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[1982.08]連載③ アストル・ピアソラ物語 〈成功の時代〉

この記事は中南米音楽1982年8月号に掲載されたものです。
アストル・ピアソラは、1921年3月11日生まれ。ピアソラの生誕100年を記念し、当時の記事をそのまま掲載いたします。
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文●高場将美

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1 ウェルカム・Mr・ピアソラ

 ニューヨークでの、どちらかというと悲惨な人生でアストル・ピアソラが学んだものは、いわば職業的な責任感であった。自分の好きなことをやるためには、妥協しても安定した仕事をしつづけていないといけない、というようなことだ。残念ながら、革命児もオトナにならざるを得なかった。
 くるしみの代償に『アディオス・ノニーノ』という名曲が生まれたのだから、音楽家の魂は死ななかったのである。
 ほんの少しのたくわえをもってブエノスアイレスへ家族とともに帰ってきたピアソラは、さっそく仕事をはじめた。まずエスプレンディ放送局オーケストラの編曲指揮。ニューヨークではキャバレーのショーの伴奏をしていたのだから、愛するアルゼンチンでの歌手の伴奏くらいなんでもない。どんな曲を渡されても、よろこんでアレンジした。楽団のメンバーもみんな知っている顔だ。ふるさとに帰ったうれしさは、妥協を妥協と感じさせなかった。
 考えてみれば、それまでの約5年の指揮者生活で、好きな曲しかやらなかったというのは、幸福すぎることだったのである。
 やがてTV9チャンネルの専属にむかえられ、局は歓迎プログラム「ウェルカム・ミスター・ピアソラ」を作った。
 60年…… 新しい時代が動いていた。
 ピアソラが留守にしていた3年間に、タンゴ界も変化していた。
 かつてピアソラのブエノスアイレス8重奏団のメンバーだったジャズ好きのギタリストとベーシストはクラリネット奏者パンチート・カオと一緒に、ひどく単純なディキシーランド・スタイルの古典タンゴをやって大成功。その余波と、経済的な理由から、小編成グループがたくさん登場して成功していた。
 クラシック志向の編曲者アルヘンティーノ・ガルバンの室内楽タンゴのレコードが作られ、独奏者の名人芸や高い芸術性をもとめる動きが、商業的な成功とはべつに目立ちはじめていた。
 フォルクローレの人気がタンゴを圧倒しはじめていた。大河地方の明るい歌謡で女性歌手ラモーナ・ガラルサが映画とレコードで大スターになり、ギターをもった十代の若者たちがサンバ『アンヘリカ』を歌う。ヴォーカル・トリオによるフォルクローレは、全国的な、アルゼンチンの歌を代表するものに、すでになっていた。
 モダン・ジャズは、映画を通じて、世界じゅうの知的な若者の愛する音楽になった。ブラジルのボサノヴァが話題になる。レコードはステレオ録音の時代に。
 キューバ革命が成功した。
 世の中は、はっきりと激しく動きはじめたのだ。そこに生きていくもののくるしみも、より深く自覚される時代が始まった。……ウェルカム・ミスター・ピアソラ。 5年前に革命に失敗(?)した男の出番が、またやってきた。

2 676……名士ピアソラ

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 61年に、ブエノスアイレスのサンマルティン広場の近くに《ハマイカ(ジャマイカ)》というバーができた。経営者はマトラフ氏といって、芸能界の人ではなく、工科畑から出た事業家だった。ニューヨークのキャバレーでピアソラを見つけて「なんでこんなことをする!」と怒った人である。彼はNYのジャズの店みたいな、安く音楽を聴くだけのためのバーを目指した。
 出演はサルガン=デリオの2重奏とアルゼンチンのジャズ・コンボ。そしてアストル・ピアソラは5重奏団をつくって演奏した。
 お客が来すぎて狭くなったので、マトラフ氏は、より都心に近いトゥクマン通り676に《676》という店をつくった。花のフロリーダ通りとも近い。
 62〜64年、《676》に出演した期間が、ピアソラの最高潮期のひとつだ。ここで、はっきりとキンテート(5重奏)の型が定まり、ファンに認められた。
 バンドネオン、バイオリン、ピアノ、ベース、エレキギター。伝統と革新の両方をカヴァーできる、タンゴのすべての音色をもつ、最小公倍数の編成。コンパクトにまとめられたアンサンブルと、各人の自由な動きを、ともに可能にする小さなオーケストラだ。
 モダン・ジャズやボサノヴァにもある内密的な音楽趣好、時代の経済的な要求にも合っていた。それは、社会的に大きな階層となりはじめた。新しい、知的な中産階級の愛する音楽であった。『ピアソラと共に』の著者エスペラティが皮肉に定義する「大学文学部の夢を結婚式の日に忘れて、プールつきの週末を夢みる」世代と階層の音楽である。
 ピアソラ5重奏団と前後して、サルガン=デリオ、そこから発展した名人芸の即興演奏《キンテート・レアル》、バンドネオン奏者エドゥアルド・ロビーラのモーツァルトと現代音楽による《現代タンゴ集団》、単純スタイルだが名人芸たっぷりの《パ・ケ・バイレン・ロス・ムチャーチョス》など、聴かせる小編成グループが登場する。オルケスタ・ティピカの独占時代は完全に終わった。
 新音楽の中心地《676》に、ピアソラを聴きにきた人たちは——アルゼンチンの各ジャンルの音楽家全員、アメリカからスタン・ゲッツ(この店に出演もした)、モダン・ジャズ・クアルテット、ディジー・ガレスピ、サラ・ヴォーン、フィラデルフィア交響楽団、ブラジルからジョアン・ジルベルト、オス・カリオカス、マイーザ…… 要するにブエノスアイレスに仕事に来たまともな音楽家みんな、この店でアルゼンチンの新しい音楽に感激して帰って行ったのである。
 ピアソラは幸福だった。名士になったという以上に、みんなの支持がうれしかった。彼を信じて、愛する者が、ひとつの広い層になっていた。もう孤立した存在ではなくなった。
 ピアソラの側にも、自分勝手な音楽を押しつけるのではなくて、ひとに楽しんでもらおうという気持ちが出てきた。強烈な自我は失われることがなかったけれど、みんなにわかってもらえる範囲を考える余裕がある。
 5重奏団の演奏は、少なくともその初期は、たいへんシンプルだ。冒険がなく今日聴くと、ほとんど古典的スタイルに感じられる。それが、はじめて職業音楽家としての自覚をもったピアソラの良心だったろう。
 日本でも、最初の本当のピアソラ・ファンが生まれたのは、この5重奏団の、たとえば素晴らしいバイオリン・ソロのある『チケ』によってだった。いわば。20年代のデカロ6重奏団の好きなファンでもひきつける要素があったのだ。
 革命から一歩しりぞいて音楽を確立したアストル・ピアソラは、《676》でスターとなり名士となる。フランスに留学し、アメリカで活動してきた音楽家、そして音楽以外のところでは挑戦的な性格をいつももっていたので、論争とか次元の低い口ゲンカでジャーナリズムの話題にはことかかなかった。
 歌手JVが「ピアソラの演奏はひどい編曲なので何の曲かわからない」と言ったのに対し、「おまえの歌のメロディはどうなんだ」と答えたラジオ公開インタビューでの音痴論争はパンチの応酬(双方ともに空振り)になった。ピアソラ自身はケンカを仕掛けたことは一度もないと言っているが、売られたものは必ず買っていた。

3 われらの時代……天使と悪魔

 名士ピアソラの地位を確立させた5重奏団のメンバーを、少なくとも名前だけ挙げておこう。《676》の時期で——
 アントニオ・アグリ(ロサリオ市で、交響楽とタンゴをやってきた。首都で初めての仕事がピアソラのグループ。以後15年ほど共演するバイオリン奏者)
 ハイメ・ゴーシス(タンゴ、ジャズ、フォルクローレのスタジオ・オーケストラで広く活動してきた名ピアニスト。6年ほどピアソラのグループで演奏)
 キチョ・ディアス(トロイロ楽団にいた最高のベース奏者。いろいろなグループと平行して、5年ほどピアソラと共演)
 オスカル・ロペス・ルイス(ジャズ・ギタリスト。兄はアルゼンチン最良のジャズ・ベーシストで作曲家のひとり。中断があったが、今日またピアソラ5重奏のメンバーになっている)
 アストル・ピアソラ5重奏団は、年に2枚のLPを録音した。1枚は、たいへん妥協して、古典的名曲ばかり。『チケ』や『ドン・フアン』、女性歌手ネリ・バスケスを加えた『場末のバンドネオン』など。自作は2曲、そしてゴビの幻の作品『私の贖罪』を20年代のゴビ編曲そのままで録音しているのが、まあピアソラらしいというところか。
 もう1枚はすべて自作で、すでに知られている『コントラバヘアンド』『ノニーノ』『バンドー』や、新しい『アディオス・ノニーノ』『デカリッシモ』などだ。結局は、商業的なレパートリーの方よりも、自作自演のLPがよく売れたという(2枚ともRCAレーベル)。
 さて、《676》で大成功していた時期も、ピアソラや音楽家みんなは、すごくお金をかせいでいたわけではない。新しい音楽によって、演奏者と聴き手をむすぶ共感が、なにものにも代えられない熱と感情をつくりだしているのが、心のささえであったけれど、経済的な代償は大したことがなかったのである。40年代のタンゴ楽団の指揮者たちが、ほとんど百万長者になっていたのとはちがう。

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 そのうちに、よくあることで、同じようなバーがいろいろ出来る。経営者も変わる。60年代は不安定の時代だ。酒の値段が高くなる。音楽ファンには、しきいが高くなり、お客は減る。
 ピアソラ5重奏団は、はじめ《キンテート・ヌエボ(新)・タンゴ》と称していたが、62〜63年には《キンテート・ヌエストロ(われらの)・ティエンポ(時代)》と名乗る(録音CBSレーベル)。
 LP『われらの時代』(ピアニストはここから5年ほどオスバルド・マンシ)は『天使への序奏』と『天使の死』ではじまる。音楽家ピアソラの心の中には、どんな劇が思い浮かべられていたのかわからない。とにかく、この音楽にインスピレーションを受けて、劇作家ロドリゲス・ムニョスは『天使の死』を上演。
 それから3年ほど後に、ピアソラは反主題である悪魔を登場させ『タンゴ・ディアブロ』や『天使の復活』を含む作品群を発表している。
 その間に、64年には、トロイロ楽団から独立して20年になるのを記念して『前衛タンゴの20年』というアルバムを作った。闘士ピアソラも、自分の歩みをふりかえってみる余裕ができたわけだ。「アストル・ピアソラのオルケスタ・ティピカ」が初めて46年に出したレコードの曲『エル・レコード』に始まり、パリ時代の弦楽オーケストラの編曲で『インペリアル』、ブエノスアイレス8重奏団で録音できなかった曲『タンゴ・バレー』、5重奏団『カリエンテ』など。ティピカと8重奏団のピアノには、わざわざオリジナル・メンバーのスタンポーネを参加させた(フィリップス・レーベル)。
 これと平行して、《ラ・ノーチェ》という店には、チェロ、フルート、パーカッションを加えた「新8重奏団」で出演した。このレコードでは、俳優アルフレド・アルコンが、ピアソラの娘ディアナ(当時4歳)の詩を朗読している(CBSレーベル)。
 翌年には、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩によるアルバム『エル・タンゴ』が出た(ポリドール・レーベル)。
 この時代のアストル・ピアソラの音楽は、アルゼンチンの新時代の文化を代表するものになっていた。劇、現代舞踊、詩、あるいは絵画の各ジャンルで、きわ立った活動をしている芸術家たちが、ピアソラの音楽世界に共鳴し、そこからインスピレーションを受けて創作した。また、同じ時代の芸術家たちの作品から、ピアソラが精神をくみ取ることも多かった。
 アストル・ピアソラは、われらの時代のリーダーのひとりになった。タンゴの中でも異端ではなくなる。ピアソラの、より親しみやすい作品は、ふつうのタンゴ楽団がとりあげて、広く知られるようになった。64年ごろは、作曲家としての印税がたくさん入ってきて、本人もびっくりした。この年、劇音楽として発表した『ブエノスアイレスの夏』がヒットしている。
 そして、その裏側で、ピアソラの中の天使と悪魔のあらそいが続いていたのである。誰にも知られずに、傷は深くなっていった.....。

4 マンドラゴラ……ふたたび地下へ

 新時代のスターとしてのアストル・ピアソラの活動は、決して地味なものではなかった。アルゼンチン全国各地でのリサイタルの成功。レコードも1年に1枚半くらいのペースで録音。アルゼンチン政府派遣の文化使節団の一員として、ニューヨークのフィルハーモニック・ホールなどでの海外公演の大反響。
 そのような順調さの陰で、ファンが飛躍的に拡大した裏で、ピアソラ自身は創作力のおとろえを感じていた。ポリドール社の企画で、タンゴの歴史を名曲でたどるLPを録音したのも、気をまぎらせるためだったろう。少なくとも3枚のLPになるはずだったが、2枚だけ、古典から30年代までで打ち切ってしまった。
 重ねていうけれど、アストル・ピアソラのレコードにはたくさんの買い手がおり、商業的にも成果があがるものだったのである。
 すべてはピアソラ自身の内面的な問題であり、安定を好まない性格、いつも動いて変わっていきたい意志から、自然にでてくる必然的スランプだった。5重奏のスタイルを超えるものは見つからず、作曲意欲を刺激する感動が不足した。
 もう現代タンゴに定着した「ピアソラのリズム」、あの『アディオス・ノニーノ』のメロディ、そういうものを作らせた内部からのエネルギーが溢れてきた。
 知的なファン層に支えられていたけれど、ピアソラのタンゴはいつも直情的なものだった。計算して作れるものではなかった。
 ピアソラの精神生活の混乱をもたらしたのは、ある女性だった。ずっと後に、彼が『マンドラゴラ』という曲を捧げたひと、すなわち「毒の花」だった。彼は狂った。
 65年、アストル・ピアソラは、妻と娘と息子をのこして、バンドネオンとスーツケースひとつもって家を出た。23年間の結婚生活の終結である。わがままなピアソラを助けて、ずっと犠牲になってきたやさしい妻デデの悲しみは? 女流詩人になろうとしていた娘ディアナと、音楽家志望の息子ダニエルは、どう感じたのだろうか?
 ピアソラも悲しみ、くるしんでいた。でも、どうにもならなかった。仕事はつづけていたが、沈潜した、うつろな日々がはじまる。自分に正直な、まじめすぎる音楽家には、世間体をつくろって適当にすごす能力がなかったのである。

(中南米音楽1982年8月号掲載)


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