス公演もしたけれど、多くはバンドネオン独奏と現地のオーケストラで、時に詩人フェレールと新妻で歌手のアメリータと一緒に出演していた。
思いがけず、ポピュラー音楽にしては長大すぎる曲『ロコへのバラード』が大衆に口ずさまれたので、今までエリートの音楽家だったピアソラも狂ってしまったのだろう。
でも、クオ・ヴァディス・ドミネ。
主よ、いずこに行き給うや?
私ごとながら、ファンは苦しかったですよ。筆者がピアソラ・ファンになったのは、というより狂信者あるいは、中毒者になったのは『ブエノスアイレスのマリア』、すぐあとのキンテートの『アディオス・ノニーノ』『ブエノスアイレスの秋』のレコードからだった。そのあとにすぐ続いて『バルダリート』のレコード解説で「彼の母体となった黄金時代のタンゴへの尊敬をこめたこの作品は、おそらく文字通り《ラスト・タンゴ》となるに違いない」と、たいへん僭越なことを書きなぐっている。(あの映画『ザ・ラスト・タンゴ・イン・パリス』の話題になったころだった)
そして、確信をもちながらも、はずれてほしい自分の予想が、取り返しのつかない現実にどんどんなってゆく73~78年のピアソラ音楽。映画音楽『リュミエール』のB面に入っていた『トロイロ組曲』あたりで、ブエノスアイレス・イコール・ピアソラ(と私は感じた)のきづなを保っていただけであった。
私は悲しかったです。ピアソラはもう聴くまいと思いました。ローマとか、パリとか、ニューヨークという魅力的な世界の街が滅亡して、ブエノスアイレスとその対蹠地トーキョーだけでいいと思いました。どーして、外国へ行きたいのでしょーか。も勝手にして。オワリ。
でも、ピアソラは、たしかに良い仕事もしていた。『リュミエール』は女優4人の4つのエピソードから成るものだそうだが、その1つの主役で、監督したのはジャンヌ・モローだった。音楽は当然タンゴではないが、とても良い。
アルゼンチンでは、アストルとジャンヌのロマンスが噂になった。よく解らないけれど、アストルはレコード解説に、「ジャンヌは美しい、でも私は醜い」となんとなく胸を打つ一言を寄せている。
このころは、4年間ほどのゆっくりした進行の結果、アメリータ・バルタルとは別れようとしていた。
もう『ロコへのバラード』は終わろうとしていたのだろう。ピンクの最後の遊びだったのか……。
3 最後の大混乱/ピザパイの匂い
ヨーロッパで主な活動をしていた時代にTVやコンサートで、ピアソラと共演したアーチストは、ミーナ、ミレーユ・マチュー、ジョルジュ・ムスタキ、エロール・ガーナー、ジェリー・マリガン、パティ・スミス等。
マリガンとの共演LPには、まったく新鮮さはなかった。20年前に、マリガンの8重奏団をパリで聴いて、ピアソラは即興のよろこびをもった《ブエノスアイレス8重奏団》のアイディアを得たというのに、モダンジャズの偉大な中心人物は、もう前進も創造もできないでいた。
ピアソラは言う。
「マリガン=ピアソラのLPがつまらないって? だって、マリガンはピアソラの音楽をやってるだけなんだから、仕方ないよ」
まあ、そこにはプロモーターとか制作者の問題があったのだろう。
エジプト生まれのギリシャ人シャンソン歌手ムスタキとの共演では、ピアソラは作曲・編曲演奏で、なかなかの手腕を発揮し、「異邦人」同士でメッセージを訴えた。パリのオランピアで、ムスタキとのジョイント・リサイタルのとき、ビアソラは喜んで、あいさつした。
「今まで、南アメリカというと、パリのみなさん、つまりヨーロッパの音楽ファンはフォルクローレを受け入れていたんですね。アンデスのケーナのブームが、最近までありました。それから、ギターを弾きながら歌う詩人が成功しました。これは私も大好きです。特に、みなさんがいちばん感激したのがアタウアルパ・ユパンキですからね。私にとっても、実にうれしいことです。
そして今、私のタンゴに拍手してくれる。ありがとうございます。みなさんのお父さんやおじいさんが好きだったタンゴとは違うでしょうね。でも、これはアルゼンチンの音楽です」
これは本音だった。ユパンキについては、ピアソラはずっと前から「2つの音だけ弾いて感動させる、本質的な音楽性と霊感の美しさ」を絶賛している。ビアソラは直覚の音楽家を愛し、それはユパンキであり、タンゴではゴビやプグリエーセだった。それらのアーチストの知的な研究や論理の研鑽はさておき、即興の創造力に感嘆していた。
ところで、ピアソラのグループの楽器編成は(独奏での出演も、ヨーロッパでは多かったが)——
75年末には、バンドネオン(白身)/バイオリン/エレキギター/ピアノとフェンダー・ビアノ/エレキベース/オルガン/ドラムス/シンセサイザーとパーカッション/男性歌手。
さらに進んで、77年には、バンドネオン/シンセサイザー/オルガン/フルート/ピアノ/エレキベース/ドラムス/エレキギター。(バイオリンなし)
たしかに、メンバーは非常にすぐれていた。アルゼンチンのプログレッシヴな音楽、ロックやジャズあるいはフュージョンの最良のミュージシャンだった。アルゼンチンの今日の音の代表者だった。
でも、ピアソラのサウンドは、どんどん混乱していた。
避けられないことである。
いつも柔軟な感受性と、若々しい創作意欲をもっていたピアソラだが、もう動きまわる音楽は作れなかった。それでも先頭に立って動きたかったから、そしてアルゼンチンでは彼よりも創れるアーチストがいなかったから、ピアソラは国際的な名声が許すかぎり動きまわった。
あの《9》の『ヒッピーへオード』以来の、若者への働きかけだった。しかし、若者はなかなか動かなかった。
ヨーロッパでの大混乱の活動のあと、ピアソラは自分とりもどす。
「おれのタンゴは、ピザパイの匂いがするといわれたよ。考えてみたら、その通りさ。だからブエノスアイレスに帰ってきた」
イタリア人マネージャーと別れ、アストル・ピアソラは、ぐるぐる廻った末にアルゼンチンに帰ってくる。原点とは、ブエノスアイレスの感情、タンゴの魂であった。
4 回帰の新時代/永遠の個性
78年、ピアソラは約3度めの、約10年ぶりのキンテートを組織した。ギタリストをのぞいて、メンバーは変わった。先輩のタンゴの大家たちに次ぐ世代の最高のバイオリンとベースの奏者、ジャズ志向の隠れていたピアニスト。全員がしなやかさ、すなわち若い精神において、かつての輝かしいキンテートのメンバーを超えている。
おれはもうシンセサイザーやドラムスには飽きた。これが最後の変化だ。5重奏団にもどり、これでよい。—— とピアソラは語った。ファンにとっても、うれしいことだった。
それから4年ほどたっても、ピアソラは交響楽団とのコンチェルトのほかは、いつも5重奏団でステージにあがっている。ほんとうに、変化しそうもない。
レパートリーも、ほとんど変わらなくなった。アストル・ピアソラは、これまでの仕事を読みかえす時期に入ったのだろう。
独立した音楽家となってから30年あまり、表現法は変化しつづけたけれど、アストル・ピアソラはいつも自分の音楽をもっていた。その本質は少しも変わっていない。アストル・ピアソラはいつも同しだった。
高い技術をもって、しかし直覚によって音楽をつくってきたピアソラは、どんな時代にも個性的だった。オルケスタ・ティピカの伝統的な編成のときにも、ピアソラの音がしていた。
タンゴのリズムを改革し、自身のメロディを歌いあげる。アストル・ピアソラの個性は永遠だ。その個性は、いつのまにか、ブエイズイレスの、あるいは今日のアルゼンチンの新しい個性そのものにまでなっていた。ピアソラは異端児だったはずだが、ゆれ動く60年代から正統派になってしまった。タンゴはピアソラを必要としていた。
ピアソラもまたタンゴ性を必要としていたのだ。外国人との演奏活動、タンゴの根をなくした創造活動では、ピアソラの個性も薄いものになっていた。
タンゴ気質をとりもどしたキンテート編成で、アストル・ピアソラは変化でなく完成の時代に入る。選ばれたレパートリーは、新曲ばかりではないが、表現はより深く、新しい。
20分間かけて『AA印の悲しみ』を演奏しながら、アストル・ピアソラはタンゴの歴史とバンドネオンの宿命を、自分とのかかわりあいを通じて語りかける。今まで隠れていた神秘の内部をさぐっている。
ピアソラの新しく古い時代がはじまった。自分の中へ帰っていく時代だ。
まだ老いてはいない。ピアソラの音楽は若者のもつことができない強い精神によって動かされつづけている。抑制されているから、なおさら力強い表現。内部にむかって輝いている光。
アストル・ピアソラの物語りは、また始められた。
10年前に、オラシオ・フェレールが書いた『ブエノスアイレスのマリア』の終幕にこんなことばがあった。
「お願いです、わたしたち見物人にも教えてください。このタンゴの歌詞はもうできていたのですか?それともこれから作るのですか?」
ピアソラのタンゴもまた、すでにできていたものであり、これから作るものでもある。
終わりはない。
(中南米音楽1982年10月号掲載)
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