[2021.04] 連載④音楽が世の中を大きく変えた時代〜バスク国の多彩で力強い民族の声...
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[2021.04] 連載④音楽が世の中を大きく変えた時代〜バスク国の多彩で力強い民族の声...

文●本田 健治 texto por Kenji Honda

 フラメンコが好きで、とにかく一度は、と出かけたほぼ半世紀前のスペイン。アンダルシアでのフラメンコ体験も濃かったが、それ以上に、あの国を取り巻く音楽性の広さを知ったことが一番だった。当時はあの悪名高いフランコの圧政が最終版の時代。表面だっては見えないにしても、フランスに近いカタルーニャやバスクを中心に、反フランコの力強い歌が次々と誕生していた。春から夏にかけてアンダルシアで開かれる熱狂のフラメンコ・フェスティバルを追いかけながら、あのスペインの魅力を一杯に吸収してきた。そして、最後にとっておいたバスクには、実は入ることなく帰国する羽目になり、今の中南米の文化を紹介しする仕事に就いてしまった。なので、ここに書いていることは、すべてあの旅行で聞いて調べたかったことを、ずっと後にまとめたことばかり。ある意味ではスペインで一番興味深い所だ。勤勉で、約束も守るバスク人の作る料理も抜群。日本人として知っておくべき事も一杯の地方の話です。このnoteのプラットフォームに検索機能もついたので、長い記事ですが、まとめて掲載します。ゆっくり読んでください。

バスク国の新しい歌


 さて、カタルーニャに続いて、スペイン北部バスク地方でも新しい音楽運動が生まれていった。昔からスペインというと、時間に関しては鷹揚でのんびりしたアンダルシア人気質ばかりが楽しく語られるが、北部の地方はそうではなく、他のヨーロッパと同様の几帳面さも持ち合わせている。バスクというのは、実はピレネー山脈の両麓、スペインとフランスにまたがって住んでいるバスク人が住む地域のこと。スペイン側のバスク、カンタブリア、ナバラやフランスのラブール、低ナバラ、スールとその周辺までバスク人が多く住む地域だ。フランスのバスク領のすぐ北側に、カルロス・ガルデルが生まれたトゥールーズがある。そして、この辺りには、世界最古の洞窟壁画が次々に発見されている。スペインのサンタンデールの西で発見されたアルタミラの洞窟壁画が当時の日本では最古とされていたが、その後フランスのラスコー壁画、またその後に発見されたスペインのラパシエガ洞窟の壁画が現在では64,000年前のもので、なんとネアンデルタール人が書いたものと言われる。この辺りはスペインの中でも紀元前のローマにも、他のどの勢力にも征服されることなくナバーラ王国として発展してきた。16世紀にカステーリャ王国の元に編入され、すぐに独立自治の形態を保っていたが、マドリードのスペイン政府によって自治は撤廃された。1930年代の内戦で、フランコが勝利し、バスク語も禁止されるようになり、同時にバスク民族主義運動が活発になった。

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 さて、スペインの民族問題ではいつもカタルーニャとバスクが似たような形で語られるが、基本的なところでこの二つの地方は違った体験をしてきていて、独立に対する現実的な行動は違っている。まず、スペイン内乱以来、バスクは反フランコという意味ではカタルーニャと同様の道筋を辿っては来て居るが、フランコが75年に亡くなって民主化への移行が始まり、78年に制定されたスペイン憲法が自治州を認めて、カタルーニャと、バスク、ナバーラ自治州にも自治権を与えたが、バスク、ナバーラ州の方が大きな自治権の範囲を獲得した。決定的な違いは、徴税権を勝ち得たこと。これがバスクでは国ではなく、バスク自治州が持っている。ここでは自治州が徴税し、その一部を政府に支払う。つまり、カタルーニャに比べて、独立のための経済的な動機がやや少ない。バスクには、豊かな鉄鉱石の鉱床があり、鉄鋼業、造船業と言った重工業が育った。しかも、80年代の経済危機の後はハイテク産業もスペインをリードするほど。着実な経済を背景に、音楽・料理といった文化も育っているわけだ。さらに、バスクはよく知られているとおりETA(バスク祖国と自由)という分離、独立を目指す民族組織がつい最近まで爆弾や暗殺などの武装闘争を繰り返し、実は自治権獲得にも少なからず寄与?してきた。2018年に、ETAが武装闘争を行わない旨の声明を出している。

ゲルニカ爆撃

 有名な「スペイン市民戦争」は、1936年から1939年まで右派のフランコが、マヌエル・アサーニャの率いる人民戦線とが争った。人民戦線にはソ連とメキシコ、更に欧米の普通の知識人たち(小説家のアーネスト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、写真家のロバート・キャパら)も義勇軍として参戦、フランコ側にはポルトガル、イタリア、ドイツが支援した。1937年4月26日、人民戦線側の他の地域からバスクが孤立状態になって居るところに、ドイツのナチ義勇航空部隊コンドル軍団が世界初の都市無差別爆撃となる大空襲を行った。

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ドイツ空軍が行なったゲルニカ爆撃による被害

 8年後にアメリカが行った広島の原爆も、ゲルニカに比してとんでもない規模の無差別爆撃で世界から非難されているが、それより規模は小さくとも戦闘機時代におきた世界で最初の悲惨な事件がゲルニカ爆撃だった。共和国政府の支持者だったピカソは当時フランスにいてこの事件を知る。1937年1月に「フランコの夢と嘘」を著し、詩に添える版画を製作して、その絵はがきを売って共和国政府に寄付していた。4月27日アメリカ人ジャーナリストのジョージ・ステアが爆撃の現場に入り、「タイムズ」に長文でこの模様を掲載、世界中で反響を呼んだ。ピカソもそのことを知り、描き上げたのがあの有名な『ゲルニカ』だ。
 市民戦争、ゲルニカに関する映画はたくさんある。評価はいろいろだが、とりあえず観る機会があったらおすすめです。

「私が愛したヘミングウェイ」
他にも「ゲルニカ」「誰がために鐘は鳴る」「蝶の舌」「鏡}「ミツバチのささやき」「ロルカ、暗殺の丘」…… きりがない。

 ピカソは共和国政府の依頼で37年のパリ万博のスペイン館に絵画を展示する予定でいたが、この事件を知りテーマを変更、7月12日にこの『ゲルニカ』の完成披露を行っている。そして、39年5月にアメリカ芸術会議がアメリカ各地での展覧会に出展したが、内戦に勝利したフランコを批判し、その展覧会の入場料の一部はフランコ・スペインからの政治亡命者に寄付された。そして、本来ならパリのピカソのアトリエに戻されるはずだったこの絵は、MoMA(NY近代美術館)に保管され、以来約40年間NYの近代美術館に展示された。その間、40~42年USA諸都市、第二次大戦終了後の53年から間55年の間、ミラノ、サンパウロ、パリを巡回、55年から57年にかけては北欧の他、ドイツで「現代アートの傑作」として展示されている。

 また、ベトナム戦争に参戦したUSA内では、反戦のシンボルとして扱われ、多くの美術家たちを中心に「ベトナムで残虐行為を繰り返すUSAにはこの絵を持つ資格がない」とピカソにスペイン返還を求める論争も起きた。広島原爆投下が45年、太平洋ビキニ環礁で46年から62年までの23回にわたる核実験を行ったアメリカで、そんな論争が起きたのは当然だった。73年、ピカソはフランスの自宅で死去。81年になって、「ゲルニカ」は、ようやくスペインへの返還が決定。勿論、マドリード、ビルバオ、バルセロナ、マラガなどで展示場所を巡る混乱が起きたが、結局帰還時には展示されることなく、プラード美術館別館にテロ対策の設備の中に貯蔵された。

 1981年10月25日、ピカソの生誕100周年に合わせてほんの短い期間一般公開された。当時、スペインを訪れることにしていた私は,出発前日のA新聞でこの公開の事実を知り、マドリードに到着してすぐにプラド別館を訪れたが、パスポートを提示し、防弾ガラスに覆われ、銃を構えた兵士に守られた薄暗い部屋の中にある大きな「ゲルニカ」には身体が震えたものだ。「故国の土を踏んだ最後の亡命者」のあの展示は,今の明るい展示よりもずっと凄みが感じられた。
 92年9月、プラード美術館のすぐ近くにオープンした国立ソフィア王妃芸術センターが開館。「ゲルニカ」はその目玉として展示されているが、NYの近代美術館やプラード美術館の入場者を抜いて一番人気になっている。

パツィ・アンディオンとソーリア

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 話は、変わってマドリードの貸しアパート時代、友人のフランス美人が1枚のLPを持ってきた。当時チャート急上昇のバスク人の歌手、パツィ・アンディオンの『20年』というアルバムだった。彼は、カタルーニャではないが、北のバスクの反フランコの闘士で、やはりステージではバスク語で思い切りフランコをなじるが、スペイン語でもアルバムを制作して、放送とバスク以外でのコンサートではこのスペイン語で歌い大人気なのだという。とにかく声が素晴らしい。で、タイトル・チューンの「20年」は、美しいメロディをバックにスペイン語詩を語るレシタードと言うスタイルだ。その夜は国籍も違う6人ほどで朝までワインと音楽に酔いしれることに。

 しかし次の朝、アパートの主人のS君がレンタカーを借りて、これからパツィ・アンディオンがこの曲を作ったというソリアに行こうと言い出した。マドリードから北へ200キロ、早朝から繰り出すことになった。無理矢理連れ出された格好だったが、起きたらソリアに着いた。目の前には木のない山肌が波打つ、それは美しい風景が目の前にあった。日本から持って行ったソニーの大型カセット・デンスケで聴いた「20年」は最高、と盛り上がった。帰りはプエルト・デ・ナバセラーダのスキー場を眺めて帰還。

パツィ・アンディオン

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 さて、話が違ってしまった。このパツィ・アンディオンの「20年」も、どこにいっても良く耳にした詩だった。独特の低音の声は,すぐにパツィと気がつく。パツィ・アンディオンは1947年マドリード生まれ。パコ・デルシアと同年生だ。幼くして、父の故郷であるバスクに連れて行かれ、幼少期を過ごすが,また小学校時代をマドリードで過ごす。貧しい家庭で育って、遊ぶ金もなかったから,毎日読書に耽っていたという。

 実はこのスペインのスター歌手は、私が日本で所属したレコード会社と同じレーベルだった。無理もない、フリオ・イグレシアスだって、マイアミの豪邸で親父が誘拐されたニュースがあったから日本でも売れたようなもので、スペインのポップス歌手など、英米かぶれの日本のレコード業界、放送業界では誰も気にとめもしなかった時代だったから誰も注目もしていなかった。しかも、結構売れたパコ・デルシアのマスター・テープだって、スペインの会社にオーダーしても、3ヶ月で日本に届けば早い方、と言った時代…。

 パツィの父親はスペイン内戦時には共和党の戦闘員だったせいもあって、彼は激動の1970年代には強力な反フランコ組織とコラボする、物議を醸すシンガー&ソングラーターとして有名だった。カタルーニャの歌手たちのように、二重の意味を持たせる掛詞や比喩と行ったスタイルは一切使わずに、ストレートに歌うスタイルだったと言う。だから、組織の中でのバスク語の歌はかなり強烈だったらしい。そのせいで、他の戦闘シンガー同様やがてパリに亡命することになる。そこで偶然にも有名なジャック・ブレルと出会い、後に彼の芸術活動に影響を与えたー漁船の乗組員として世界を半周する航海に出たこともあるそうだ。

 しかし、ちょうど私がスペインにいた74年、ミス・ユニバースで女優のアンバロ・ムニョスと知り合い、76年に映画で共演し、そのままナバロの神社で結婚する。アンバロは当時スペインでもっとも美しい女性ともてはやされたから、左翼的信念を持ったシンガー&ソングライターとしての名声に陰りを持たせることになった。ただただあの横暴を仕組んだフランコが憎い闘志はバスクにも、カタルーニャにも結構いた。彼の場合、その後は俳優としての仕事が多くなり、やがては歌手の世界から離れることになってしまった。しかし、彼は大学出のインテリとしての力を発揮して、カスティージャ・ラ・マンチャ大学のクエンカ工科大学で、視聴覚コミュニケーション、制作、芸術的な演出と運営、実践的な視聴覚制作を教えながら、スペイン狩猟学校のディレクターも務めるという人生を送り、2019年12月18日、大好きだったソーリアで交通事故で亡くなった。ソーリアは、マドリードとバスクの間で、その両方を愛するパツィはずっとここに住処を持っていた。

20年詩

 何でもない別れの歌のように見えるが、最後の1節が、それまでバスクが感じてきたそのままを表現しているのか。パツィは、バスク語で歌う時は父親同様かなり激しくフランコを叩いたが、スペイン語の歌では、この別れの歌のように普通に歌い、必ず最後の数行の少ない言葉で実は「想い」を表現していた。


ミケル・ラボアとエズ・ドク・アマイル

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 さて、65年頃のカタルーニャのノヴァ・カンソー運動に共感して、バスク地方でもフランコの独裁政権下で眠っていたバスクの音楽文化を復興、活性化させようと動き出した音楽グループの運動があった。その運動の起爆剤になったのが、ミケル・ラボアだ。 20世紀末のバスク地方でもっとも重要なシンガー&ソングライターの一人である。

 彼は「バスク音楽の家長」と言われ、若い世代に大きな影響を与えてきたシンガー&ソングライターだ。1934年、ギプスコア州のサン・セバスティアンのドノスティに生まれ、幼少期のほぼ2年間をビスカヤ県のレキティオで過ごす。50年代、パンプローナで医学と精神医学を学び、芸術家としてのキャリアと医師としてのキャリアを両立させ、主にサン・セバスティアンのパトロナート・サン・ミゲルの小児精神神経科病棟で20年近く働いた。その学生時代に聴いたアタウアルパ・ユパンキやビオレータ・パラに強く影響を受けていたという。

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▲Ez Dok Amairuのメンバーと。 後列左から3人目がアタウアルパ・ユパンキ、左から2番目が「鳥は」の詩を書いたホセ・アントン・アルツェ。後列右から3人目がミケル、後列右端がパコ・イバニェス。

 1958年にパンプローナのテアトロ・ガイナーレでデビューし、60年代になって、他のバスク人アーティストたちと「エズ・ドク・アマイル Ez Dok Amairu」という文化団体を設立して、フランコの独裁政治に反対し、バスク文化を各方面から活性化しようとした。この団体の中で、ベニート・レルトゥサンディと共に、バスク語による「新しいバスクの歌」を表現していくことに全力を注ぐことになった。ミケルの音楽の作風は、60、70年代のシンガー&ソング・ライターのスタイルを踏襲しながら、伝統、詩、実験を組み合わせたものだったり、ナチ党政府にドイツ市民権を剥奪され、世界を彷徨したブレヒトの「異化効果」に影響された曲を作ったり、20世紀前半のビョークなどのサウンドを先取りしたりと意欲的な活動を展開したが、アルバム「Lekeitioak」は高い評価を受けた。

 彼のもっとも有名になった曲は「Txoria Txori チョリア・チョリ(鳥は鳥)」。1957年にヘシュス・アルツェによって書かれたバスクの詩。1968年にミケル・ラボアがこの詩に合わせたメロディを作り、1974年のアルバム「Bat-Hiru(1,3)」で発表して大成功を収めた。フランスでは女性歌手アンヌ・エチェゴイエンが歌いゴールド・ディスクとなり、ジョーン・バエズもカバーして世界に知られるようになった。「もし私が彼の翼を切り取っていたら 私のものになっていただろう 見逃すわけがない でも、こんな感じ 私なら鳥であることをやめていただろう そして私は...鳥が好きでした そして私は...鳥が好きでした」という25才のアルツェが書いた簡単な詩ではあるが、自由について、また人と動物の間の所有、支配、尊敬について考えさせる歌として世界に受け入れられた。他にも『Gure Hitzak』(わたしたちの言葉)、『Haika mutil(頑張れ少年)』『Baga, biga, higa』など有名曲がたくさんあるが、初期の頃から、南米のフォルクローレと共通する雰囲気に溢れている。

 他にも、彼はジャズ・ミュージシャンのイニャキ・サルバドールと定期的に共演し、オルフェオン・ドノスティアーラやバスク地方のオーケストラ・グループと共演したりと幅広く活動した。その他バスクを代表する映画の数々にも彼の曲はよく使われた。2006年7月11日、サン・セバスチャン市で行われた「平和のためのコンサート」でボブ・ディランのオープニングを務め、最後の公演を行った。サン・セバスチャンの病院で74歳で死去。
 サン・セバスチャンでは、彼の名前を冠した2つの公共スペースが、2009年には、リベラス・デ・ロイオラ地区とクリスティーナ・エネア公園を結ぶ「ミケル・ラボア歩道橋」がオープンし、2018年12月1日にはアンティグオ地区に「ミケル・ラボア広場」がオープンするなど,今でも彼の偉業はバスクの人々の中で敬愛されている。

●José Antonio Artze Agirre ホセ・アントン・アルツェ・アギーレと弟のJexuxヘシュス

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 1939年4月6日、ウスビル(ジプスコア)生まれの作家・音楽家。2018年1月12日に死亡。1966年には、ミケル・ラボア、シャビエル・レテ、ベニト・レルトゥサンディ、ルルドス・イリョンドらと共に、「エズ・ドク・アマイル」の創造者であり思想家の一人として活躍した。彼の望みは本から詩を取り出し、人々に近づけること。69年にはミケル・ラボアの「バガ・ビガ・ヒガ」の詩を担当し、音楽、ダンス、詩の国際的なショーで詩を舞台に上げている。弟のヘススは、ミケル・ラボアが歌った「鳥は鳥」の詩を書いた。

●Benito Lertxundi ベニート・レルトゥサンディ

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 1942年1月6日の賢者の日にオリオ(ジプスコア)で生まれた。大家族の9人兄弟の長男。ベニート自身は音楽よりも絵を描くことに興味を示し、母国語ではない言語を押し付けられた時代の公式の教育を好まなかったらしく、学校を卒業すると、ザラウツのフランシスコ会の美術学校で学んだ。いくつかの賞を受賞し、木彫師として初めての仕事を得た。19歳の時、マーティン・リザソの時計店で働き始め、そこで時計の修理を学び、重要な発見をした。リザソが古いリュートを持ってきてくれたので、彼はそれを調律して演奏し始めた。この経験を楽しんだ彼は、次のステップはエレキギター辿り着く。サン・セバスティアンの新聞社が主催する「スペインの声」という歌のコンテストに参加し、優勝する。65年、エズ・ドク・アマイルの創設に参加。

●Lourdes Iriondo ルルドス・イリョンド

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▲ルルドス・イリョンドとシャビエル・レテ

 バスク語の女性歌手・作家である。バスク語の活性化に貢献したことで知られる。彼女は1937年3月27日にサン・セバスティアン(ジプスコア)で生まれ、スペインのウルニエタに住んでいた。彼女は、バスクの歌謡曲を刷新した歌謡グループや文化運動の中で最も人気のあるメンバーの一人として記憶されている。65年、やはりエズ・ドク・アマイルの創設に参加。1972年に解散した後は、イリオンドは、グループを離れた後、バスク民族伝承を題材にした児童書の開発に専念した。

●Xabier Lete シャビエル・レテ

 1944年4月5日生まれ、ジプスコア州オイアルツン出身で、バスク地方の作家、詩人、歌手、政治家。エズ・ドク・アマイルの創設メンバーで、ルルドス・イリョンドはその当時の妻で、一緒にステージに立った。近代的なバスク演劇の基礎を築くことを目標に、演技の世界でも活動した。幼い頃から文章を書き始め、雑誌にもしばしば投稿していたが、1968年に最初の詩集を出版、2009年10月には最後の詩集「Egunsentiaren esku izotzak」(夜明けの凍った手)でバスク文学賞を受賞し、バスク科学・芸術・文学アカデミーの会員、2010年にはバスク語アカデミーの名誉会員となったが、重病のため同年没。

●Oskorri オシュコリ 

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 1970年代初頭にビルバオ(スペイン・バスク地方)で結成。彼らはジャズとバスクの伝統楽器を融合させることから始め、独自のスタイルを確立した。エズ・ドク・アマイルが一世を風靡したバスク音楽シーンに生まれ、1971年3月、創設者ナトキソ・デ・フェリペ(ボーカル、アコーデオン、オカリナ、カリンバ、パーカッション)を中心とした仲間達が、彼らの母校デウスト大学のパラニーフォで初のコンサートを行った。
 1975年、ソニーから初のLP「ガブリエル・アレスティを偲んで」をリリース。次の「Mosen Bernat Etxepare」は、バスク語で印刷された最初の本の著者の詩を音楽にしたものだった。オシュコリは、キャリアを通じて、ヨーロッパのフォークシーンで活躍するアーティストたちとのコンピレーションアルバムを発表する他、伝統的なダンス音楽、子供向けの音楽等も制作してきた。
 2015年11月22日、ビルバオのアリアガ劇場でラスト・コンサートを行った。

●Kepa Junkera  ケパ・フンケラ

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 スペイン・バスク地方出身の天才トリキティシャ(ダイアトニック・アコーディオン)奏者。1965年にスペイン北部のバスク地方、ビスカヤ県のビルバオ生。子供の頃から情熱を傾けたトリキティシャ(ボタン式ダイアトニック・アコーディオン)はほとんど独学で学んだという。1983年、オシュコリのメンバーが、とてつもない技量を持つ18歳のトリキティシャ奏者に招待、その時以来ケパ・フンケラはオシュコリのほとんどすべてのアルバムに参加した。フランコ政権後の70年代半ば以降、各地方の独自性を持った伝統文化が再認識され、90年代に入ると、伝統音楽とその楽器をひっさげて中央に躍り出るアーティスト達が出現した。『ビルバオ、オラ・セロ』はゴールド・ディスクに輝き、ケパは全国区の知名度を得、彼の目指す伝統的ながら新しいバスク音楽そのものに対する人々の注目度も飛躍的にアップした。

●オレカTX

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 オレカTXは、バスク地方の伝統的民俗楽器であるチャラパルタの演奏グループ。チャラパルタは、2本の支柱(籠、椅子、スツールなど)、その上に断熱材(トウモロコシの皮、古い巻いた袋、枯れ草など)、さらにその上に4本の棒(2本ずつのチャルタパリ)で叩く板で構成されている楽器。板材には、アルダー、クリ、アッシュなどの国産材がよく使われる。従来は2〜3枚の板で構成されていたが、最近では十数枚の板で構成されていることが多い。イゴル・オチョアとアルカイツ・マルティネス・デ・サン・ビセンテの2人からなるオレカTXは単独での演奏活動も行っており、インド、フィンランド、サハラ砂漠、モンゴルなど様々な国を旅し、文明から乖離した土地の楽器や文化との調和を試みてきた。2006年には2ndアルバム『ノマダクTX』を発表し、演奏旅行を記録したドキュメンタリー映画『遊牧のチャラパルタ バスク幻の伝統打楽器奏者オレカTXの旅』(原題 : Nömadak Tx)が公開。サン・セバスティアン国際映画祭のCICAE賞特別な視点部門やダーバン国際映画祭の審査員特別賞など、世界中の映画祭で8部門にノミネートされて7部門を受賞した。日本でも公開された。2000年にはケパ・フンケラのサポートとして公演を行い、各地で日本スペイン交流400周年記念イベントが開催された2013年10月の訪日時には、ガイタ奏者のカルロス・ヌニェスやフラメンコ・ピアニストのP・リカルド・ミーニョとともに公演を行った。2016年にも再度訪日。

その他のバスクの音楽家たち


 その他のというと、なんだかついでに感に聞こえるが、そうではなく、エズ・ドク・マイル以外の重要なバスクの音楽家達のこと。スペイン内戦が終わってフランコが権力を握ってから、バスクでは圧倒的に自主独立を求める声が強かった。現在のカタルーニャと同じように、当時はスペインの中でも経済的にはかなり優位であったから、税金の使い道だって考えろよ、といった意識だ。その中でバスクでは、フランコの武力に対し武器で抗戦する雰囲気も強くなっていた。バスクに生まれたETAである。フランコの武力制圧はそれは酷かったから、ETAの発生までは自然発生的に誰もが理解できたが、その残虐に抵抗する左派ETAの暴力が過激化するなど、実は内部でもいろいろな問題が起きていった。

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 ヨイスYoes(本名マリア・ドローレス・ゴンザレス・カタラン写真上)という女性の話は有名。1999年にナバラの女性監督エレーナ・タベルナによって映画化もされた。10代で民族主義左派のイデオロギーに傾いて、教師になる勉強をしていたが、17才の時にまだ合法的過激派だったETAに加入。3才年上の恋人も一緒に加入していたが、彼は過激派の1人で、持っていた爆弾が暴発して死亡。兄も過激派だったが、逮捕され、彼女もやむなくフランスのバスク地方に亡命する。フランスではバイヨンヌで、バスク民族主義雑誌「エンバタ」で働いていた。やがてヨイスは、ETA軍部の政治リーダーと親しくなり、彼が内部の衝突で暗殺されると、彼女はほんの短期間トップの座につく。が、フランスの捜査官に活動が知られ、逮捕される。監禁が終わりETAの指導者の元に戻るが、ETAの軍部は、以前にも増して過激さを増した人間が徴用されていた。嫌気がさしたヨイスは敢えてETAを批判することなくメキシコ亡命を選択し、社会学と哲学を学び、国連で働くことになった。その後、パリに渡り、政治的な難民資格をとる。

 1985年8月、77年の恩赦法の規定に従い、経済省の友人の助けを借りて、国家安全保障局長のフリアン・サンクリストバルと接触し、バスクのサン・セバスチャンに居を構えた。
 しかし、週刊誌Cambioが「ETAメンバーの帰還」と題して大々的なレポートを掲載、一面を彼女の写真で飾ったのだ。しかし、問題は当時の別なETAの幹部だった。彼女の批判のせいで左遷されたりしていた。彼らは秘密裏に会合を開いた。
 86年9月10日、3才の息子を連れて祭りに参加していた彼女は、クバティ族のアントニオ・ロペス・ルイスに射殺されたのである。
 86年と言えば、ETAの内部では、武装闘争の是非を真剣に議論していた時期。彼女の死はバスク社会とETAの転機とされている。ETAはなしくずし的な再結成にとりあえずは、なんとか終止符を打ったようにみえた。しかし、その後も政府とのせめぎ合いは解消されたわけではなく、終わっているわけではなかった。

 この手の話は音楽の世界でもたくさんあった。例えばヨイスの弟の1人もミュージシャン、音響技師、音楽プロデューサーとして有名なアンヘル・カタラインÁngel Katarainだ。中でも一番の大物がこれから紹介するイマノール・ラサバル・ゴニだ。

●Imanor イマノール

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 イマノールとして知られているが本名が Imanol Larzabal Goñi。1947年サン・セバスティアン生。バスク語とスペイン語の歌手、作曲家であり、バスクの文化と言語の偉大な擁護者だった。最初は工業デザインを学んでいたが、64年にバスク語で歌い始め、当初はミケル・エクセガレイと言う名を乗っていた。67年頃からETAの思想に共感、協力するようになって、68年にテロリズム、違法なプロパガンダの罪で6ヶ月間投獄される。その後フランスに亡命し、バイヨンヌ、ボルドー、パリに住んだ。ここで、パコ・イバニェスなど多くの仲間を得たが、フランコが倒れた後の77年、恩赦の後、スペインに戻り、バスク地方で音楽活動を続けながら、バスクの文化と言語を守るための活動に身を投じた。

 イマノールは、徐々にETAと距離を置くようになったが、政治的思想は自決権を支持し、暴力に反対する姿勢を貫き、その後も「Basta Ya!(もうたくさん!)」のイベントに参加した。85年になって、ギプスコアのマルトゥテネ刑務所から2人のETAの囚人の脱獄に関与した後、その技術チームと共に逮捕された。この刑務所でイマノールのコンサートが行われた後、囚人たちはグループのバンに積まれていた脱獄用のラウドスピーカー2台に隠れて脱獄した。しかし、イマノールは事実関係が明らかになってから釈放された。この逃避行は「Kortatu」の歌にもなり、彼は同年、バスク地方のフェスティバルで「Sarri, Sarri」という歌でこの逃避行を広めた。85年は、彼の歌手としての人気が最高潮を迎えた時だった。イマノールは、闘牛場を埋め尽くし、何千人もの熱狂的なファンを魅了し、時代のアイドルとなった。86年には、元同僚に殺害されたETAの活動家である前述のヨイスのオマージュ・コンサートに出演した。当時のバスクでは、ヨイスも「裏切り者」のレッテルを貼られる方がまだ圧倒的に強かったらしい。そのオマージュ・コンサートに出演したイマノールにも同じ嫌がらせが始まった。すべてが変わってしまったのである。ETAの聴衆からボイコットされた上、落書きによる殺害予告や、タイヤをパンクさせるほどの車への攻撃を受けるようになった。あのコンサートに参加した者は「もう2度と歌えない」とも言われた。以降、彼はバスクを離れた。1989年イマノールは、ETAの脅迫に対抗して「恐怖に対抗するすべての人」というイベントを発表、ホアキン・サビーナ、パコ・イバニェス、ルイス・パストールの他多くの歌手仲間が参加。180人の元ETAの囚人が、テロ組織の「ワン・トラック思考」を否定し、イマノールを支持すると表明し、セラート、リュイス・リャック、ムスタキ等が作成した支援宣言書に、150ページ分の署名が集まった。しかし、2004年6月25日、ギター、声、歌詞を唯一の「戦闘兵器」として戦ったイマノールは脳卒中のため数日間の昏睡状態の後、オリウエラで死去した。彼の最後の作品は、数カ国語の子守歌を録音した物で未完のまま残された。現在、サン・セバスティアンに描かれた大きな壁画には、「Zoaz uruti airean...lau haizetara」(空を遠くへ...四方へ)というスローガンとともに、彼を偲ぶ言葉が記されている。

注目!!!バスク人、あるいはバスクの血を持った移民

 バスク民族は、良く系統が不明といわれる。バスク語も系統的にはスペイン語ともフランス語とも関係ないまったく系統的に独立した言語とされる。しかし、このバスクの血を持ったバスク人やその移民をみると、非常に優秀な民族ということがわかる。

バスク人●ミゲル・デ・ウナムーノ(著作家・哲学者)ホセ・エチェガライ(劇作家。ノーベル文学賞受賞)セベロ・オチョア(化学者。ノーベル生理学・医学賞受賞)フランシスコ・ザビエル(イエズス会宣教師)パブロ・デ・サラサーテ(作曲家・ヴァイオリン奏者)エドゥアルド・チリーダ (彫刻家)クリストバル・バレンシアガ(ファッション・デザイナー)
フランスのバスク人●マヌ・チャオ(バスク人の父とガリシア出身の母の間にフランスで誕生)モーリス・ラベル(作曲家)エドゥアール・ラロ(作曲家・ヴィオラ奏者)ラベック姉妹(ピアノデュオ奏者。サントリーCMで有名)ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(画家・写真家)
アメリカ大陸/ベネズエラ●シモン・ボリーバル(ラテンアメリカの独立運動を指導した政治家、軍人、思想家。苗字はバスク地方のボリーバル村に由来)/アルゼンチン●フアン・デ・ガライ(ブエノスアイレスの再建者)イポリト・イリゴージェン(政治家。アルゼンチン大統領)チェ・ゲバラ(革命家。キューバ革命に携わった)エバ・ペロン(=エビータ、ペロン大統領夫人)マクシマ・ソレギエタ(オランダ国王妃)/チリ●サルバドール・アジェンデ(29代チリ大統領)アウグスト・ピノチェット(第30代チリ大統領)パブロ・ネルーダ(詩人。ノーベル文学賞受賞)ガブリエラ・ミストラル (詩人。ノーベル文学賞受賞)

(ラティーナ2021年4月)



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