【琉球音楽周遊 ~沖縄本島の島うた③~ 】戦中戦後生まれの唄者たち|宮沢和史
文●宮沢和史
*以下敬称略
1945年、ズルズルと地の果てに引きずられるようにして終息を迎えた沖縄戦から日本の敗戦を経て、沖縄はアメリカ合衆国へと手放され、1972年の沖縄の日本返還までの27年間、アメリカ合衆国の統治下に置かれることになった。いわゆる、「アメリカ世」の時代である。この「琉球音楽周遊」で紹介した小浜守栄、嘉手苅林昌、山内昌徳、登川誠仁、糸数カメ、そして、前川朝昭、津波恒徳、金城睦松、知名定繁、照屋林助、喜納昌栄、らの活動によって沖縄戦の終結からしばらくして “戦後第1次沖縄民謡隆盛時代” とでも呼べる黄金期がやってくる。戦後の島民の貧しい生活、荒んだ心に “島うた” がさぞかし温かく柔らかく染み渡ったことだろう。照屋林助の師である喜劇人小那覇舞天は林助とともに戦後の家々を回り、歌って踊って「命のお祝い」を合言葉に芸と笑いで人々の心を癒したという。1950年代の沖縄は言ってみれば包帯の内側の深い傷口がまだ乾かず、癒えないながらも芸能によって人々に安らぎと笑顔が少しずつ戻ってきた時代だったのかもしれない。
1952年から60年代にかけてアメリカのガリオア資金で開設し普及した有線ラジオ “親子ラジオ” が民謡の普及と唄者の発掘、育成に一役買っていた。1960年代に入るとレコードが78回転のSP盤から33回転のLP盤・45回転のEP盤に移行し、特に中心の穴を広く開けてジュークボックスの構造に合わせて開発されたドーナツ盤(EP盤)の普及によって音楽がよりパーソナルなものとなり、“シングルヒット曲” という概念が世界的に確立されていく。現代では SNS や YouTube などによって情報は瞬く間に拡散され流行を生み出していくが、当時はラジオ放送、店に設置されたジュークボックスが流行の拡散の役目を果たしていた。したがって、芸能を嗜好するための構造が限られていた戦後、音楽ソフトとしてドーナツ盤が音楽の普及に果たした役割は相当なものだと言える。(余談だが2020年にはアメリカ合衆国でのアナログレコードの売り上げがCDを上回った。時代は常に移ろいゆくものだ……)沖縄では普久原恒勇率いるマルフクレコードがいち早くドーナツ盤での販売を手がけ、時代の風に乗り、民謡・流行歌を数多く普及させていくと同時に才能ある唄者を次々と輩出していった。そして、その他のレコードレーベルの設立、ラジオ・テレビの放送局の開局・発展などにより、スター歌手とヒット曲が情報として沖縄中に知れ渡ることになる。
戦前はそれぞれの地域にそれぞれの唄、踊り、が存在し、そのコミュニティー内で嗜まれていたが、沖縄戦、その後のアメリカ統治によってその構図はすっかり寸断されてしまった。しかし、1960年代に入り、コザ市(沖縄市)に多くの “民謡クラブ” が開店すると、店内において他のコミュニティーとの交流、交配が生まれ新しい芸の潮流が発生するようになる。コザの外を歩けばアメリカの風が吹き、クラブのドアを開ければ濃密なウチナー文化の祭典が繰り広げられ、1972年の沖縄日本復帰後までの間、“戦後第2次沖縄民謡隆盛時代” とでも言える時代が続くことになる。民謡クラブはのちに民謡酒場とも呼ばれるが、名のある歌手が店を切り盛りしていたり、各店がスターを囲い、それぞれがそれぞれの個性(芸風)を売りにし営業していた。店では看板歌手のステージが毎晩数回あり、そこで客からリクエストをとったり、お客をステージに上げ、自分たちの伴奏で歌わせたり、カラオケが普及すると、プロのステージの合間にカラオケタイムとしてステージを客に開放する店も現れた。要するに沖縄戦・アメリカ世によって解体されてしまったコミュニティー文化を人々は民謡クラブに求めようとしたのではないかと推測する。加えて、本来なら遠くで輝く文字通りスター達の存在が来店すれば目の前で歌ってくれ、しかも自分も同じステージで歌が披露できるとあっては、全盛期にはコザに200店存在したという民謡クラブに多くの人々が夜な夜な足を運んだという話も大いに頷ける。アメリカ世にあってウチナーンチュがウチナーンチュであることを確認し、帰属意識を確かめる上でも民謡クラブが果たした役割は大きいし、現在もまだ多くの店が存在し、時代に合った役割を果たし続けている。
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