映画『バクラウ』解説 ─ パンフレットに解説を頼まれたつもりで勝手に新作ブラジル映画の解説文を書いてみた
文●花田勝暁(編集部)
※ブラジル映画『バクラウ 地図から消された村』は、現在、レンタルDVDや、映像配信で観ることができます。
パンフレット
2021年のアカデミー賞の作品賞を受賞することになる作品『ノマドランド』が日本公開された頃、観に行った人たちのSNSで気になる書き込みが散見されました ──「パンフレットが売ってなかった」──。
『ノマドランド』のパンフレットは、公開から遅れて発売にはなりましたが、『ノマドランド』は当初から作品賞受賞に最も近い作品という評判だったので、そんな作品のパンフレットさえ発売しなくなったのか、コロナ禍で劇場で鑑賞する人が少なくなってこんな影響も出ているのかと、売っていないということを知ったときは、驚愕したのでした。
本稿で取り上げる新作ブラジル映画『バクラウ 地図から消された村(原題:BACURAU)』(以下『バクラウ』と表記)に関しては、残念ながら、パンフレットが制作されませんでした。
しかしながら、『バクラウ』は、映画好きに丁寧に観てもらうべき作品だと思うんです。それにはパンフレットのような、まとまったテキストによる解説も一助になるでしょう。『バクラウ』は2019年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞しています。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』がパルム・ドールを受賞した年のカンヌ国際映画祭です。『バクラウ』はミュンヘン、リマ、ブラジル・シネマなどの映画祭では最優秀作品賞を受賞してもいます。
このような作品なので、ぜひ、日本でも丁寧に解説して紹介されて欲しかった。パンフレットには、ブラジル文化に詳しい大学の先生と、映画を観まくっている映画評論家の先生と、ブラジルのことをポップに書けるインフルエンサーの解説が並んでいるようなイメージで...。
しかし、現実には、パンフレットは制作されなかったし、ネット上にもまとまった解説はありません。
ならば、パンフレットに解説を頼まれたと勝手に空想して、解説文を書いてみようかと思います。そりゃあ、弱小解説文になるでしょうが、ないよりはいいでしょう。
自分のSNSにでも書こうかと準備を進めていた原稿ですが、e-magazine LATINA 上でブラジル映画特集をしているタイミングなので、ひとまず e-magazine LATINA 上に掲載してみることにしました。
──
まず、『バクラウ』についての、メディアの反応を紹介します。ブラジル国外の反応から。
「完全に傑出し、絶え間ない明快さと力強さのある作品」(Peter Bradshaw)── イギリスの新聞「The Guardian」
「『バクラウ』は不穏で、混沌期のブラジルでの熱っぽい夢。そして時には、それもまた楽しい。」 ── エンターテインメントニュースサイト「TheWrap」
「長編映画では珍しい例だが、もっと馬鹿だったり、もっと野心的でなければ、おそらく良い結果になっていただろう。(※もっと真面目さや、野心さが少なければ良かった)」── アメリカのエンターテインメント雑誌「VARIETY」
「感動的なほどにリッチなミックスだが、おそらく少しリッチすぎて、時に詰め込みすぎで、ところどころに火が通っていない」(Stephen Dalton)── アメリカのエンターテインメント雑誌「The Hollywood Reporter」
ここからは、ブラジル国内のメディアの反応を紹介。ブラジルの最王手メディア、グローボのポータルサイトG1では、
「ブラジル映画が得意とするリアリズムと、アクションやサスペンスなどのジャンル映画の特徴をうまく両立させていることはあまりない『バクラウ』は、批判、皮肉、そしてある程度のポップな面白さを正確に混ぜ合わせて公開が開始された」(Cesar Soto)
と評され、ブラジルの最王手の新聞Folha de S.Pauloは、『バクラウ』に5点満点の5点をつけ、
「『バクラウ』は明快で直接的な映画だ」
と評しました。
──
※以下の解説には、結末にまでは触れてはいませんが、ネタバレがあります!!!
UFO
映画が始まると、画面は、宇宙・地球・ブラジル・ブラジル北東部と近づいていき、一台のトレーラーが舗装も危うい道路を走っている姿が映し出されると、カエターノ・ヴェローゾ(Caetano Veloso)作、ガル・コスタ(Gal Costa)の歌う「Não Identificado(1969年)」が聴こえてきます。ガル・コスタのトロピカリア期のアルバム『Gal Costa』(ソロデビュー作)の冒頭を飾る楽曲です。
画面には UFO がチラチラ映ります。「Não Identificado」の歌詞には、映画内でも意味深に使われる…「UFO(Disco Voador)」という単語が出てくるのが象徴的です。
Eu vou fazer uma canção pra ela
Uma canção singela, brasileira
Para lançar depois do carnaval
Eu vou fazer um iê-iê-iê romântico
Um anti-computador sentimental
彼女のために歌を作るよ
シンプルでブラジルっぽいやつ
カーニヴァルのあとでリリースするように
ロマンチックな「iê-iê-iê(※ロックンロールから影響を受けたブラジルの歌謡曲のジャンル)」を作ろう
センチメンタルで反コンピューターなやつ
Eu vou fazer uma canção de amor
Para gravar num disco voador
Eu vou fazer uma canção de amor
Para gravar num disco voador
ラブソングを作ろうかな
空飛ぶ円盤に録音するために
ラブソングを作ろうかな
空飛ぶ円盤に録音するために
…
「Não Identificado」歌:Gal Costa 作詞作曲:Caetano Veloso|1969年
そこに、
ペルナンブーコ州西部
今から数年後
という、この映画の設定が表示されます。
トレーラーが何かを粉砕する音がします。何度も踏みつけたのは、棺桶でした。前を進むと棺桶を積んだトラックが横転しています…
ジャンル映画のミックス
ここまでで本編始まって2分ほどですが、すでに如何にもSF的な語法と、如何にもホラー映画的な語法が使われています。この映画が、「ジャンル映画のミックス」と言われているのは、こういうテクニックが多用されているからです。
トラックの運転席内のテレビの映像には、指名手配犯の顔が映し出され、懸賞金の話題になります。この技法は、西部劇的。実際には、この指名手配犯は、村の味方なので、ジャンル映画の手法への裏切りも、冒頭から混ぜられています。
映画のタイトルになっている「バクラウ」は、実際には(おそらく)存在しない架空の村です。「バクラウ」という言葉は、レシーフェ(ブラジル北東部)で最終バスを呼ぶときの愛称であり、それは、ブラジル内陸部に生息する夜行性の鳥の名前から来ています(映画内でも同様のセリフがあります)。先住民トゥピ族には「wakura'wa」と呼ばれていた鳥です。
Bacurau
架空の村「バクラウ」は、ペルナンブーコ州西部にあります。下の地図の赤く塗られた州がペルナンブーコ州です。海側が東側で、内陸側が西側です。
カーチンガ
下は、ブラジルの植生を図示した地図ですが、ペルナンブーコ州西部は、「Caatinga(カーチンガ)」と分類されているのが分かります。
カーチンガという植生は、有棘低木(トゲのある背の低い木)、サボテン、アガベ(南アメリカ北部や北アメリカ南部、中央アメリカに育つ多年草の多肉植物)などが混在するブラジル北東部の半乾燥気候の地域に分布する植生です。乾燥し、砂漠の様な荒涼とした風景で、川や水溜りが少ないカーチンガ地帯はブラジル独特の自然環境と生態系を構成しています。
カーチンガは先住民トゥピ・グアラニー族の言葉で「白い森」を意味します。「セッカ(seca)」と呼ばれる厳しく長い旱魃により、すべての木々が葉を落とし、土壌は乾燥して白茶けます。「白い森」とは、その荒涼たる様相を指しています。
このように水が貴重な地域で、「バクラウ」村では、政治の駆け引きにより、水へのアクセスが制限されています。冒頭に登場するトレーラーも、水を運ぶためのトレーラーです。
トレーラーが村に着くと、村の女性族長的役割を担っていた女性の葬式を行っています。架空の村「バクラウ」は、逃亡奴隷(ブラジルの奴隷は黒人である)が集まって住むことで始まった集落「キロンボ」を念頭に置いています。
逃亡奴隷集落、キロンボ
逃亡奴隷集落としてのキロンボの形成事例は北はアマゾン地域から南はパンパ地域、東はリオデジャネイロ市近辺から南西はパラナ河沿岸にまで及んいましたが(ほぼブラジル全域)、数千箇所に及んだキロンボの中で、最も有名なのは「パウマーレス(Palmares)」(1595年頃〜1695年頃)でした。
パウマーレスがあったのは、当時はペルナンブーコ州の行政区で、現在のアラゴアス州の内陸部。パウマーレスには、ガンガ・ズンバやズンビといった今では英雄とされている黒人男性リーダーがいたのですが、女性のリーダーがいたことも知られており、「バクラウ」でも女性が族長的役割を担っていたという点にすっと繋がります。
パウマーレスは、最盛期には約2万人の人口を擁し、その相当な割合が先住民インディオ、貧困白人、植民地制度下の逃亡犯罪者、ユダヤ人商人等の、黒人以外の人々だったといいます。
逃亡奴隷集落として始まった「キロンボ」でしたが、様々な理由で逃げてきた人の住む場所になっていました。
「バクラウ」に住んでいる人たちも、黒人には限りません。カボクロ(白人と先住民との混血)や原住民、ムラート(白人と黒人の混血)などなど様々な人種がいます。またセックスワーカーやトランスジェンダーが、卑下されることなく共存しています(村人の中に、動画サイトやTV番組に取り上げられて話題の殺し屋がいても、村人は平然としています)。
シネマ・ノーヴォ〜グラウベル・ローシャ
さて、本編では、葬式の後に葬列が出る場面で、ラジオDJのように、常にマイクを持って話す男がこのようにいいます。字幕を引用します。
「彼女に敬意を表し、葬列を始めよう。そのために村人全員がここへ集まった。彼女は94年の生涯で語り部としてこの村の中心的存在だった。慣習に従い、みんなでS・リカルドの歌で送り出そう」
この、S・リカルドとは、音楽家のセルジオ・ヒカルド(Sérgio Ricardo)のことで、ブラジルのシネマ・ノーヴォを代表する映画監督、グラウベル・ローシャ(Glauber Rocha)の代表作『黒い神と白い悪魔(1964年)』『狂乱の大地(1967年)』『アントニオ・ダス・モルテス(1969年)』の音楽を担当していました。
本作は次第に、西部劇的な展開となっていきますが、西部劇をブラジル内陸部を舞台に再構築した最初のブラジルの映画はグラウベル・ローシャの『黒い神と白い悪魔』『アントニオ・ダス・モルテス』であり、セルジオ・ヒカルドの名前が引用されたことで、本作がグラウベル・ローシャにもオマージュを捧げた作品であることがはっきりします。
グラウベル・ローシャの主な作品は、数年前にDVD-BOXとして販売されました。レンタルや映像配信では観れないのは残念ですが。
葬列の後の棺を埋める場面。村で精神安定のために常用されている薬を飲んだ女性の視線で棺を見ると、棺の中から水が溢れ出てきます。この薬が、幻覚剤ということを意味していそうですが、この薬については、何なのか最後まではっきりしません。
日は暮れて、また別の1日。
廃車になったスクールバスの中で作物を育てている親子が一瞬映されます。カーチンガという植生で、自然には野菜が育たないということことでしょうか。
葬式の後に村にまずやってくるのは、移動式の風俗店。村について水浴びした後に、中国語が書かれた看板を掲げ、風俗トラックの営業を開始します。同時に、村の広場では、野菜などを売るフェイラ(市)が始まります。
村の異変の萌芽となるのは、小学校の授業中に、タブレットのマップで、村の位置を示そうとした時です。「バクラウ」がマップで見つからず、教室に入ってパソコンでも探すが見つかります。この時、地図に「バクラウ」の隣にある「セラ・ヴェルデ(Serra Verde)」という場所が映し出されますが、この場所は実在する場所のよう。「セラ・ヴェルデ」は映画の他の場面にも何度か出てきます。
場面の切替の際に、トランジション効果が多用されますが、黒澤明の映画のようなレトロな感じのトランジションなのも一興です。
選挙運動
教室の場面から、村の見張り役の視点に切り替わると、村に招からざる客がやってきます。虚勢を張った政治家「トニー・ジュニア」です。一団の中のトラックの側面は、巨大なディスプレイになっていて、選挙選の広告が流れています。
トラックは異様に大きな音で音楽を流していますが、この音楽は、選挙公報用の音楽で、如何にもなサウンドに如何にもなメロディーを乗せて、「トニー・ジュニアに投票してね」というメッセージを刷り込ませています。ブラジルの選挙では候補者の番号で投票するのですが、番号を刷り込ませるためにポピュラー音楽を使うという手法は、ブラジルではよくある手法です。ちなみにトニーJrの番号は「150」。
この時の見張り役は、トランスジェンダーですが、村の中で役割をもってごく普通に仕事をしていて、この村の「フラットさ」がここでもさりげなく描写されています。
見張りからの連絡を受けて、肉や野菜、果物、衣類などを売っていたフェイラ(市)は一斉に解散。トニー・ジュニアの一団が着く頃には村は静まりかえっています。どんだけ歓迎されていないんでしょう。
彼の車に書かれた文字で、彼が「セラ・ヴェルデ(Serra Verde)」の市長であることがわかります。投票権を持つ人々が住む「バクラウ」の村に、票集めに来たのです。トニー・ジュニアの乗った黒いピックアップトラックの荷台にはなぜか棺桶が積まれています。
村に降りたトニー・ジュニアが、「録画しろ」と指示を出すと、積んでいた荷物を放出しようと赤いトラックが荷台の傾斜をあげます。荷台には、古本が山積みに。かなり古そうな古本です。何千冊という古本が、何の配慮もなく地面に放出されます。
「票集め」のために村に来たトニー・ジュニアは、古本の寄贈と、物資(食料、薬、棺桶)の寄付をしに来たのです。しかしながら、古本は、まるでゴミ処理場に捨てるようなやり方で寄贈され、物資の中心である食べ物の消費期限は過ぎています。なんとも心のこもっていないガサツなやり方です。
トニー・ジュニアが自分への投票をお願いすると、家々から村人たちが、水場を開放しろという声を上げます。トニー・ジュニアは口では話合うといいますが、両者はわかりあえず、トニー・ジュニアは、若いセックスワーカーを車に乗せて連れて帰ろうとします。この時、セックスワーカーの同僚たちが「彼女は行きたくないって言っている。車で済ませて」と、彼女を庇います。この村では、セックスワーカーも1人の感情を持った人間として尊重されているのです。
場面が変わり、フェイラ(市)に豆類を売りに来ていた初老の黒人男性が、バイク帰宅していると、後ろから、UFOのような物体が付いてきています。如何にもな効果音も入って、如何にもSF映画的な場面。
その日の夜に、村の集会が開かれて、トニー・ジュニアが置いていったものが整理してテーブルの上に置かれています。それを、村人たちは奪い合うことなく各自が必要なものを取っていきます。
トニー・ジュニアは、「ブラソル4」という薬も置いていきました。鎮痛剤が主用途だが、気分の安定にもなる薬で、体に毒だし中毒性もあると忠告しつつ、取っていける状態で村人に開放されます。現代人の薬依存を揶揄しているんでしょうか。
夜、村が寝静まる中、馬の足音がしてきます。それも、1〜2頭ではない、大群の馬。男が「農場の馬だ」といいます。
朝になって農場に連絡するも、農場と連絡がつきません。2人の男が、農場の様子をみにいくのに出発します。それから間もなく、水を運ぶトレーラーが村に戻ってくると、水が漏れ出しています。どうやら、誰かに銃で打たれたらしい。
ここから、物語の西部劇的展開が始まります。様々なジャンル映画の手法を巧みに取り入れた映画ですが、物語を動かしていくのは、西部劇的展開です。ここまでで40分程度。長いと感じる人もいるでしょうが、それだけ、村の雰囲気が丁寧に描写されています。
農場の様子を見に行った2人は、途中で、ど派手なバイカー2人とすれ違います。バイカー2人は「バクラウ」へ向かっているよう。
「バイカー2人が村に向かっている」という見張りから連絡すると、村の人々のスマホがピコピコ着信します。貧しい村ですが、村人は皆、スマホやタブレットを持っているし、緊急警報の自前のシステムもあるのです。
ペルナンブーコ州西部
今から数年後
田舎の風景に忘れてしまいますが、映画『バクラウ』の舞台は、近未来なのです。
村に着いたバイカー2人は売店に入り、ひとしきり店員と話して飲み物を買った後、村の博物館をみていかないかといった誘いも断り、早々に村を出ます。
売店を出る前に、バイカーの女性がテーブルの下にこそこそ何か機器をつけていきます。時限爆弾か、はたまた、盗聴器かと推測するところですが、その機器についての説明はそれからありません。でも、この後、地域一帯のスマホの電波が繋がらなくなるので、携帯電話の電波の妨害機だったと考えられます。
吟遊詩人、ヘペンチスタ
バイカー2人組が売店から出ると、彼らを驚かせるかのように、ギター片手に歌って話しかけるお爺さんが出ています。この人物も、ブラジル北東部文化に欠かせない人物です。怪しい2人組に皮肉を語り続けます。
お爺さんは、ギター(特にヴィオラ・カイピーラという10弦ギター)に合わせ、即興で詩を歌う吟遊詩人で、ヘペンチスタ(Repentista)、ヴィオレイロ(Violeiro)と呼ばれます。
お爺さんに名前を聞かれた2人は、「ジョアンとマリア」と答えますがが、ブラジルで一番多い名前で、怪しみはますます増します。ちなみに、グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」もブラジルでは「ジョアンとマリア(João e Maria)」と呼ばれています。
馬が逃げ出した農場の様子をうかがいに行った村の2人が農場に着くと、農場の人々が皆、銃で惨殺されています。子どもまでも。
実は、農場の人たちが生きている姿は、冒頭で水を運ぶトレーラーが村に戻っているシークエンスで、農場の横を通っていて、一度映っています。
村の2人は惨殺を確認し、「バクラウ」と連絡をとろうとしますが、スマホの電波がなく電話できません。村に戻る途中で、先ほどのバイカー2人と対面し、話かけられます。
「携帯はある?」とバイカーに訊かれると、村の男は「村に電話した」と嘘をつきます。すると、バイカー2人は背中に手をやり、銃に手をかけ、村の2人を銃殺します。
そこで、急に、視点が変わります。UFOのような物体の視線に変わります。この謎の物体は、一連の様子を撮影していました。謎の物体はUFOではなく、ドローンでした。ドローンは、バイカー2人が帰るのを追っていき、「おバカさんたちを転ばせてやろうぜ」という天の声の動きに合わせ、2人組に急接近したりします。
「天の声」の主は誰なのか。2人組に指示を出している人がいるのがわかります。怪しさ全開でつい先ほどまで恐怖の存在だった2人が、“そちら”の階層の中では、下の階層に属していたのです ⎯⎯。
放置されていた家を占拠したような一軒家では、米国人たちが、思い思いに過ごしています。そこにバイカー2人組とドローンが帰ってきて、ミーティングが始まります。
ブラジル人のバイカー2人は、米国人たちにアングロサクソンの白人ではないことを揶揄された後で「自分たちの獲物が奪われた」と非難されます。ミーティングで、米国人たちはイヤホンをつけていますが、イヤホンに何者かの指示(更なる「天の声」)が入ると、米国人たちは、ブラジル人2人をすかず全員で銃殺します。致命的な1発を売った人は、自分が殺したんだと自慢げに言います。「自分たちの獲物」とは何なのか? 殺人を楽しみに来ているようです。
このシーンで、「なぜ殺したんだ? 同胞じゃないのか?」と言われて、ブラジル人が「同胞じゃない。ぼくらは裕福な南の出身なんだ」というやりとりがあります。
南北問題
ブラジル国内にも「南北問題」があります。世界の「南北問題」は、豊かな国が世界地図上の北側に、貧しい国が南側に偏っているという問題ですが、ブラジル国内の「南北問題」は逆です。北側が貧しく、南側が豊かです。「バクラウ」があるペルナンブーコ州は北側です。サンパウロやリオデジャネイロは、ブラジルの南側にあります。
村の人たちは、農場に様子をうかがいに行った2人の殺害を確認し、何者かの更なる侵入に対して、警戒を強め村を守る準備をはじめます。この時、助けを求めるのが、身を隠しているかつての仲間の盗賊ルンガです。
ルンガ役を演じるシルベロ・ペレイラ(Silvero Pereira)は、ドラァグクイーン役などで知られる男性俳優で、男性の劇作家と結婚しています。鍛えられ上げた肉体とそこはかとなく醸し出す妖艶さの存在感は、映画を観て確認してください。
カポエイラ
ルンガの帰還が歓迎され、2人の亡骸が村に運ばれた夜、村人たちが輪(ホーダ)になりカポエイラ(Capoeira)が行われます。これも、重要なブラジルの文化です。起源には諸説ありますが、ブラジルの奴隷達がダンスのふりをして修練していた格闘技といわれています。ホーダでは、円の中心で、楽器の演奏に合わせて、2人がそれぞれの技を披露します。カポエイラでは、基本的には、技は相手にあてません。
カポエイラが行われている場面で、急に、電子音が鳴り始め、印象を残すエレクトロニカが流れます。これは映画監督/脚本家/俳優/音楽家のジョン・カーペンター(John Carpenter)の「Night」という曲です(バクラウの学校の名前に「João Carpinteiro」という名前が付いたり、本作はジョン・カーペンターにもオマージュが捧げられています)。
同じ夜、満月の下で幼い子どもたちが草原で遊んでいると、偵察していた米国人に撃たれ、村は本格的な侵入まで時間がないことを悟ります。また、同時に、村は停電に。決戦はすぐそこ。
米国人たちのテントでは、「幼い子どもの殺害」について男2人が議論しています。殺した男は、普段はスーパーの人材部門で働き、非難している男は、刑務官。いったい、侵略しにきているこの「殺人好き」の米国人たちは何者なのでしょう。議論を結論づけるのは、またイヤホンからの「天の声」でした。「子どもは武装していた」という結論が出ます。実際に子どもが持っていたのは懐中電灯でしたが。
夜が明けるとついに「その日」。侵略の日 ⎯⎯⎯⎯⎯⎯。
※(本稿は映画のストーリーを紹介したいわけではないので、筋の紹介はここまでにしますが、ここからは「ジャンル映画」的な手法として、スプラッター映画的な表現が多用されます。なかなかのエグい表現もありますが、日本で劇場公開された時の宣伝では、この要素が強調され過ぎ、この映画を観に来た人と映画の内容のアンバランスが起きていたんじゃないかと思ったりしています。)
米国人グループのリーダー、ミシェルを演じるウド・キア(左)と、「バクラウ」の長老的役割のドミンガスを演じるソニア・ブラーガ(右)。ドイツ出身の名優と、ブラジルが誇る名女優がゆっくりと対峙する緊張したシーンも終盤の見どころ。
カンガセイロ
最後に、ブラジル文化関連で、言及しておきたいキーワードがあります。それは、「カンガセイロ(cangaceiro|山賊)」です。
先程『バクラウ』が、グラウベル・ローシャにもオマージュを捧げた作品であることに触れました。ローシャは、カンガセイロについてこのように語っています。
「カンガセイロとは、北東部の大地主制度に反抗する民衆の、秘教的アナーキズムの産物だ。それに拍車をかけたのが、ノルデスチ(北東部)を襲った干ばつだった」(グラウベル・ローシャ)
写真は最も有名なカンガセイロ、ランピアォン(Lampião)とその一団
何世紀もの間、警察の管轄から孤立していたブラジル北東部の内陸地域(半乾燥地域)では、大牧場主たちは敵から土地を守るため、忠実に働く私的軍隊を雇う必要がありました。 牧場主や大地主のファミリーは、しばしば他の一族と敵対し、何世代にも渡って血で血を洗う戦いを続けていました。
一方、大牧場主たちにこき使われてきた労働者の中には、徒党を組んで反乱を起こし、武器を奪って牧場や農園を襲撃し、略奪を行なう者たちが現れました。これがカンガセイロ(山賊)と呼ばれる集団で、 彼らは一種のコミュニティーを形成します。
そのリーダーたちの中には数々の伝説を残し、民衆の英雄にあげられる人物もいて、勇敢なカンガセイロは社会の不公平に異議を示した「義賊」と言われることも度々あります。
映画の中盤、バイカー2人が村の博物館に誘われるも、すぐに「バクラウ」を出て、博物館に入らなかったという場面がありました。その博物館の中に「バクラウ」という村の秘密があります。
博物館の中には、カンガセイロの写真や、カンガセイロが使っていたと思われる銃が飾られています。「バクラウ」は、カンガセイロを匿い、カンガセイロに守られてきた村だったのです。
そんな村だから、村を守るためなら、米国人の想像を超える攻撃力で侵略に対抗することができたのです。
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写真右がクレベール・メンドンサ・フィーリョ監督
映画『バクラウ』の監督は、クレベール・メンドンサ・フィーリョ(Kleber Mendonça Filho)とジュリアーノ・ドルネリス(Juliano Dornelles)。脚本も、2人によるオリジナル脚本です。
『バクラウ』は、クレベール・メンドンサ・フィーリョ監督の長編映画第3作で、2019年のカンヌ国際映画祭では審査員賞を受賞しました。
クレベール監督の前作『アクエリアス(Aquarius)(2016年)』もカンヌ映画祭で上映されています。『アクエリアス』の主演は、『バクラウ』でも重要な役所を演じたブラジルが誇る名女優ソニア・ブラーガ(Sônia Braga)でした。長編第1作目の『O Som ao Redor(2012年)(日本未公開、タイトルは「近所の音」の意味)』も、世界の数々の映画祭で高く評価されました。
クレベール監督は、1968年11月3日、ブラジル北東部のレシーフェ(Recife)州生まれ。ペルナンブコ連邦大学でジャーナリズムを学び、映画監督になる前は、映画評論家およびジャーナリストでした。世界の映画界が、今、最も注目しているブラジルの映画監督です。
『アクエリアス』は、今年の1月までは、Netflixで配信されていましたが、残念ながら、もう配信されていません。DVD化などされていないので、現状、日本で観ることができません。残念すぎます! 『O Som ao Redor』も日本で観られる状況になって欲しいですよ。
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以上、本当に誰にも頼まれていませんが(苦笑)、『バクラウ 地図から消された村(原題:BACURAU)』の解説を、もし自分がパンフレットに載る文章を頼まれたら... ということをイメージしつつ、映画の理解に役立つであろう本作に関係するブラジル文化関連のキーワードを説明しながら、書いてみました。
もし、ここまで読んでいただいたら、11000字超えの文章を読んでいただいています。どうも、ありがとうございました!
(ラティーナ2021年5月)