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[202103]追悼 濱田滋郎先生逝く!

文●本田健治

 濱田滋郎先生が3月21日、お亡くなりになった。 

 もう半世紀も前の話だが、私がスペインに興味を持った最初から、本を買っても、LPを買ってもいつも濱田先生の解説がつきものだった。しかも、その解説はいつも深く、愛情に溢れている。知らず知らずと濱田世界に引き込まれる。スペインが決してメジャーな存在ではなかった頃から、すでにたくさんの文化人も濱田スペインの世界に引きずりこまれていた。
 私は大学でフラメンコを知り演奏しはじめるが、あの頃世に出ているLP(の時代だった)のほとんどが濱田先生の解説、歌詞対訳だった。夜な夜なゴールデン街(まだ花園街といった)の「ナナ」で知ったかぶりして、スペインなり、フラメンコのことを熱く語っても、まだまだスペインに行ったことがある人など本当に少しだった時代だ、濱田先生の書いた文の受け売りがほとんどだった。熱く語っていたみんながそんなだったに違いない。

 レコード会社に就職して、パコ・デ・ルシアを発売する少し前だったか、柿生の濱田先生のお宅にお邪魔した。初めての実物の濱田滋郎先生との出会い。緊張する若造を、まず奥さまがとても親しく接して下さり、その後現れた先生もまったく上から目線のない、それどころか、私の実はつたないスペイン愛を聞き出してくれて、それを褒め称えてくれる。誰もがこうして濱田世界に引きずり込まれる、そんな経験も、恐らく先生とお付き合いした多くの皆さんがお持ちのことだったと思う。

 今から半世紀も前というと、実際、スペイン関係の日本語本が数少なかった頃に、濱田滋郎という人はどうやってこの情報を、とずっと思っていたが、ご自宅を拝見して納得。すでにスペイン語の書籍が、まるで図書館のように広い書庫一杯だった。しかも、先生は健康を害されて日比谷高校を中退なされているからだろう、スペインにも当時まだ一度も行かれていなかったというのに...。


 次に伺っても、いつも通り、また奥さまと可愛い吾愛ちゃんが優しく迎えてくれる…。

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 さて、先生にお仕事をお願い、相談したのは、フィリップス・レーベルの中にパコ・デ・ルシアのソロ・アルバムを発見した時だったと思う。この会社に来てすぐの頃、ある先輩から『パコ・デ・ルシア/フォスフォリート』のアルバムを示されて「本田、これ知ってるか?」と聞かれ、そこで「知ってます。しかし、売れるかどうかというと…」という会話があった程度で、このアルバムから何かを起こせるとは感じなかったから、それ以上何も言わずに過ごしていた。しかし、その後、原盤倉庫から『La fabulosa guitarra de Paco de Lucía(1967)』のLPを発見し、聴いてみた。これは…… 頭をトンカチで割られた様な大ショック。パコの1967年のソロ・アルバムだ(当時の自分からすると2,3年前の録音なのに情報が全くなかった。しかもこの会社はこれをただ倉庫に眠らせていた...)。

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続いて『Fantasía flamenca de Paco de Lucìa』(これは全く直近の録音。さらに凄い)も発見。これもソロ。凄い。当時、スペインからの情報のない中、ただただ東京の輸入盤を扱う店をウロウロしてもなかった超アルバムが2枚もあったのだ。そこで、まず、居ても立ってもいられずに柿生の濱田先生の処に向かったのが最初だった。レコード会社での最初の「仕事」ができると直感して、先生に相談。濱田先生はもちろん全部ご存じだったし、それまでレコード会社の人間でフラメンコにそこまで熱を入れてきた先輩がいなかったのか、なだめるように「そうですよ、素晴らしいアーティストです。でも他の会社でもそんなにセールスが伸びなくて発売できてないようですよ」と話してくれた。「しかし、これを世に出せなければ、もうフラメンコの凄さを知らしめるLPはないと思うんです。大丈夫です、この会社はビクターから独立して1年目の会社で、新しい企画でも受け入れてくれると思うので、なんとか説得してみます」と、私は身分もわきまえず喰い下がった。でも、その時の濱田先生は今でもはっきり覚えているが、本当に嬉しそうだった。一言「やりましょう!」と。で、会社でも特に販売関係、営業関係の偉いさんたちから予想通り猛反発。しかし、こんな音楽の価値もわからない会社はいつでも辞めてやるの覚悟だったから割と気楽ではあったから、冷静に説明できたせいで、なんとか発売を決定。濱田先生はもちろん喜んで原稿を引き受けて下さった。で、最初の原稿を読んで感激。しかしそのご説明の中に「フラメンコ界の若手三羽烏のひとり…」の語句に私は反発。「申し訳ございませんが、パコはそういうレベルではないと思います。セラニートもサンルーカルも聴くだけでなくコピーして弾いてきましたが、ここに至ってのパコは特別です。もう人間業を超えた凄い物だと思うのです。今後は更にもの凄くなると思うのです」。もうほとんど夢遊病患者の戯言に先生は笑いすら浮かべて...さすがに原稿に手を入れて頂くまではしなかったが、その後、カマロン、レブリハーノといったカンテ物まで出すに至っても、いつも先生は嬉しそうに引き受けてくれた。もちろん、さすがにレブリハーノは、恐らく当時の最小出荷記録にはなってしまった(良いレコードであることに変わりはない)が、カマロンのカンテだって、十分な実績を作ることができた。最初のうちは、発売を決めても、マスター・テープが届くまで3〜4ヶ月はかかったが、そのうち発売されてすぐに日本に送ってくれるようになった。私が在籍した74年まで、つまりパコの秀作「Fuwnte y Caudal」までは到着してすぐ発売することができた。すべて濱田先生の原稿であったことはもちろんだった。

 濱田先生には、このフラメンコ・シリーズ以来、私のすべての企画で最初に相談し、ご協力頂いた。フォリップス・フォルクローレ・ベスト・コレクションではメルセデス・ソーサ、クリスティーナ&ウーゴ、アンダリエゴス…。年末の商戦期に出す特別アルバムなども、普通なら有名なアルバムで誰でも知る有名曲ばかり並べるだが、濱田先生との仕事はいつも真面目に取り組めた。ドイツ録音のフラメンコ・フェスのライヴ、ファドの名曲集…数え上げたらキリがない。自分も音楽に対して一番純粋だった頃の思い出だ。

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 濱田先生には、私がスペインから帰国、中南米音楽社に入社してからもいつもご協力頂いた。中南米音楽の前社長中西氏からは、中村とうよう氏同様、濱田滋郎氏には最初から原稿料なしで書いて貰っているという話を聞き、驚いた。濱田滋郎氏、中村とうよう氏といえば、すでにジャンルを超えての著名人。私が編集長を引き受けてからは、原稿料も正しく?設定した他、いわゆる一般の音楽ライターにもたくさん原稿依頼するようになった。しかし、当時の一般音楽ライターには何も資料なしで、こちら関係の記事は書けるはずもなく、この両先生の了解を頂いて、資料として渡してまでも、ライターの幅を広めることができた、と思っている。

 斯様に、筆者にとって濱田先生は今の仕事の原点を教えてくれた人であり、レコード会社時代にはフォルクローレ、タンゴについては高場将美氏、大分後のことになるが、カリブ、ベネズエラの音楽では当時ソニー・ベネズエラにいた現東大教授の石橋純氏に引き合わせてくれたのも濱田先生だった。

 本当は今でも大好きなイベリア半島系の音楽からは随分離れてしまい、いつも先生には合わせる顔もなく、ここ最近はゆっくりお会いしていなかった。

 昨日、先生の愛娘、吾愛さんのご許可を得て、ご遺体に会わせて頂いた。先生は最初にお会いした時と変わらぬ優しいお顔で眠っておられた。私の母が亡くなる前に、一時柿生の病院にいたが、その時にお宅を訪ねさせて頂いたが、吾愛さんはいらっしゃらなかった。だから、今回があの少女時代以来ほぼ初めて吾愛ともお会いした。吾愛さんから「父はお風呂の中で、本当に苦しむ様子もなく亡くなりました」と聞いた。吾愛さんの顔は、最初マスク越しでわからなかったが、途中マスクをはずして頂いたら、まるで先生と話しているかのように錯覚するほどよく似ていらっしゃる。しかも、「私は今夜もライヴがあるので忙しくしているんです」とおっしゃる。カンテを日本に広めよう、と普及に頑張っておられるのだ。

 先に亡くなられている優しい奥様とも今頃空の上でご一緒に吾愛さんの頑張りを見届けてくれているに違いない。先生を尊敬し、先生の優しさに大きく影響を受けてきたたくさんの友人達と一緒に、大声で言わせて頂きます。ありがとうございました。ゆっくりお眠りください。

享年86歳。東京都出身。通夜は28日午後6時から、葬儀・告別式は29日午前10時から川崎市高津区下作延6の18の1、かわさき北部斎苑で。喪主は長女吾愛(わかな)さん。

                      2021年3月25日 本田健治