[2021.01]【「ラ米乱反射」電子版 第6回】アルマンド・マンサネロ追悼特集 『アドーロ』に疼いたメキシコの青春 〜40年ぶり再会のマンサネロが語る〜
新型コロナウイルスに関係する内容の可能性がある記事です。
新型コロナウイルス感染症については、必ず1次情報として厚生労働省首相官邸のウェブサイトなど公的機関で発表されている発生状況やQ&A、相談窓口の情報もご確認ください。またコロナワクチンに関する情報は首相官邸のウェブサイトをご確認ください。※非常時のため、すべての関連記事に本注意書きを一時的に出しています。
見出し画像

[2021.01]【「ラ米乱反射」電子版 第6回】アルマンド・マンサネロ追悼特集 『アドーロ』に疼いたメキシコの青春 〜40年ぶり再会のマンサネロが語る〜

文●伊高浩昭(ジャーナリスト)

 『アドーロ』(きみを熱愛する)で世界的に知られたメキシコのカンタアウトール(シンガー・ソングライター)、アルマンド・マンサネロが2020年12月28日、コロナ疫病COVID19によりメキシコ市内の病院で死去した。85歳だった。
 12月初めには出身地ユカタン州都メリダの生誕地に「マンサネロ生家博物館」を開設、その開館式に出席していた。だが疫病に見舞われ、17日から入院、帰らぬ人となった。メキシコ人、とりわけ年配者はマンサネロの死を悲しんでいる。

以下の記事は、月刊ラティーナ2006年6月号に掲載された「ラ米乱反射連載第4回」記事に加筆したものです。

 東京五輪の次のメキシコ五輪があった1968年の前年、メキシコのラジオとテレビは連日、日に何度も繰り返して「アドーロ」という歌を流していた。この歌はすぐにラ米諸国から米国、スペイン、欧州へと広がっていった。これを作り歌って一躍大スターになったアルマンド・マンサネロは、五輪の年は、メキシコの歌好きだけでなく、世界中から訪れていた観光客を楽しませるために、メキシコ市内の南インスルヘンテス大通りの闘牛場に近い高級ナイトクラブで連夜、ピアノの弾き語りをしていた。
 当時、駆け出し記者として昼も夜も野良犬のように街々を彷徨っていた私は、時折、このナイトクラブに<取材のため>裏口から入って、アルマンドの歌を聴いていた。ピアノに近い黒カーテンの陰に隠れ立つ私に、アルマンドは歌いながら愛想を向けてくれた。

アドーロ

私たちが会った通りを熱愛する
知り合った夜を熱愛する
あなたが私に言ったことを熱愛する
恋人よ
私たちの幸せだった時を熱愛する

 訳せば味気ない。メキシコ調のスペイン語で聴くから胸に響く。親しみやすい多くの好人物に囲まれてメキシコ社会で生活を始めていた20代半ばの私には、確かにジャーナリズムがあった。だが青春は依然、眼前や眼下にあって、広く深く私を待っていた。私より経験豊かな30代初めのアルマンドの恋心からあふれ出る砂糖のようなメロディーと歌詞は、何を好きこのんでややっこしいジャーナリズムなんかに身を置くのだ、人生は一度限り、とりわけ若い日は短い、早くやめて飛び切り甘い生活に耽溺しよう、と私を絶えず誘惑した。周囲には美しい娘や魅力的な娼婦がたくさんいた。だが、甘い生活の実感はなかった。生活の重心がジャーナリズムにあって、この志を脇に置いた別の人生はあり得なかった。だからなおさらのこと、<甘さを拒否>した青春の傷がアルマンドの音楽で疼いた。
 五輪の年には学生蜂起や、その結末のトラテロルコ虐殺事件があって、実際のところ、甘い日常にひたる余裕などなかった。ラ米情勢も左右の潮流がぶつかり合って、目が離せなかった。自然にジャーナリズムが生活の全般を律するようになり、ラ米の入り口メキシコ社会とメキシコ人への初期の物珍しさから解放されると、アルマンドの歌も遠ざかっていった。メキシコ大衆音楽(ポップス)界のトップスターもいつしかアルマンドから、「ラ・ナベ・デ・オルビード(忘却の舟)」で大ヒットしたホセ・ホセに代わっていた。
 だがメキシコとラ米での取材が長くなるにつれて、ラ米の人間や文化を知るためには大衆音楽を含む芸術を深く理解しなければならないという気にますますなっていった。ラ米ジャーナリズムの血みどろの対象が突きつける残酷さが、人間性の回復や芸術という価値がもたらす平穏によって心と発想の均衡をとるべく私に迫っていた。そこで、シケイロス、タマヨの両巨匠とのインタビューに続いて、トリオ・ロス・パンチョス、俳優カンティンフラス、民俗舞踊演出家アマリア・エルナンデスと、取材対象を広げていった。
 時は跳ぶが、1995年8月のある日、グアテマラ市からメキシコ市に飛ぶ旅客機でホセ・ホセと隣り合わせた。名声と金に溺れたこの大スターはアルコール依存症になってステージを離れたと聞いていたが、不遇の年月を経て復活し、ベテラン歌手として再起していたという。私が彼の全盛期の思い出話をすると、彼は喜んで「私は47歳になる。15歳から32年も歌ってきた。もう大丈夫です」と笑顔を見せた。うれしい出会いだった。
 1997年には東京で、新生トリオ・ロス・パンチョスを組む往年のパンチョスのトップテナー、ジョニー・アルビーノ(イタリア系プエルトリーコ人)と会った。79歳になっていたジョニーは、「できれば大観衆の前で歌っている時に死にたい」と言った。本心だろう。パンチョス全盛期のチューチョ・ナバーロもアルフレド・ヒルも故人となった。私は高校1年のころ東京でテレビで見、聴いたパンチョスにメキシコ市でインタビューしたのを思い出し、自分にもジョニーと同じ歳月が過ぎ去ったのを感じた。(ジョニーは2011年に死去した。)
 ラ米を初めて取材してからかれこれ54年になる私にとって貴重な財産の一つは芸術・文化面の取材だったと、いまにしてはっきりと認識できる。【メキシコ人芸術家らの取材記録については、現代企画室1997年刊『メヒコの芸術家たち』を参照されたい。】

この続きをみるには

この続き: 3,935文字 / 画像4枚
この記事が含まれているマガジンを購入・購読する

2021年1月に新規にアップした記事のみが収められているマガジンです。こちらでアーカイブ記事は読めませんので、アーカイブ記事も購読するには…

このマガジンを購読すると、世界の音楽情報誌「ラティーナ」が新たに発信する特集記事や連載記事に全てアクセスできます。「ラティーナ」の過去のアーカイブにもアクセス可能です。現在、2017年から2020年までの3.5年分のアーカイブのアップが完了しています。

「みんな違って、みんないい!」広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に生まれ変わります。 あなたの生活…

「スキ」、ありがとうございます! ¡Gracias!
広い世界の多様な音楽を紹介してきた世界の音楽情報誌「ラティーナ」がweb版に。あなたの生活を世界中の多様な音楽で彩るために情報を発信します。 月額900円のデジタル定期購読で、新規記事もアーカイブも読み放題! (※アーカイブは増減する場合があります)